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第九章 亜細亜の曙−3−

移転暦二三年一○月


 ここで日本について語っておこう。この地では日本国は地方分権が進み、連邦制をとっている。北から樺太州、北海道州、本州、四国州、九州、都羅区州、秋津島州の7州に分かれ、それぞれ自冶権(限定されているが)が与えられており、連邦議会により運営される。警察は各州によって運営されるが、その上に連邦警察がある。各種情報収集のための連邦情報局があったが、これはこの地での情報があまりにも多く、これまでの組織構成では処理しきれないために設立されたものであった。


 連邦制に移行したことで憲法も改正された。そしてあの第九条も撤廃されたのである。この地において軍隊を常備するだのしないだのということは関係ないとされた。何よりも国土防衛のための軍というよりも国民を守るための軍という方向に向かっていたのである。根源的な問題は他国より攻撃された後の対応にあった。


 この時に例として挙げられた一つがゴリアス戦争である。あの時、海上保安庁の巡視船が子劇されているときに当時の海上自衛隊(地方隊DD二隻)が現場近くにありながら、上級司令部の命令がなかったため、救援することが叶わなかったという事件である。さらに、プロイデンの潜水艦に対する攻撃命令の延滞が上げられた。あの時対潜哨戒機による攻撃が早ければ被害はもっと少なくて済んだというのである。


 軍においてはこれまで通り、防衛省の管轄であるが、秋津島統合防衛軍のみ分離されている。現在では秋津島統合防衛軍司令部の下に秋津島防衛庁が設立、予算管理や事務(軍人年金や給与管理)など執り行っている。もっとも、軍全体の予算管理や装備の更新、戦争(紛争)への介入については日本統合幕僚会議および連邦議会の承認が必要である。これは山本五十六という稀代の軍人が現れたための処置ともいえる。


 この秋津島統合防衛軍の戦力は定数一八万人と定められているが、現在は一六万人(陸軍五万四○○○、航空部隊一万、海軍(艦載航空部隊および陸戦隊含む)九万六○○○である)で、うち昭和の軍人一三万八○○○人弱であった。昭和から現れた軍人で実務部隊勤務は一三万五○○○人、三○○○人弱は戦傷などで裏方である秋津島防衛庁勤務についていた。特に航空機部隊(艦載機含む)はジェット機への転換で兵役寿命が短くなる傾向があった。既に二○○○人強が戦死していた。


 そんな軍人補充に役立っているのが開設して五年を経た、海軍船員学校および海軍飛行学校そして陸軍兵学校であった。この学校を出たからといって士官になれるわけではないが、一年の修了後に二年間の士官教育課程も存在し、仕官教育課程を修了したものは友好各国では士官として遇される。そして三年前、新たに海軍士官学校および陸軍士官学校が設置され、それぞれ三年履修となり、ここを出た者は名実と共に秋津島統合防衛軍陸海軍士官として任務に就くようになる。ただし、この両士官学校は日本国籍を有するものだけに限られていた。とはいえ、士官学校の二年次、三年次は士官教育課程の二年間と重複するため、友好各国の評価は変わらなかった。


 これら三校の定員は当初、海軍船員学校二○○名、海軍飛行学校一〇〇名、陸軍兵学校二○○名であったが、今ではそれぞれ四○○名、四○○名、五○○名に増員されていた。その多くが留学生であり、日本国籍所有者は各校とも三割に満たないのである。ではあるが、既に三期生が巣立ち、秋津島統合防衛軍に配備されていた。士官教育課程を修了して友好国に帰ったものたちも士官として着任していたのである。


 海軍士官学校および陸軍士官学校の一期生も合わせて五○人が本年四月に着任していた。そんな中の一人、本山玲子海軍少尉は秋津島統合防衛軍司令部主席参謀大井保海軍中佐の副官として勤務していた。同期の中には将官の次席副官や副官の任務についているものもいたが、ほとんどが実務部隊についていた。実務部隊に配備されたのは男たちで、自分を含めて女はすべてが後方勤務であることに不満を抱いてはいたが、日々の忙しい任務にその不満を表している暇が無かったのである。


 本山少尉の志望は空母部隊勤務であったが、それは受け入れられていなかった。同期で秋津島統合防衛軍司令官山本五十六海軍大将の次席副官に着任している大山緑海軍少尉とはよく顔をあわせるが、彼女にしても志望は戦艦部隊勤務であったが、受け入れられてはいなかった。本国海軍と違い、ここでは未だ女子の実務部隊勤務は誰もいなかったのである。だからこそ、二人が会えば任務についての不満話が出ることは仕方がないことかもしれない。


 彼女にしてみれば、着任したときはオーロラリアとフレンスの戦争は終結しており、その事後処理で目も回る忙しさなのである。彼女の上官である主席参謀大井中佐には参謀としての任務だけではなく、その任務は多肢にわたり、資料をそろえるだけでも一苦労していたのだった。その上、先月からフレンス皇国大使館付き連絡武官フランソワ・ミシェール大尉、すなわち、かの国の第二皇女との面談も増え、なおさら気を使うのである。


 海軍士官学校一期生の中には五人の女性が居たが、丸太洋子海軍少尉は海軍次官近藤信竹中将の次席副官、山下ミランダ海軍少尉は海軍作戦本部長宇垣纏中将の次席副官、冠フロレンス海軍少尉は航空集団司令官南雲忠一中将の次席副官とすべてにおいて副官任務についていたのである。


 丸太少尉は水雷戦隊、山下少尉は駆逐艦部隊、冠少尉は早期管制機部隊とそれぞれ希望していたのであるが、いずれもかなえられることは無かったのである。あるとき、上官の大井中佐に聞いてみたところ、返ってきた答えは「明治や大正の人たちだから女性を現場部隊に派遣するのを嫌がったんだろうね。船乗りには女性が自分の船に乗るのを嫌がる艦長もいるから」というものであった。


 この状況は陸軍でも同じであり、二名いた女性士官は今村中将と土田少佐につけられていた。もっとも、陸軍としては海軍に比べて規模が小さいので、来年度からの女性士官はどうするのか悩んでいる、というのが土田少佐から大井が聞いた話であった。どちらにしても、実戦部隊への女性仕官の配属はしばらくない、というのが大井と土田の意見であった。ともあれ、新規の士官の任官が無かったことであるし、軍自体も新陳代謝も進むろう、との認識が上層部にあった。


 軍もそうであるが、民間でも友好国との交流はさらに進んでいる。北秋津島市の秋津島農業大学、秋津島商科大学、秋津島工業大学の三校とも生徒の八割が留学生で占められ、中には卒業してもそのまま秋津島の会社に就職する者がいて、さながら人種の坩堝ともなっていた。文字はともかくとして、会話は母国語をしゃべるだけで成り立っていた。


 この原因は未だにわかってはいなかったが、日本の商社が外国との交易を開発するにも便利であった。移転前のように語学を学ぶ必要がないからである。セールスの能力さえあれば事足りることになるからだった。最も、現実的にはそうはいかない。約束事にはどうしても書類が必要なのである。とはいえ、インペルやオーロラリアは英語であったし、フレンスはフランス語で、リウルはハングル、北方のロリア系国家はロシア語と、何故か移転前と関係していた国の言語であった。ために書類のやり取りはそう難しくもなかったのである。ちなみにこの地で最初に戦争となったゴリアスは台湾語であった。


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