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第二章 秩序を求めて−1−

移転暦一七年七月


 秋津島統合防衛軍司令部(この地に出現した聯合艦隊をまとめて配備するために選ばれた秋津島で、彼らを秋津島統合防衛軍と呼ぶ)では、シナーイ王国に新たに出現した旧陸軍将兵四万人におよぶ軍人の日本本土への出発を控えていた。第16軍将兵すべてであり、司令官は今村均陸軍中将であった。そもそもの発端は四月一二日にシナーイ王国海岸部において大日本帝国陸軍を名乗る集団が現れた、との一報であり、総数四万人におよぶ軍人が出現したということであった。シナーイ王国駐日本大使館駐在武官の泉秀二陸軍少佐はある確信を持ち、彼らに接触したのであったが、それは間違ってはいなかった。


 そこにいたのは紛れも無く過去に存在した今村中将率いる第16軍四万人の将兵であったのだ。泉少佐は防衛大学同期の大井保大尉に倣ったのである。結果として、規模は海軍に劣るものの大日本帝国陸軍がこの地に現れたのである。彼は同期と同じ事を防衛省に上申することとなり、そしてすべては海軍のなしたことと同じ事を行うこととなる。ただ、異なるのは天皇陛下との面談をなしてからすべてがなされたことであろうか。


 この出来事に対して同期の大井保少佐(昇進)と交わされたのは、この先に何があるだろうか、と言うことであり、二人の意見は一致することとなった。すなわち、この先には戦争が待っているのではないか、と言う事であった。


 このころ、秋津島南方三島、マレーリア半島の反対側ニューロギニア、その東にイースロギニア、秋津島の東南イースロギニアの南にあるサウロギニアは日本の調停により、内戦を終結させ、それぞれ独立することとなった。元々は一つの国であったようだが、前の統治者が死んでからの分裂だったようである。おかしなことに人種的にはドイツ系白人に似ていた。この三島の中ではニューロギニアが中心地であり、争いもこの地で行われていた。結局、それぞれの島に戻り発展させていくこととなった。工業レベルは1930年代の日本と同様であった。ここでもまた、ゴム等資源が日本に輸出されることとなる。


 ロギニア三島の内戦が終結したことで、秋津島の安全が確保されたかといえばそうではなかった。依然としてオーロラリア大陸方面(電波傍受によれば、国名はオーロラリア帝国、かの地をオーロラリアと呼んでいた)では不穏な動きが観測されていたのである。あくまでも衛星による偵察であったが、同国西方にある二島を占領しようとしているようであった。


 秋津島統合防衛軍司令部は、島の南東部にある東京湾ほどもある入江の南側一帯に形成された、南秋津市の統合防衛軍基地内に入江に面して立てられた一〇階建てのビルにあり、防衛マイクロ回線で日本の防衛省と結ばれており、情報の共有が可能になっていた。ここは日本の領地となって二年後、つまり一〇年前から開発された街であり、秋津島では第二の都市であった。ちなみに秋津島を統べる議会は最も開けた北東部の北秋津市にあり、政治と文化の中心となっている。


 なぜここが選ばれたかといえば、広大な入江があることで多数の艦艇が同時に係留できることと、日本本国とは離れていること、南に交通の要衝であるマレーギニア海峡があることと、これが一番の理由であると思われるが、紛争が起きており、軍事的勢力が必要と考えられていたからだった。


 この地は移転前のシンガポールやマラッカ海峡と似たような地形であったのである。日本の友好国の最西部にあるパリエル王国との貿易上欠かせない地であった。マレーギニア海峡は現在、マレーリアと日本の共同管理下にあった。実は、売却された聯合艦隊所属の軽巡洋艦は三隻がマレーリアにあってこの地を警戒していた。残る三隻はパリエルにあって、交易路として重要なインデル海と呼ばれる海の警戒に当たっていたのである。


 湾の南側には四○○○メートル級滑走路二本を含む巨大な空軍基地があり、湾の北側にはやはり民間用空港があった。この空軍基地には海軍基地航空隊および空母部隊の艦載機が翼を休めていた。


