1 やる気のない従者
「知ってる? 積もりたての雪の上に、妖精の足跡を見つけられたら良いことがあるんですって」
「へぇ……」
パタン、と下駄箱の扉を閉める。
(こういうのは日本と同じなんだ)と妙に感心しつつ、リエネは足元に落とした布製の上履きに足を突っ込んだ。
ぶっきらぼうな返事に気を悪くした様子もなく、今日も朝からまぶしい笑顔を振りまく桃色髪の少女はクスクスと笑みほころぶ。
綿飴のようなふわふわの髪は、光を透かす淡い色。
これはこれで見馴れない。どことなく桜の木のようでもある。
相反する懐かしさと斬新さ。
得もいわれぬミスマッチがその髪色に馴染み、同居して視線を奪う。リエネはふい、とそっぽを向き、意識してそれを断ち切った。
「靴。かかと、踏んでるよ? 乱暴だなぁ」
「ほっといて。ていうか始業に遅れる。いこ、姫様」
言葉と同時にぐい、と腕をとる。それ以上乱暴に扱うわけにはいかず――リエネは眉ひとつ動かさず、手つきだけはひどく紳士的に彼女をその場から動かした。
リエネ。
あたらしい名は妙にしっくり来るが、自分にはまだ前世の記憶のほうが濃い。
日本、という場所にいた。
学校で友だちとそうじゃない人らと普通に遊び、テストや行事、部活なんかをこなしたり。家でも問題はなかった。両親……? についてはうまく思い出せないが、概ね平和に暮らしていたはず。
今、身に付けている制服は黒っぽい深緑に白ラインが一本入ったセーラー襟。タイも白。ズボンと上着は膝丈。彼女――主筋にあたる王家の姫、メイレニアは布地をたっぷりと使った長めのフレアスカート。両者ともに膝から下すべてを覆う黒靴下を履いている。
(下駄箱とか、服とか……習俗、文化? ちょいちょい被るんだよね)
まるで、アニメとかゲームみたいに。
そのことが、リエネにいつまでも「この世界」を遠いものと捉えさせる。
生きて動いている。色彩のうつくしさも含め、すべてが夢のようで。
――埒もない思索に耽っていると、始業を知らせる予鈴が耳に届いた。
学園敷地内に建つ時計塔。最上階を飾る大きな鐘の音は、どことなくおごそかな教会を思わせる。
リエネは歩幅のちいさな姫君に合わせ、長くまっすぐな廊下をゆっくりと歩いた。
* * *
「ごきげんようメイレニア様。今朝もゆっくりね?」
「ごきげんようソーニャ様。えぇ、私一人ではきっと、もっと遅かったわ」
ふふっといたずらに笑む主の瞳に邪気はない。暮れどきの空みたいな紫色は、この世界でも珍しい。
リエネはカタン、と椅子をひいて彼女を座らせると、みずからも隣の席に腰かけた。
流れるように行われる一連の朝の動作。
教室は、まだお喋りに興じる生徒でいっぱいだ。
男女比率は半々で総勢約三十名。年齢は十歳から十五歳まで。どの生徒も見目よくやんごとない空気をまとう。さすが、王族および高位神官家専用クラス。
「いいわねぇ……従者付きで学園生活が送れるなんて。うちの父様はだめ。『良い機会だ、単身で身の回りのことも出来るようになって来なさい』なんて、無茶ぶりもいいところよ」
ちらり、と茶色の瞳がこちらを向く。
すべらかな象牙の肌、細面に涼やかな目許の凛とした顔立ち。気性そのままの真っ直ぐな黒髪は背の中ほど。総じてクールビューティーだ。
リエネは視線を和らげ、口許を僅かにほころばせた。遥か東にあるという小国の王女ソーニャは、いわゆるアジア系だ。見ているとほっこりする。
「……っ!」
ソーニャはたちまち頬を赤らめ、きつめの目を丸くすると、ぱっと視線を逸らして前を向いてしまった。
彼女が座っているのはメイレニアの前の席。
こうなると綺麗な髪と姿勢の良い背中しか見えない。
なんだろな、直答したほうが良かったかな……と首を傾げていると、右側から意外な素早さで耳を引っ張られた。
「いたっ」
「もう。リエネはソーニャには甘いんだから……私にも、もう少し優しくしてくれていいのよ?」
「充分優しくしてるよ姫様。ほら、前向いて前。先生が来てる」
「あ」
――助かった。
わたしが他の子から話しかけられるとすぐ機嫌を損ねる姫には、しょっちゅう手を焼かされる。
ほうっと安堵の息を漏らしたリエネは、机の天板を開けると一時限目の教本を捜し、隅っこのペンを取り出した。
しずかに閉める。カチッと音が鳴る。
備え付けの木の机のなかには、筆記具と各教本がすべて入っている。生徒が持ち運ぶのはノートや小物類だけ。
さすが各国の王族貴族が集う、由緒正しき学園と銘打つだけのことはある。光の満ちた学舎は、どこもかしこもきちんと整えられていた。
筆記具は万年筆のようなもので、紙も滑らかなパルプ素材。なんとなく羽ペンや羊皮紙ではなくて良かった……と、今日もしみじみノートを広げる。
すでに授業は始まっている。
右隣からちくちく刺さる視線はまるっと無視し、リエネは『魔法学基礎』と題されたうつくしい装丁の辞書のような教本を、はらりと捲った。