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第二章 秩序を求めて−2−

移転暦一七年一〇月


 一隻の貨客船がナミル共和国から出港した。ナミル共和国とはサウロギニアの東方にある巨大な島の東端部に位置する国で、工業レベルが高く(といってもゴリアス共和国ほどであったが)、漁業が盛んでサウロギニアとの交易があったのである。サウロギニアのマルマクリナン主席大臣に仲介を取ってもらい、何度か交渉を続けてきたのだった。


 ナミル共和国ではリン鉱石が産出することが三度目の交渉で判ったのである。リン鉱石は他の友好国でも産出するが量が少なかった。そこで日本は工業技術や加工品との交易を申し出ていた。その交渉がうまくいったため、外務省職員の大浪康太郎は上機嫌であった。後は秋津島から飛行機で日本に帰り、外務事務次官および外務大臣に報告するだけであった。


 ナミル共和国ナミロキ港を出港して二日目のことであった。突然軍艦に停船を命令されたのである。オーロラリア帝国所属と名乗る船であった。大浪は思い出した。高校の後輩で今は海軍にいる大井保から聞いた話し、それはサウロギニアの南東にある大陸にあり、白人至上主義の国家でインデリア海の国家を占領しようとしているらしいと言うことであった。なぜすぐ北にあるロギニア三島にやってこないのか理由がわからないとも言っていた。


 この貨客船は秋津島在住の日本人が現地住人と共同でやっている船会社のもので普段はマレーリアやシナーイ、ゴリアスとの航路についている小型貨客船だった。今回は大浪たち数人でチャーターしている。もちろん、ナミル共和国との交易をしたいと考えている秋津島の貿易会社の日本人も数人乗っていた。一度砲撃音の後に船が大きく揺れた。威嚇射撃を受けたのだろう。船長は停船を命じたようだ。


 臨検のために接舷してきたのは砲塔を多く載せた軽巡洋艦クラスの船であった。その船は一定の距離まで近づくと、乗り組み員をすべて甲板に並ぶよう命じてきた。大浪は何とかして話し合いをしたいと連絡を入れていたが、他の人間は言われた通りに甲板に出た。その後、話し合いが行われ、日本がいかに交易を望んでいるかを強調した。それに対して日本は皆お前のような人間がいるのかとの問いかけにそうだ、と答えると、有色人には用はない、と言い、相手は船に戻っていった。そして数十分後、彼等は問答無用で砲撃を加えたのである。


 その後、秋津島統合防衛軍の差し向けた救助船に救出されたのは大浪を含めて二五人であった。記録によれば、五○人ほど乗っていたはずであるが、三日間の捜索の結果、他には見つからず、捜索は打ち切られたのである。当然、日本の外務省はオーロラリア帝国と名乗る国に抗議をしたのであるが、なしのつぶてであった。この事件は友好国にすべて報道されたのは言うまでもないが、特に東南アジア(今では日本国内で秋津島方面をこう呼ぶ)の友好国は抗議の声をオーロラリア帝国に向けて発信した。


 この事件はあえてこの地に現れた陸海軍人に特に強調して知らされた。多くの将兵は立腹し、なぜ日本は報復に出ないのかいぶかしんだ。中には上官(元の海自や陸自の)に意見具申するものもいた。しかし、彼らは政府が命令しない限り我々は動けないのだ、と言う返事に固執する。これも大井の提案であった。悪しき慣例である、独断先行などされてはかなわないからである。今の間にきちんと身につけてもらわなければ困る、というのが大井少佐考えであった。


 しかし、逆を言えば、この事件により、秋津島統合防衛軍の危機レベルをいつでも上げておけるのであり(つまり訓練と称して艦艇を動かす予算を獲得することが可能であり、錬度向上に役立つ)、より即応体制にもっていけることを敢えて本国上層部には強調しない大井であった。


 この時期、二隻の船が一部完成し、進水する。戦艦『扶桑』『山城』改め、原子力空母『扶桑』『山城』である。その機関部は加圧水型原子炉搭載で十五万馬力を発生する。FG−4艦上戦闘機四八機、対潜ヘリ二機、E3A早期警戒管制機二機を搭載する。1945年最後の空母建造(工事は進捗率八○%で中止)から戦後初めての空母建造であった。最後の建造が改装空母、戦後初の空母建造がやはり改装空母であった。だが、竣工まではまだしばらく時間がかかる。


 その後オーロラリア帝国は鳴りを潜め、秋津島統合防衛軍だけではなく、日本政府および統合幕僚本部も対応に苦慮することとなる。偵察衛星の情報では、盛んに西方の島との戦闘に明け暮れているようであった。現在、日本の国策は専守防衛である。日本人が攻撃を受けたからといって簡単に相手と戦争するわけには行かないのである。これが秋津島が襲撃され、何らかの被害を被った場合の相手国との戦争であれば、相手国への攻撃は拡大解釈として許可されることも考えられた。


 そう、この地に移転しても憲法第九条の問題は解決されていないのは前に述べた。一度ゴリアス戦後に検討されたが、改定までは至っていなかった。それが今でも尾を引いているのであった。ナミル共和国との交易はしばらくの間見送られるようであり、渡航の際には秋津島統合防衛軍艦艇の護衛を受けるよう公布されていた。


 この憲法第九条の問題は常に論議されていたが、後にある出来事と共に撤廃されることとなる。それにより、第二次大戦後初めて軍隊というものが正式に常備されることとなった。現在においても、陸軍、海軍、空軍と称されてはいるが、あくまでも呼称だけのものであり、憲法上は軍ではなく、自衛のための組織である。それは昭和の軍人たちの属する秋津島の呼称をみても明らかであっただろう。そして、その組織の規模としては移転前と比べても大きい(この地に現れた昭和の軍人たちを除けば)とはいえないものであった。


 新たに領地となった三島に配備されている部隊をみれば、一目瞭然であった。北海道とほぼ同じ大きさの樺太島、日本の四倍ほどの広さの秋津島を守るには少ない戦力であろう。本来であれば、樺太島は陸軍二個師団、海軍は一個護衛隊群、空軍は二個飛行隊、秋津島は陸軍三個師団、海軍は二個護衛隊群、空軍は三個飛行隊を要して守るべきものであった。


 それが陸軍は共に一個旅団、海軍は樺太に二個地方隊、秋津島一個護衛隊群、空軍は共に一個飛行隊のみの配備であった。ゴリアス戦争の教訓は生かされていなかったのである。まして沖縄と違い、両島とも広大な陸地を有しているため、一度上陸されでもすれば防ぎようがなかったと思われる。いずれにしても移転前のように強大な軍事力を持つ同盟国があるわけではない。自分の身は自分で守らなければならなかった。


 冒頭に挙げたこの事件はそれを再認識させる出来事といえた。この後、憲法改定には至らなかったが、応戦規定など細かなことが明文化され、全軍に通達されることとなる。これにより、不測の事態に対する対応は明確になったといえるだろう。これを最も喜んだのは本国陸海空軍の現場指揮官であったというのは当然のことといえた。


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