エピローグ
移転暦二三年一二月
フレンス皇国戦においても秋津島統合防衛軍は膨大な戦費を使い、犠牲も出していた。犠牲者についてはこれまであまり触れてはいなかったが、本国にある靖国神社に祀られることになっていた。これは彼らが望んでいたからであり、彼らがこの地に現れたおりの約束事でもあったからである。
戦費に関して言えば、戦後の実務レベルでの協議においてこれまで同様ほぼ八割に近い額が回収されている。むろん、本国政府としてもかなりの負担であったことはいうまでもないことである。しかし、本国政府およびジャーナリズムにおいて秋津島統合防衛軍が槍玉に上げられることはなかった。むろん、一部では反対論もあり、軍を廃止すべし、などという団体も存在することは事実である。
とはいえ、結果的には今後の貿易相手として有望な国が出現した(そのように戦いを終結させた)ことにより、経済面からは反対の声は上がっていないとされている。これまでは自国の資金において経済協力という形で友好国を増やし続けてきたのである。それにかかる費用は戦費以上に膨大な額になっていたと思われる。ともあれ、エリプト連合共和国、オーロラリア国、インペル国、フレンス皇国と将来有望な輸出相手国が現れたことにより、経済面からは歓迎することはあっても、反対することはないといえた。
特にインペル国とフレンス皇国は工業レベルが高く、これまで限られた輸出しかできなかった自動車業界や家電業界などはかなり有望視しているようである。既にインペル国に対してはかなりの輸出量がある。これは同国が産油国であることも大きい。また、イエツやパリエル、マレーリアなどでは石油の輸入が増え、それに伴って工業レベルが格段に上がっているといえる。一○年後、二○年後を考えれば経済面からの効果は大きい。
もっとも、戦費が回収されたとはいえ、本国の経済負担はまったくなかったのか、というとそうではない。これまでもそうであったように、戦後に戦費と同額かそれ以上の額を相手国のインフラ整備などに当てられているからである。でなければ、敗戦国がおいそれと戦勝国である日本との良好な関係を築くのは難しいといえる。ましてや、最愛の夫や子供が死んでいるのである。彼ら遺族の気持ちを考えれば、かって日本が受けたようなことはできなかったといえる。
考えてみればわかることであるが、この地にはアメリカ合衆国のように強大な軍事力を持つ同盟国は存在しない。日本の戦後対策のひとつで友好国たりえるか、そうでないか決まる。友好国たりえない国ばかりであれば、日本の経済発展はないのである。計らずともこの時の日本はかってアメリカがやっていたように世界の警察を担うつもりなのだろう、というのが後世の一般的な捉え方であると思われる。
あまり触れてはいないが、当然ながら国家政策に反することを行う人物が存在していたのは事実である。中には後世から見てもなぜ?、と疑問符の付く人物も存在する。彼らの多くは時代が進むたび、消えては現れる。それの繰り返しである。いずれにしても日本人は聖人君子ばかりではない、という現れであろう。しかし、科学技術のレベルなどの違いからそういった人間が現れるのはいつの時代でも変わらない。
これらのことがなされたのは、秋津島統合防衛軍という、この地に現れた旧軍の存在が大きいことは本国においても理解されていたことである。ましてや、国防という面からみても、彼らがいなければとてもではないが、これまで成されたことは達成できなかったといえる。むろん、戦争だけで友好国(支配地域)を増やすなどもってのほかである。そんなことをすれば、反感を買い、経済への圧迫は膨大なものになることは誰もがわかることである。
かって、移転後間もない時期において、タカ派と呼ばれる議員が武力による支配を唱えていたことがあるが、当時の総理大臣数名は支配政策を取らなかった、ただそれだけで後世でも高い評価を得ている。むろん細かなところをみれば有能な人物もいたし、無能な人物もいたというのはわかることである。ではあるが、概ねその政策は良好であったといえる。
さて、軍人に目を移すと、幾人かの評価はかなり高く、後世において軍人の鑑とされる人物がこの時代に現れている。むろん、現在においてもすべての情報があるわけではない(いくつかの情報は未だ公開されていない)が、彼においては、ほぼすべての情報が公開されているといえる。著書もいくつか出版され、現在においても彼のことは誰にでも知られているといえるだろう。彼の成したことを一言で言えば、戦の後の経済発展、とも言える。もちろん、すべての戦いにおいてそうであったとは言わないが、彼が関わった戦において六割の戦にその傾向があるのである。
もう一つ、幾度か触れているが、この時現れた旧軍人についてのことである。後世においても原因がはっきりとはわからない(未だ解明されていないといえる)のが年齢である。生年から言えば高年齢ともいえるが、彼ら自身は加齢を感じていないとも言えるデータがある。ある軍人の採血データであるが、生年から七○を過ぎてから細胞の老化が急激に始まっているというものである。本人もそれは体調面などの異常で医師に報告している。ではあるが、この地において所帯を持った軍人の場合はその時点で通常の老化現象が見られるという、別のデータも存在する。また、若年者においてはデータはばらばらではあるが、当時の平均年齢と変わらないとされるデータも存在する。
いずれにしても未だ解明されていない不思議のひとつとされている。後世の研究家からも未だに決定的とされる論文は発表されていない。遺伝子に着目する研究家もいれば物理的なものに着目するものもいるが、これはこの先においても研究されていくだろう。専門家たちの解明を待ちたい。
また、昭和の軍人たちはなぜ秋津島に移動し、この地に骨を埋めようとしているのだろうか。簡単に言えば、彼らの血族(親、兄弟、子供、従兄弟)はこの地に移転していなかったのである。彼らがこの地に現れたおり、当然ながら調査されていた。国の機関(地方自治体や警察)だけではなく、対面スクープを狙ったテレビメディアが動いていたのである。しかし、行方不明という結果しか得られなかったという。
移転のおり、人口は一致しなかったことは触れたが、移転後の調査で移転できなかった人たちは彼らの血族であろうと判断されていいる。つまり、移転できなかった人たちの土地家財は移転先には見られなかったのである。この点についても後世においても結論は出ていない。専門家が研究しているが、未だ解明されていないゆえ、解明されるのを待ちたい。
科学技術といえば、日本の衛星技術はこの時点では未だ公表されていない。それが成されるのはもう少し後になるだろう。また、フレンス皇国が核爆弾を開発していた、という事実から日本においても核爆弾(戦略ミサイル)の開発に着手したのもこの時期であるといえる。いずれにしろ、この後に日本が果たした役割は大きいといえるだろう。残念なのはあの当時において、日本一国の支配による帝国建設という考えを持つ人物が複数いたことである。結果として件の軍人により、無事解決されてはいるが、一歩間違えばこの世界はどうなっていたかわからないといえる事件であった。
この時点においてプロイデン国およびエンリア帝国という当時の二大侵略国家は日本軍や秋津島統合防衛軍とは戦争になっていない。インペル国やシリーヤ民国が散発的な戦闘を行っていたとされている。ただ、この後に争いが起こるのは確実である。この二国との戦争は地球連邦政府樹立までに争われた幾度かの戦いのうちで日本が戦後処理に苦慮した戦いの一つであるといえる。未だまとめてはいないが、近いうちに手をつける予定でいる。
地球暦五年一二月八日
地球連邦秋津州南秋津市連邦軍資料室において記す。
2の方が行き詰ったんで一部改定して続きを書きやすくしました。