第九章 亜細亜の曙−2−
移転暦二三年九月
フレンス皇国を巡る戦いが落ち着いたため、インペルへの艦隊派遣が再稼動していた。かの国の発展は目覚しいものがあり、今では日本の産業界にとって失いたくない市場である。移転前のアメリカに匹敵していたとも言える。もっとも、今後有用な相手国となる国も存在していた。フレンス皇国とオーロラリア国である。いずれも国内の混乱が収まり、生活に余裕の出てくる三年後が待たれる。
ここで一部改編された部隊を上げておこう。配備が完了するのは明年三月の予定であるからすべて予定である。水雷戦隊の内五個戦隊はすべて「ゆきかぜ」型護衛艦になり、二八隻の駆逐艦はフレンス皇国、オーロラリア国にそれぞれ一八隻(「陽炎」型)、一○隻(朝潮型)ずつ売却されることが決まった。水雷戦隊の旗艦を勤めていた「むらさめ」型護衛艦五隻は『秋月』(105いなづま)、『冬月』(106さみだれ)、『夏月』(107いかづち)、『初月』(108あけぼの)、『新月』(109ありあけ)と名付けられ、第一二水雷戦隊に編入されることとなった。
水雷戦隊:第一二水雷戦隊を除いてすべて「ゆきかぜ」型護衛艦となり、艦種は軽巡となる。
第二水雷戦隊軽巡『神通』『嵐』『雪風』『天津風』『時津風』『秋雲』『磯風』
第三水雷戦隊軽巡『川内』『舞風』『浦風』『初風』『浜風』『谷風』『萩風』
第四水雷戦隊軽巡『由良』『朝雲』『峯雲』『夏雲』『朝潮』『荒潮』『浜潮』
第六水雷戦隊軽巡『大井』『風雲』『夕雲』『巻雲』『霰』『霞』『響』
第一○水雷戦隊軽巡『長良』『陽炎』『不知火』『野分』『早潮』『親潮』『黒潮』
第一二水雷戦隊軽巡『北上』(104きりさめ)『秋月』(105いなづま)、『冬月』(106さみだれ)、『夏月』(107いかづち)、『初月』(108あけぼの)、『新月』(109ありあけ)『夕風』(156せとぎり)『三日月』(155はまぎり)
となり、すべて軽巡洋艦(トン数で護衛艦は軽巡扱いとなっていた)で編成され、駆逐艦はすべて姿を消すこになったのである。『浜潮』『響』は新たに命名された上での配備となった。
本国統合幕僚会議でこれらのことが決議、国会を通ったのには理由があった。インペル海でのエンリア帝国とインペルの戦争勃発が近いと判断されていたのである。日本の産業界にとって、インペルを失うことは移転前のアメリカを失うに等しいのである。ここでインペルの経済が落ち込めば日本の経済も危うくなる、それ程に対インペルへの輸出入が増大していたのである。
インペルより工業力が上のフレンス皇国への輸出も考えられてはいたが、内戦が終結したばかりの今では対インペル貿易をカバーできるとは考えられないからである。それに加えて石油の安定供給が崩れるということは、日本経済の基幹を揺るがすことも考えられていた。むろん、樺太油田も秋津島油田もあるにはあったが、埋蔵量が違いすぎるのである。
それらの面からみても、インペルが戦乱に巻き込まれることがあれば、輸出は落ち込み、日本の産業界に少なからず打撃を与えることは明白であり、それを恐れた政府が対インペル支援を約束、その実行には秋津島統合防衛軍の軍が必要なのであった。
さらに、プロイデンも東進を再開する動きがあることが、偵察衛星や本国海軍潜水艦隊の情報で判ってきたのである。おそらく、エンリア帝国とプロイデンの間で何らかの条文が交わされたのではないか、そう判断する統合幕僚会議の判断であり、日本政府の判断でもあった。
ちなみに、統合幕僚会議には山本五十六大将も出席することとなっており、これまでの大きな戦争、オーロラリア戦、エンリア帝国戦、フレンス戦などの前には必ずといっていいほど統合幕僚会議が持たれ、その都度山本は出席していたのである。とはいえ、山本は自分から意見を述べることは無く、聞かれたら答える、その程度であった。
