第二章 秩序を求めて−3−
移転暦一八年六月
この地に出現した聯合艦隊所属艦艇(戦艦『扶桑』および『山城』は除く)および将兵(一部人員を除く)が、秋津島統合防衛軍司令部のある南秋津市に再集合したのはこの地に出現してから丸三年を経た六月二一日のことであった。翌二二日には天皇陛下が来島し、お言葉を述べられた。今回新たに到着した艦艇は次の通り。
第一戦隊戦艦『大和』『長門』『陸奥』
第七戦隊重巡『熊野』『鈴谷』『三隈』『最上』
第二航空戦隊空母『飛龍』『蒼龍』
第二水雷戦隊軽巡『神通』(153ゆうぎり)駆逐艦『嵐』『雪風』『天津風』『時津風』『秋雲』『磯風』
第三水雷戦隊軽巡『川内』(151あさぎり)駆逐艦『舞風』『浦風』『初風』『浜風』『谷風』『萩風』
第二八駆逐隊駆逐艦『白露』『村雨』『五月雨』『春雨』『夕立』『夕暮』
水上機母艦『千歳』
(なお、戦艦『扶桑』『山城』は聯合艦隊から海軍に移管)
秋津島統合防衛軍司令官には山本五十六海軍大将が着任、海軍長官兼任。山本の上には統合幕僚本部長および政府のみで、こと秋津島防衛に関しては全権を任される形になる。秋津島統合防衛軍司令部には参謀長は置かれず、副司令官が置かれるが今は空席、主席参謀に海軍から大井保海軍少佐、以下数名の尉官が要員として海軍より派遣された。
ここで改めて述べておくと、海軍(旧海上自衛隊)将兵と秋津島統合防衛軍将兵との間には移動権がないのである。つまり、対外的(一般国民や友好国)には同一組織内の人間であるが、組織内では日本海軍と秋津島統合防衛軍海軍とは別組織として認識されており、通常であれば発生する人事異動は両組織間では発生しない。例外的に参謀として陸海の二名とその配下の数名のみ、派遣されており、その場合でも海軍からは出向扱いである。海軍側では秋津島統合防衛軍の実務部隊艦艇の乗員やパイロットとして移動させることはないということである。その逆もまた同じである。
後年、この点をして、日本軍は秋津島統合防衛軍を下部組織として扱っていた、といわれる所以である。しかし、時代と教育制度の違いで分けざるを得なかった、という見方もまた存在するのである。
大井保海軍少佐はこの人事を言い渡されたとき、「厄介払いされたかな」と一言、同期の泉秀二陸軍少佐に語ったといわれている。なぜなら、彼こそが最初の暗号を解き、この地に現れた聯合艦隊所属将兵の配備先として秋津島を選び、艦艇を配備しなおした張本人だからである。また、海軍内では出世コースから外れた部署に配属され、悠々としていたいわゆる窓際族であったのだ。それがために少佐に昇進したのも同期より二年近く遅れていた。
ともあれ、これで秋津島およびマレーギニア海峡防衛軍の一部陣容が整うことになった。その他主な人事は次のようになっていた。
海軍次官 近藤信竹中将
海軍作戦本部長 宇垣纏中将
聯合艦隊司令長官 高須四郎中将
機動艦隊群司令官 塚原二四三中将
第一航空戦隊司令官 山口多門少将
第二航空戦隊司令官 草鹿龍之介少将
第三航空戦隊司令官 藤田類太郎少将
第一〇航空戦隊司令官 木村進少将
航空集団司令官 南雲忠一中将
第六艦隊司令官 小松輝久中将
重巡艦隊群司令官 阿部弘毅中将
水雷部隊群司令官 栗田健男少将
駆逐艦部隊群司令官 田中頼三少将
といったところで、第一航空戦隊司令官山口多門、第二航空戦隊司令官草鹿龍之介、第三航空戦隊司令官藤田類太郎、第一〇航空戦隊司令官木村進以外は基本的に陸に上がることとなる。
まず、やることは情報収集である、という本国の意向を山本大将に伝えた大井保少佐は第六艦隊(潜水艦による艦隊)すべての潜水艦による、細やかな情報収集、航空集団配備の対潜哨戒機による情報収集を具申する。それに応じて山本は第六艦隊司令部(司令官小松輝久中将)および航空集団(五一航空艦隊と称されることが多い)司令部(南雲忠一中将)に出撃を命ずることとなる。彼は知っていたのだ。情報がいかに大事であるかを。
さらに海軍陸戦隊三個大隊にはそれぞれニューロギニア、サウロギニア、イースロギニアに派遣、七月三○日までの治安維持および情報収集活動を上申する。これによって秋津島には一個大隊が残るだけになる。これに対して統合防衛軍幹部は秋津島鎮守府(聯合艦隊所属兵はこう呼んでいた)の守りができないと反対したが、期限付きでそれ以降は必ず呼び戻すことで合意を得る。ちなみにミッドウェー攻略部隊として二○○○人の陸軍部隊(一木支隊が含まれており、管轄を海軍に移して陸戦隊とした。再教育で最も時間を要した部隊といわれていた)いたのである。
次いで、改装なった空母『瑞鳳』および第一二水雷戦隊軽巡『北上』(155はまぎり)『夕風』(122はつゆき)『三日月』(123しらゆき)からなる部隊を抽出し、マレーギニア海峡からパリエル王国のパリスタ港までの航路哨戒を上申、実行されることとなる。
マレーリア半島とニューロギニア島に挟まれたマレーギニア海峡は、幅二五〜一八○km、深さは二八〜三三m、長さ四二○kmで、かつ、岩礁や浅瀬が多く、このため大型船舶の可航幅が三km弱の場所すらもある。この地では今のところ最大の難所である。ニューロギニア、イースロギニア、サウロギニアそれぞれの間にも海峡が存在するが、いずれも水深が浅く、もっとも深いところで一五m程度しかなく、三島に囲まれ、航路が複雑なため、大型艦は航行できない。
友好国であるパリエル王国は紅茶の産出および香辛料の産出が豊富であり、この国との交易で紅茶や香辛料が輸入されている。ちなみにコーヒーの産出される国は無く、秋津島での栽培成功により、供給されていたが、サウロギニアで自生が確認されており、今後はこの方面から輸入も期待できると思われている。
ロギニア三島の中でもっとも日本に関心を示し、交易に熱心だったのは、秋津島に一番近いニューロギニアではなく、一番遠いサウロギニアであった。この地を統べるマルマクリナンは前統治者の三番目の子供であり、早くから日本(秋津島)の工業力を目にし、マレーリアなどの発展を目にし、自分たちも、と考えていたらしい。しかし、他の二者はそうは考えておらず意見が食い違い、それがための内戦だったようである。そのため、サウロギニアは三島の中で一番発展していた。だが、この島はあまりにもオーロラリア大陸に近かった。オーロラリア大陸西北部の角のように北に飛び出した半島と二○○kmしか離れていなかったのである。