Null(ヌル)
世界が崩壊を始めていた。
空間に大小の亀裂が無数に入り、超安定物質が流れ込んでくる。
空間自体に段差のようなものがあり、視界がおかしくなってしまいそうだ。
「おい、農家。こいつも連れて行け」
アンドロイドはこっちにむかって、子供を放り投げてきた。
農家は両腕を大きく広げて、子供をしっかりと受け止めた。子供はすでに気を失っている。
農家は見上げた。中身はアンドロイドだが、外見はただの人間だった。だから、恐怖を感じないとでもいうのか。それとも、アンドロイドだから人を守ろうとしているのか。わからない。
「行け。お前はまたどっかでアスパラでも育てろ」
「収穫には最低でも3年はかかるんだ」
「そのガキにも手伝わせろよ」
「この子供は誰なんだ」
アンドロイドは視点を動かさずに黙った。
「俺の主人だよ。もう一人は死んだ」
同じ表情のまま、アンドロイドは続ける。
農家は何も言えなかった。
その代わりに、走り出した。
走った。
走り続けた。子供をきつく抱いて、転ばないように気をつけながら、必死に走った。
救命用のフィグメントがこちらに向かってくる。
四つ足の人が乗れるロボットで、操縦は誰でも簡単にできる。
そしてフィグメントは出入り口でもある。
この世界と外の世界の。
フィグメントもアンドロイドだった。
「大丈夫ですか」
無機質な音声が聞こえた。
「早くコクピットを開けてくれ、この子を」
「わかりました。あなたも早く」
コクピットが開き、フィグメントが手を伸ばしてくる。
「待て、俺は戻る」
「駄目です。危険が迫っています。あなたをログアウトさせます」
フィグメントが農家と子供を両手で囲うようにして持ち上げた。
「待て」
コクピットに無理やり押し込められた。
農家の視界は真っ暗になった。
「お前らは出さねえよ、ここから」
アンドロイドはフィグメントの大軍を見上げながら、そう言った。
農家たちが完全にログアウトするまでには時間がかかる。
こいつらは規定の通路を使わなければログアウトできない。
人間ではないからだ。
コクピットが開いた。
「どけ。それでもお前はアンドロイドか! アラン・ユークリッド!」
知っている顔のアンドロイドだった。
「知るかよ。そもそも、自分が仕えた主人を守るのが、本物のアンドロイドだろ?」
アランはその場に自分のフィグメントを作り出した。
コクピットに乗り込み、リフィルを差し込む。
コクピットは一瞬きらめいて、二つのレバーが現れた。
ディストレーション。
シンクロトロン 。
アランはクラッチを踏んで、アクセルに足を乗せた。吹かしてからクラッチを浮かせ、ディストレーションにギアを入れた。
人間の体に慣れたせいか。
関節が痛い。
何重にも、何重にも連なった世界。
人間でもアンドロイドでもなんでもいい。
俺はこうやって生きてきたし、今だって生きている。
なんだっていい。
俺は生きている限り、主人を守るだけだ。
もう一回クラッチを踏んだ。シンクロトロンにギアを上げた。
フィグメントの大軍がゆっくりと動き出す。いやゆっくりに見えるだけだ。巨大な波のように遅いかかってくる。
アクセルを吹かす。
結局自分は、人間なのかアンドロイドなのか。
あのガキに、主人に、降りかかる全ての災難、悪意、くそみたいな運命を、払いのけて、守る。
込み上がってくる、なにか。
感情か、命令か。
全力で、踏み込む。
それをただ、アランは雄叫びに変えた。