番外編 夫婦
霧島洋子は海を眺めていた。
首都圏からこの海の見える街にやって来てから凡そ三十年、こうして一人で海を見るのは初めてかもしれない。
今から三十年前、洋子は恋仲であった今の夫と逃げる形で、この町へとやってきた。
頼る相手もおらず、隠れるように過ごす毎日は決して楽じゃなかったが、夫とこの町で授かった二人の子供の存在があって今日までやって来れた。
そして、その二人目の子供も昨日県外の大学へ通うため家を出た。
夫は今日も子供達の仕送り費用を稼ぐ為にマグロ漁船に乗っており、暫く家は一人になる。
傍から見れば幸せな家庭だろう、実際幸せだったのは間違いない。
……ただ、洋子には子供達に言えていない秘密があった。
それは自分の実家が暴力団という事だ。
日本最大暴力団組織『青龍会』
その幹部団体である久我組と言えば日本で知らない者はいなかった。
度々組員の逮捕のニュースが流れたり、一時期はその組織名を装ったチェーンメールが学生の中で流行って、信じた息子たちがよく騒いでいたのを覚えている。
洋子はそんな久我組の組長の一人娘だった。
暴力団の娘として生まれた洋子の人生はロクなものではなかった。
家が暴力団というだけで、周りからは距離を置かれ友達も出来ず、教師達からも接待を受けるように優遇されていた。家に帰れば威圧的なスーツを着た男達と父親の怒鳴り声がよく聞こえ休まる場所もなかった。
そして、学校を卒業するとともに洋子は組の若頭をしていた二十歳近く離れた男と結婚することになったのだ。
そんな中で、唯一等身大に接してくれていた夫に惹かれたのは必然だったのだろう。
洋子は当時教師と生徒の関係だった夫に何度も相談したのち、夫は死を覚悟してまで洋子を連れ出し、二人して共にこの町へとやってきた。
最悪連れ戻されることも覚悟していたが、今日まで組の人間がやってくることはなかった。
そう、今日までは……
「……お久しぶりです、お嬢。」
海を見ているよう子の後ろから声をかけられると、洋子は振り返る。そこには見覚えのある家紋のバッチをつけた黒いスーツを着た男が立っていた
「そんな呼び方やめてください、もうそんな風に呼ばれる年じゃないですから。」
洋子はそう言いながら黒いスーツを着た男に対し、おどけて笑う。
この男の名前は確か西方、自分が実家にいた頃はまだ若手で自分と年も変わらなかったが、今日は後ろに部下らしき男を二人を率いている。
「西方さんも随分立派になられましたね。」
「ええ、ありがたいことに今は亡くなった組長に代わり、私が久我組を引き継がせてもらっています。」
「それで、今日はどうしたんですか?今更連れ戻しに来たわけじゃないですよね?」
自分が家から逃げ出してから三十年だ、連れ戻そうとするにはあまりに時間が経ちすぎている。
それに実際はここへ来た理由はある程度予想はついていた。
「はい、実は兄貴……いえ、龍也会長が亡くなりました」
「……知っています、ニュースで見ました。」
その事件は世間でも大きく取り上げられていた、日本最大級の暴力団組織『青龍会』の会長が亡くなったと。
そしてその会長である久我竜也は、洋子の元夫であった。
と言っても形だけの夫婦で、仮面ですらなかった。
当時の洋子は竜也に怯え、距離をとっており、竜也自身も洋子に興味がなかったのか、夫婦でありながら会話もロクにせず抱かれたことも殆どなかった。
「ニュースでは亡くなったとしか報道されていませんでしたが……。それだけではありませんよね?」
洋子は尋ねているが大体見当が付いている。
恐らく誰かに殺されたのだろう、会長の立場となれば命を狙われてもおかしくはない。
だが暴力団組織のトップが殺されたとなれば、大きな抗争に繋がりかねないから恐らく警察とも連携して意図的に隠しているのだろう。
「フフッ言えませんからね、何せ龍だの鬼だの呼ばれていたあの久我竜也が、猫を庇ってトラックの前に飛び出して死んだなんて言ったとしたら組織の面子が丸つぶれですよ。」
「……は?」
その言葉に思わず洋子が呆けた声を出す。
「ご、ご冗談を……」
「ドライブレコーダーできちんと記録されていたので間違いない事実です。会長はトラックの前に飛び出した猫を守るために、自らトラックの前に飛び込んでいました。信号も赤で、運転手にはなんの非はありませんでした、ただそれでも納得の行かない連中はいるので死因は伏せさせていただきましたが。」
「……」
――私にはあの人の考えていることが理解できない。
自分が覚えていた竜也はそんなことするような男ではなかったはずだ。
洋子の知っている竜也と言う男は、武闘派ヤクザと呼ばれ体中に傷跡があり、寡黙かと思えば突然怒鳴り散らす、まるで嵐の様な男だった。
よく体に血をつけて帰ってくることもあり、家の人間には慕われていたが、暴力を嫌う洋子からすれば恐怖の対象でしかなった。
そんな男が猫を庇って死んだというのだ、到底理解できないだろう。
――三十年で何があったというの?