 基地航空隊の装備機は空軍(旧航空自衛隊)の装備していたT−4練習機との部品共用で新たに開発されたFG−4戦闘機であった。違いは胴体の二m延長、固定機銃二十mmバルカン砲×一、空対空ミサイル×六、エンジンの換装、航続距離が二○○○kmになったことである。この機は元は『扶桑』『山城』の艦載機として開発されていたものであった。


 空母艦載機群は零戦および九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機であったが、予備パーツがないこと、使用弾薬の供給不可能なことから、FG−4戦闘機の艦載機型への移行、もしくは新型レシプロ機の装備が急務であったが、ジェット機の空母搭載は空母側での問題のため、遅れていた。つまり、運用のための甲板スペースがないことや機体整備の教育がなされていないことなどであった。


 その他、E2Dホークアイ早期警戒管制機、P3D対潜哨戒機、C−3輸送機などが駐機していた。E2Dホークアイ早期警戒管制機はゴリアス戦争後、沖縄基地に集中的に配備されていたが、現在ではここ秋津島だけの専用機であり、沖縄基地には新鋭機が配備されていた。P3D対潜哨戒機は既に二線級といわれるが、この地では十分使用に耐えうるものであり、後々配備数は増えることとなる。C−3輸送機は本国でも使用されている新鋭輸送機である。


 ちなみに、この基地には空軍(旧航空自衛隊)所属飛行隊や海軍(旧上自衛隊)所属の飛行隊は配備されておらず、将兵も配属されていない。それらのパイロットや機上要員、地上整備兵に至るまですべてが昭和の軍人たちによって編成されていた。その理由は 一部艦艇の廃棄や改装による乗員の減少により、他兵科への配置転換教育をしての再配置にあった。一番の余剰人員というのは各艦艇の砲塔要員であったといえる。改装は主に砲を減らし、ミサイルなどの兵装を装備することにあったからである。


 兵科転換訓練や配置転換訓練が行われていることもあり、秋津島統合防衛軍基地は喧騒にあふれていた。当初、訓練は日本本国で行われる予定であったが、将来のこともあるだろうから、という山本五十六大将の意見により、秋津島で行われていたのである。そのため、ここには本国から教官となるべき海軍予備役兵や退役軍人たちが多く存在していた。


 これは山本五十六大将も同意してのものであるが、配置転換による移動はかなり大幅に行われていた。例えば、ある駆逐艦の砲塔要員はレーダー操作に稀な才能を見せたため、戦艦のレーダー要員に配属されていたし、ある戦艦の機関兵は航空機整備の才能が見られたため、機上機関員に配置換えされたり、ある巡洋艦の対空機銃員は航空機の操作に稀な才能を見せたため、パイロットに配置換えされたりしていたのである。


 これらの発端はこの時代では当たり前とされていたテレビゲームやアーケードゲームであったといわれていた。すべてがそうではないが、シミュレーターによって適正が見出され、配置換えとなることも少なくはなかったという。それは何も兵だけではなく、下仕官や尉官の中にも見られたのである。ちなみに、山本大将や黒島大佐などはほんの三ヶ月でパソコンの基本操作をマスターしたといわれている。


 湾内には五箇所のドックがあり、そのひとつでは今しも航空母艦『瑞鳳』の飛行甲板拡張工事と格納庫の拡張工事が行われていた。飛行甲板の二○m延長および格納庫を拡張する工事である。これにより、艦載機数は五機ほど増えることになり、多少の戦力アップが図れることになる。


 その他のドックでは改装済み艦艇の総点検や故障した艦艇の修理などが行われていた。何しろ突貫工事に近かったため、配属地において総点検や細やかな調整が行われており、常に何かの船がドック入りしていたのである。とくに電子装備に不慣れな昭和の軍人たちであり、ほんの小さな異常であっても騒ぎが大きくなることがあったといわれていた。


この章でとりあえず現れた海軍編成や将軍の全貌が明らかになります。さるサイトでミッドウェーに参加していた将軍の一部が明らかになり、ほぼ全面書き換えになりました。艦艇の変更もと思ったのですが、さすがそれをやるとかなりの時間を要するので今回は取りやめにしました。いつか改定できればと思っています。書き貯めもこの章までです。その後は少し更新の間隔が開くかもしれません。

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