この地に現れて以来、山本は秋津島という国(ある程度の自冶権がある)のためのみ働いているのかもしれない、とは常に傍にいる大井の意見であった。事実、秋津島統合防衛軍高官(昭和の軍人の将官)だけで集まっているようでその席で何か約束事があるのかもしれなかった、とは土田少佐の意見であった。ちなみに、昭和の軍人会なるものはあちこちで結成され、その数一〇〇とも一五〇とも言われていると大井や槌田は聞いていた。
この頃、本国や秋津島で話題となったのが、彼ら昭和の軍人たちが年を取らない、ということであった。事実、山本五十六大将にしてみれば、この地に現れたとき、既に五八であった。あれから八年過ぎているから既に六六歳になっているはずである。ではあるが、今も外見は変わらず、内面も変わっていない。本人もそのあたりを気にしていたようで、幾度か病院に通ったようであるが、何処にも異常がないと言われている。ただ、不思議なことに、世帯を持った軍人たちは例外的に年を取っているようである。これは現代でも謎、とされているが、この地に根を生やした(結婚などで)とたんに年をとり始めたことは確認されている。自らの国とともに移転しなかったことが原因のひとつとも言われている。これはこれからも研究の対象とされていくだろう。
ともあれ、フレンス内戦が終了し、ローテーションを組んで空母は本国に、新型機であるF−6戦闘機およびF−7戦闘攻撃機の受領に向かっていた。F−6戦闘機およびF−7戦闘攻撃機は増加燃料タンクを装備すれば、沖縄と漣日流を経由すれば飛んでこれるが、沖縄はともかく漣日流には民間用空港しかなく、あまり利用したくなかったため、直に迎えに行くこととなったのだった。パイロットたちは既に本国に向かい、機種転換訓練に入っていたのである。
ちなみにパイロットたちの機種変換過程は三ヶ月で終わるので、特に問題はないようであった。平時のパイロットの年間飛行時間に関して言えば、本国空軍パイロットは約五○○時間、それに対して秋津島統合防衛軍では約八○○時間、ほぼ倍近い差があった。もっともそれだけではなく、単に飛ぶ、それだけでも本国のパイロットと秋津島のパイロットでは何か違いがあるようであった。秋津島統合防衛軍戦闘機部隊や攻撃部隊がすべてF−6戦闘機およびF−7戦闘攻撃機に機種転換されたのは八月も終わりに近い日であった。空母艦載機部隊の機種転換が終了したのはそれより早く、八月初めであった。
フレンス皇国皇王マリーから第二皇女フランソワの秋津島への移住申請がなされたのは八月に入ってすぐであった。訪問や留学では無く、かの地に居を構え、永住するためであるという。ともかく、断る理由がないため、秋津島知事は受け入れたのである。そしてこの月一○日、経済の中心たる北秋津市ではなく、南秋津市の高級マンションに居を構えた。フレンス皇国皇女移住さる、と大騒ぎになったのであるが、公の身分はフレンス皇国秋津島大使館付き連絡武官であり、フレンス皇国海軍大尉でもあった。
困ったのは秋津島知事である。北秋津市に居を構えると思っていた彼は、北秋津中央署内に警護官を用意していたのであるが、軍基地勤務がメインとなれば、警察官では警護できない。そこで秋津島統合防衛軍司令部と協議の結果、オーロラリア国滞在中にSPを勤めていた海軍陸戦隊特殊部隊の四名を専従警護官とすることで合意したのである。ちなみに、亜細亜連盟参加国は一部を除き、日本本国に大使館を構えることはなく、この秋津島に大使館を構える。そんなわけで、北秋津市は亜細亜経済の中心地ともいえ、各国の情報交換の場として機能しているのである。