6 安定王子と暴走姫
聖い祈り。
それは、天樹の巫女が捧げねばならない神への供物だという。生涯独身を貫き、無私の心を以て世界の安寧を祈る者。ゆえに巫女は尊ばれる。巫女を奉じる天樹の国もまた。
(神。というのが実は……よくわからないんだけど)
どこかぼうっとした面持ちで頬杖をつき、授業の板書きを見つめる。
今は算術の時間。一応前世で高校入学までの記憶があるリエネには、義務教育課程までの知識はあった。四則演算は今さらだし、体積や面積、時速に割合、連立方程式あたりなら覚えている。この世界特有の数式はまた別だが。
それにしても。
いつもの定位置。後方の窓際。今日は、やたらと包囲網が厚かった。
右にメイレニア。前にソーニャ。左にセフィル。普段は姫だけなのに。
かれらは黙々と問題とにらめっこしている。にも拘わらず、妙な緊張感が肌を刺した。
つんつん、と右肘を突かれる。
「ね、これどうやるの? 教えてリエネ」
「あぁ……石像の体積? これは、たしか水槽を二重にしてに水を張って……」
「おーい。そういうのはソーニャ殿が得意だろ。こっち頼む」
「え? えぇえ??」
「いいわよ。さ、メイレニア様。どこ?」
あわあわと眉尻を下げるメイレニアに、振り返ったソーニャが椅子を傾けてにっこりと迫る。
幸いなことに、淡々とした算術教師は私語に対してそこまで厳しくはない。あるいは、教壇にまで聞こえてはいなかったのかも知れないが。
……おかしいな、とリエネは訝しんだ。
先日の剣術の時間以降、セフィルの防御壁がある一点において大変あからさまになった。
(わざとわたしから姫を遠ざけてるというか……何で? セフィルは、姫を好きな訳じゃないと言ってたのに)
「――こら。また見当違いなこと考えてるだろ」
同じ十四歳とは思えない、大人びた微笑を湛えたセフィルがリエネの顔を覗き込み、右頬に触れた。
軽く握った手の甲、その指の背がさらりと滑る。
「―――~~っ??! ……へっ、あああの?」
あまりにも予測不能な感触に思わず変な声が出た。
こぼれんばかりに開かれた、深い、宵闇のような瑠璃色の瞳。よく見ると、そこにはきらりと金の輪がかかっている。
それを、じぃっ……と見つめるセフィルの目許がほんのりと和らいだ。
「ほんと……厄介なまじないだよなぁ……」
(?)
苦笑じみた表情。苦いのか、甘いのか――どちらともなのか。
その一言が、妙に引っ掛かった。
「まじない? なんで今それ?」
「!」
ガタンッ!!
突然、メイレニアが椅子を後ろに倒して立ち上がった。
さしもの教師も「ど……どうしました姫君?」と声をかける。なんだなんだと教室中の視線が集まり、安穏とした後方窓際席は一転、針の筵と化した。
メイレニアはそれらを一向に気にせず眦を強め、さっと挙手する。さらに堂々と自己申告した。
「すみませんっ! わたくし、もの凄くお腹が痛いので従者に医務室まで連れて行ってもらいますわ!!」
「えぇ…………うそ、姫様。それってお腹が痛い人の出せる声じゃないよね? ……て、痛っ!??
ちょ、ちょっと待って姫。お願い。歩く! ちゃんと付き添うから! 頼む、放してっ?!」
「失礼いたしますっ!
容赦ない攻撃――もとい、思いきり耳を引っ張られた従者とその主は、さんざん授業を蔑ろにされた哀れな教師の答えを待つことなく、賑やかに教室をあとにした。