15 選びとる道
『ここに住みたい……? いいわよ、べつに』
あっさりと言ってのける妖精の少女に、満身創痍の青年は信じがたい表情を浮かべた。
曰く、そんな旨い話があってたまるものかと。
けれど、――まさか? の思いから、おそるおそる訊き直した。
『本当……か? 私には何もない。そなたに支払うべき代価も名誉も……何も。我が身一つなのだ。国を追われ、引き連れて来たのは数少ない私の臣とその家族だが、この樹に全員で住まうのはさすがに目障りだろう。
そなたの家族は? 王は? ここはすでに、誰かの縄張りなのだろう?』
――――実直な男だな、と感じた。
永く。それこそ天樹が新芽となってこの世界に根づいたころから存在する自分としては、充分稀有な人間だと思う。
ふふっ、と妖精は笑う。
『強いて言うなら……ここは私の国よ。でも、私たちそのものでもある。いいのよ、住んでくれても。――あぁでも、そこまで気に病むのなら』
――――提案があるのよ? と、続けた。
古い、古い記憶。
時おり波のようにさざめいては繰り返し、懐かしむ彼の面影。紫の瞳を持つものたちは今もこの天樹に生きて、寄り添ってくれている。
* * *
陽が昇ってきた。一時間目は大陸史だったはず。
主従はぽつり、ぽつりと会話を交わして来た道を戻る。
リエネは、とりあえず男のままだった。
ぐすっ、と鼻をすすり、まだ涙目のメイレニアは、リエネに手を引かれながらえぐえぐと喘ぎつつこぼした。
「もう……、信じらんない。なんで記憶も姿もすぐに取り戻さなかったの? せっかくの大チャンスだったのに。千載一遇ってこういうのを言うんでしょ? ばかリエネ」
「姫様。可愛い顔がだいなし」
「うるさいわね! 誰のせい、だと……」
「わたしかな」
「……」
口をつぐんでしまった少女をちらり、と眺めてリエネは微笑んだ。平気。すべて望んだことだから。
――結局、女に戻ることは保留にした。
記憶は手放したまま。だがそれでいいと思う。
「仕方ないでしょ。わたしの……ひょっこり復活した『前世の記憶』が、消えた記憶の穴埋め――“変化に耐えきれなかった心の欠損から生じた反作用で自然修復だった”なんて教わっちゃあ、さ」
ざくっ。ざく、と。
固まりつつある雪の層を蹴散らし、姫のために大まかな道を作る。小薮だらけの径はとうに抜けた。
登校にはまだ早い時刻。当然辺りに人影はない。よって、一面の銀世界に自分たちが付けた遠慮のない足跡のみが増えてゆく。
――……過去。
生まれる前に過ごした場所も、今このときも夢じゃない。ずっと続いてる。少なくともそんな人間は自分一人じゃなかった。
昔好きだった、守れなかった『伊織』――セフィルも側にいる。
彼女だった彼に、報いたい気持ちは当然あるんだけれど。
「昔……生まれる前、守れなかった女の子がいたんだ。だから、今生で貴女を守るべき家に産まれたことに意味があるなら、できればそれを全うしたい。せめて、在学中だけでも……あるいは貴女が正規の巫女長に就任するまで。数年の間だけでも」
「……それで保留したの? あのとき」
「うん。迷惑だった?」
「!! めいわく、だなんて……っ!」
ふわり、と靡いた桃色髪が一瞬風を受けて広がる。メイレニアは勢いよくリエネへと飛びついた。
腰の後ろまで回された、ふくふくに着膨れした細い腕。――思いきり、抱き付かれている。
よしよし、と頭を撫でて抱き返すと震えられた。なぜ。え、寒いんだろうか……と、覗き込むと耳まで赤い。
(逆? 熱いのかな。やっぱり着すぎだよね、これ)
あとで脱がさないと――と生真面目に決意し、リエネは、それはそれは柔らかく、笑みを含む声で囁いた。
「守らせて。どうかこのまま。……セフィルのことは、せめて、貴女を期日まで守りきったあとでいいんだ」
(彼も。何かの気の迷いと言えなくはないし。前世はともかく今は王子だし。しかも大国の世継ぎ……いや、無理だろ普通に考えて。何考えてんだ、あいつ――)
少女を抱きしめつつ、女の自分に求婚したという王子に考えを巡らせていると「ばか。リエネばか、本当に殺しにかかってる……ひとでなし。好き」と、胸元から盛大に告白された。
ほぼほぼ貶されているが、好かれてるならまぁいいか……と、一まとめに受け取ったリエネは春の陽射しのように微笑んだ。
「ありがと」
「どう、いたしまして……」
主の耳は赤いまま。雪原は白く、空は青い。気持ちよく晴れている。
どこかでまた、誰かが学舎の一角で妖精の気まぐれに遭遇しているのかもしれない。
その奇跡を。
結果として得られた自分の軌跡を、しずかに噛みしめる。
「行こっか、姫様。今日は余裕で間に合うけど。食堂で温かいお茶を飲みたいなら、そろそろ行かなきゃ」
「…………うん!」
ぱっと顔を上げたメイレニアはひどく愛らしくいとおしい。その分、同じだけ胸が痛む。けれど。
(痛まないより、ずっといい)
手を繋ぐ。手袋越しのちいさな手。
セフィルは怒るかな。ソーニャ様はどうだろ……と、ちょっぴり苦笑を忍ばせつつ。
リエネはまた、一際つよく目の前の膝丈の雪を蹴りあげ、真あたらしい道をひらいた。
了




