過ちを犯す前の日の静けさ
今日、私は会社を退職した。退職理由、一言で言えば、勤労は想像以上に大変なものだからだ。人のためにする気遣いがこれほどまでに疲労へと繋がるとは予想だにしてなかった。誠に、誤算、実に誤算である。
『俺は、退職したぞ。晴れて、ニートになるぞ~」
三十路にさしかかろう人間が、年甲斐もなく、某番組の無人島生活みたいに叫んだ。時刻、午後8時に車に乗りながらの出来事だった。声だけが道路にあるアスファルトを反射して、何度も響き渡る。そこがトンネルだから、よりいっそう木霊する。何度も聴いているうち、後半の言葉を取り消したい気分になった。リサイクルショップで物を売却するとき、身分の欄に無職と記入するような、そんな表現しがたいどす黒い気分になった。
正社員の足かせがなくなった開放感からか、帰路までの時間はあっという間だった。私は、車から降り、自分の家へと一直線で、カントリーロードよりもいっそう寂れた田舎道をとぼとぼと歩いた。
「もしかして、汐満光君?」
とても逃げ出したい気分になった。今や、地に足が着いてない状態。趣味はアニメと読書。休みの日になれば、さんさんと輝くお日様を尻目にするから肌は白く、友達と会う約束を作らず、引きこもってアニメ、アニメ、時々、読書。引きこもり、アニメ、青白い肌。そんな状況で、知人・友人に話しかけられるというリスク。声には聴き覚えがあり、流れは確実に悪い方向へと進んでいる。ここで背中を見せれば私の面目はこの機会にずたずたになること請け合いである。
「こんにちは」
とりあえずの挨拶を繰り出した、今にも消えそうな声で。こんな声しか出せなかった。なにより、私には勇気がなかった。自分自身のステータスをおおっぴろげにはできないほどに、自分のありようが恥ずかしく感じたからである。小さなろうそくについた火のようにか細い声だけを残して、彼女と彼女の会話をさえぎる様に、急ぎ足で走りぬけた。
こんなところで、丹羽野悟子にばったり会うとは思わなかった。説明しておくと、彼女はそれほど可愛くはない。修正しよう、彼女は可愛かった。そう、過去の話になっている。今や、中肉中背の中年に成り果て、あのころの面影はもはやない。いっぱい遊んで、いっぱい思い出があり、今でも私の頭の引き出しのどこかに入っている。その引き出しを忘れてしまった。
大人になるのは悲しいと思いつつ、玄関に鍵をさし、いつものルーティンをこなし、床に就く。今日は帰る前にATMに行った。行ったということは、お金をおろしたということ。財布の中には全財産70万がある。
明日は、私の記念すべきニート聖誕祭です。豪遊しようと思う。お金の使い道は、甚だ見当がつきませんが、何かしらの浪費、人生の無駄遣いをする所存だ。そんなことをぶつぶつ言いながら、就寝した。
この計画が、後に彼の人生に大きな影響を与える。これさえなければ、犯罪を犯すことなく、訴えられることなく、悲惨な現場に立ち会うこともなく、今までどおり何の変哲のない人生をおくれた。彼にとってのこれからは、依然として藪の中だ。