「それでですがお嬢……お嬢?」
「え⁉あ、なんでもないです。話を続けてください。」
「はい、それでですが、会長の遺品整理をしていたのですが、その時出てきたこれをお嬢に渡そうと思いまして……。」
そう言って、西方が胸元から一冊の古びた小さな本を取り出すと、洋子に差し出す。
タイトルを見てみるとそれは『異世界チート物語』と言う昔洋子が読んでいたライトノベル小説だった。
「これが……遺品?」
「はい。」
「……何かの間違いでは?」
「間違いなく兄貴の物です。」
「どうしてこんなものを?」
「昔俺達が薦めたんですよ。」
「俺達?」
「ええ俺達、組の者です。」
ますます訳が分からなくなる、ヤクザが上の人間にラノベを勧めるなんて聞いたことがない。
そんな表情が顔に出ていたのか、西方はフッと笑うと、説明を始める。
「兄貴ずっとお嬢との関係の事に悩んでいたんです。年も離れているし、お嬢が兄貴の事を怖がっていたのを気づいていましたから、だから初めは極力距離をおいていたらしいんですが、このままではいけないと思い話題を見つけようと皆に聞いて回っていたんですよ、若い連中やキャバ嬢に若い女の子が好みそうな物や流行ってる物とかを、それでラノベを読んだり、料理をしたり挙句の果てには裁縫とかもし始めたり……」
――あの人が裁縫……
「普段ハジキやドス持ち歩いてる人が、包丁や針で手を傷だらけにする姿はとても微笑ましくて、本人は隠してるつもりだったみたいですが組の連中は全員気づいていましたよ。それで皆協力してお嬢の好きな物を調べ回ってたんですよ。お嬢と会長の中が少しでも縮まるようにと……でも、叶いませんでした。」
それは洋子が家から逃げ出したからだろう。
「そんなこともあってお嬢が男と逃げた時、親父も組の連中もキレて、見つけ出して必ず海に沈めたるって騒いでいましたからね」
西方が笑いながら言うが、その言葉を聞いて洋子はゾッとする、ヤクザたちがそう言うと本気が冗談かわからないからだ。
だが、未だに洋子も夫も健在である。
「ではなんで……」
「兄貴がね……親父の前で指を詰めたんですよ『洋子さんを幸せにできなかったのは俺の責任です、だから、これで二人を許してもらえないでしょうか』って自分と……お嬢の旦那さんの分、二本の指を……流石にそんなケジメの付け方されちゃあ、親父も俺達も何にも言えなくて、それ以降二人を追うのをやめたんです。」
――そんな話聞いていない……
ずっと嫌われていたと思っていた。
年も離れているし、あの人には色んな女性が言い寄っていたし、自分なんかよりもいい女性はきっと沢山いたはずだ。
夫と逃げた事にも後悔はない、愛する人と一緒になれたし、二人の子供にも恵まれ幸せだった。
間違いなくこの選択は正しかったと言えるだろう。
ただ……もし、ちゃんと話し合えていたのなら……また違った未来があったのかもしれない……
「……もし、よろしければ、今度線香をあげに行ってもよろしいでしょうか?父の分と……あの人の分を。」
「ええ、きっと喜びます。」