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地賊(ちぞく)

 



 アコースティックギターを三年前に買った。つまりこっちへ来てすぐということだ。


 十二月の末だった。


 西日本ではあり得ないほど雪が積もっている。重たいとか軽いとかよくわからないが皆、傘をさす。北海道だとまた違うらしい。

 男は歩きで長い坂を登っている。歩道は雪に覆われているが車道の方は完全に溶けている。だから滑って転ぶことはない。


 ここらの人間の言う重たい雪が音もなく降っている。上から真っ白な塊が真下へ降ってくる。ウインドブレーカーをかぶり下を向いて歩けば、苦にはならないし、寒くもない。


 仕事は六年目。馬鹿な言い方をしてやれば社会人六年生。


 三年目で転勤になった。既に自分の生まれた街から離れた街で部屋を借り、生活していた。さらに生まれた街から遠くへ離れることになった。

 周りの人間には色々言われたが俺は嬉しかった。


 もう引っ越しには慣れていた。アパートではなく一軒家を借りた。社の寮は元々なかったがなくてよかったと思う。五万で家を借りることができた。多分、まだまだ人は住めると思う。俺が住んでいる間は大丈夫だろう。

 坂の中腹。そこに階段がある。


 階段の向こうへ男は行く。右手は歩道、ガードレール、崖のような下り坂、そして街が広がっている。


 せっかくロードヒーティングの処理が行われているのに車は滅多に通らない。というよりも人も通らない。


 階段を登る。右手には黒いケースに入ったアコースティックギター。

 左手はポケットに突っ込んでいる。手すりにはつかまらない。赤く錆びてしまっていて、手袋にその錆がくっついてくるのである。しかも色は移るし、毛玉になりやすくなる。


 階段を一度曲がったところでその左手をポケットから出した。


 先週は凍っていなかったのに。男はそう思った。靴はブーツだったが、登山用などではない。若い奴らがジーンズに合わせて履いているようなものだ。長靴代わりに使っていた。別に街へ行けばこれを履いている人間は割といる。


 地下鉄で学生なんかも似たようなのを履いていた。こっちじゃ、そんな光景は見られない。そもそも地下鉄がない。


 路面電車が走っているが大きな通りだけで、あとはバスだけだ。JRに乗ったら、そのまま違う街へ行ってしまう。だから車も船で持ってきていた。


 会社へは自分の車で行くのである。


 階段は土を削って金属の板を置いたような造りをしているため、落下する心配はない。


 歩を進めるたび、かつん、という乾いた音が鳴るのだが、それは軽い音でもあった。板が薄いのだと思う。手すりとつながっている。それもあり、手を掛けないのである。


 ここから落ちたら多分死ぬ。そんなことを考えるのが容易な高さなのだ。風が強くないのが、幸いだ。


 左手の斜面の雪が少し舞い上がり、視界に入ってくる。

 思ったそばから。そう思いながら男は首を右へ回し、雪をやり過ごす。

 右に背の高い木々が現れ、視界が安定した。斜面を四分の一程度、回り込むように登った。


 正面のフェンスの穴を腰をかがめて抜ける。

 真っ白な校庭。廃校になった校舎からは遠い。ずっと向こうの空まで見える。曇っているが、なぜか眩しく感じる。

 男は目を細めた。

 

 少し、積もってしまっている。

 フェンスの上から、こちら側へ垂れ下がる、栗や松の木の下。それでも、他のところよりましだ。細かな枝などは雪の下から顔を出している。

 男はギターケースを横に倒して置き、足で切り株に乗った雪を雑に払った。金属の留め具を外し、ギターを取り出す。


 弦の間に挟まったピックを抜く。人差し指で二番目に細い弦の一番上のところを押さえる。中指、薬指は隣りとその隣の弦。二つ目、三つ目。その音でてきとうに何度か鳴らす。上から下へ弾き鳴らす。四回に一回くらいの割合で下から上にも弾き鳴らす。動く指は中指と薬指だけ。


 ただ隣りへ移ったり、離したりするだけだ。


 口で冷たい大気を吸い込み、ギターに負けないぐらいの声量で叫んだ。


 どうせここらに人はいない。


 いつもそうだった。いつもそうだった。そんな歌。元々この歌にメロディーなんてない。誰のために歌うでもない。


 そんな歌。



 ギターを買ってから三年も経つのに男はほとんどコードを知らないし、どれがドの音なのか、レの音なのかもよくわからない。かろうじて覚えているのは、F、Aマイナー、Gぐらいだった。指の押さえ方。それを知っているだけ。それでも自分の歌を歌うだけなら、音は足りている。難しいことはできない。やりたくてもできない。


 ここには俺のことを知っている人間なんていない。一人で生活できる。コンビニすら遠いが、インターネットで何でも買える。静かで小さいが確かな自由を手に入れた。歌なんかも歌える。どれだけ叫んでも誰も聞いていない。


 だからこんなみじめな歌を歌うのか。

 ロックなのかフォークなのか、そんなこと知らない。

 全部昔のこと。全部自分のこと。嫌だったこと。そればっかりだ。


 親が離婚して小学校を転校したこと。

 友達ができなくてのらねこに餌を上げて、知らない大人に怒られたこと。

 音楽の時間が終わると頭が痛くなり、家に帰ってから吐きまくり、次の日まで眠っていたこと。

 中学校が荒れ、毎日自習の時間が一回はあったこと。周りは談笑している中、一人で勉強していたこと。


 もう本当にどうだっていいことばかり。

 でも今の自分には、似合いの言葉ばかり。


 どうしてこんな歌ばかり歌うのか。作るのか。

 どうでもいいことなのにそれにこだわって忘れられなくて、叫ぶ。


 俺は負けてない。

 負けてなんかいない。

 逃げてなんていない。


 だからこうして歌っているんだ。全部なかったことにしたいことばかり歌うのは、今まさに逃げてなんていないと自分に言うことができるからだ。

 

 そんな歌。

 

 そんな歌ばかりを二本の指を動かすだけの単純な音に合わせて歌う。

 

 これまでも似たような音、似たような言葉ばかりだった。


 死別。迷い。不安。未来。過去。


 全て自分のこと。本当は目をそむけてしまいたいこと。

 思えば子供のときのことばかり。

 多分自分に歌っているんだと思う。

 

 そんな歌。

 積もりに積もった雪は暗闇の中でさえ青っぽく見える。


 気付くと雪は止み、輪郭が曖昧な月が空にあった。


 それは泣いているから。どうだっていいはずなのに泣いているから。


 油断するとひっくり返りそうになるほどの高さで声を張り、歌う。言う。言い聞かせる。結局はいままさに歌っている、俺自身に。


 半分だけ表情を動かして、自分をあざ笑う。

 

 左の掌の中心だけ冷たく濡れている。

 こんな雪ん中。

 魂、すり減らして。

 それでも自分の心一つ、自由にできない。救えない。楽になれない。

 ほんとこんな雪ん中。




 信念は誰に向かって、どこに向かって貫くのか。

 貫かれた側。貫かれる方。そういうこと。

 俺もお前を貫いたってこと。

 まだ死にたくないって信念があったから、お前を本当に貫いたってこと。


 そしてその勢いのまま俺は逃げ出したってこと。 

 

 お前の名前も素性も知らない。でもお前は狂っていた。

 ニュースは今日も天気予報とあの事件の現場を中継。




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