第八章 戦いに意味はあるのか−4−
移転暦二二年一二月
一一月二五日、第一および第三独立機動艦隊によるツァーロンへの航空攻撃によって侵攻作戦の火蓋がきって落とされた。ツァーロンは同国南部にあって最大の軍港であったのだ。攻撃は二○式空対地ミサイルによって行われた。このミサイルは二○式空対艦ミサイルと同時期に開発され、精密攻撃が可能なようになっていた。九六発のミサイルによりツァーロンは壊滅、軍港としての機能は消失した。
その翌日、第一独立機動艦隊はアージェを、第三独立機動艦隊はボルダーをそれぞれ航空攻撃したのである。アージェは同国南東部にあり、最大の工業都市であり、ボルダーは同国南西部にある工業都市であったのだ。アージェは二派四八発のミサイル攻撃により壊滅、その生産力は消滅した。ボルダーも同様であった。
同時刻、支援部隊による同国中央部の要衝、ローゼンヌへの第49師団の上陸は静かに行われていた。むろん、軍は配備されていたが、その数は多くなく、排除していたのである。この部隊の目的は同国中央部最狭部(幅約一〇〇km)を押さえ、北西部へのフレンス皇国軍政派の逃亡を阻止することであった。
その翌日、フレンス皇国皇王派三個師団はツァーロン、アージェ、ボルダーへの上陸を決行、橋頭堡を築いて行った。祖国とはいえ、軍政派の反撃は激しかったため、損害も多く出たのである。しかし、それにも増して彼らを悩ませたのは国内に残っていた皇王派軍人の合流による混乱であった。そのため、一時指揮系統の乱れが生じ、皇王派同士が銃撃を行うという事態も起こった。そもそも、軍政派は陸軍に多く、海軍は皇王派が多く、合流する軍人たちも陸軍兵は少なく、そのための混乱であったといえる。
第一および第三独立機動艦隊の被害はというと、敵の航空攻撃による被害があったが、それ程重大なものではなかった。敵航空機の数は予想をはるかに上回り、四八機の迎撃機では打ち漏らしがでたのである。一会戦で二○○機もの数が押し寄せていたのであるから当然といえたかもしれない。
交代で武器弾薬の補給を受けた両独立機動艦隊は第三独立機動艦隊が現場において上陸作戦の支援を行い、第一独立機動艦隊は東部の要衝、ルーラン攻略に向かった。ルーランは同国東沿岸中央部にある要衝で、商業と工業の中心であり、この都市から南西に一〇〇kmほど離れて首都パーリがあるのだ。ここを押さえることはこれからの戦いを有利に進めることができると考えられた。軍は東北方面群部隊司令部があり、責めること容易ならず、と考えられており、ために、皇王派陸軍一個師団をここまでつれてきていたのであった。
第一独立機動艦隊は途中、独立遊撃艦隊と合流、ルーランに向かった。その道中、ボルダーを開放せり、との報がぺタール提督より入る。ルーランへの攻撃は翌未明、『大和』『伊勢』『日向』の艦対地ミサイルによって始まった。二二式巡航ミサイル、それは射程一〇〇〇km、弾頭重量五〇〇kgを誇るミサイルであった。このミサイルはイエツ開放戦争の折、内陸に対する攻撃力の無さから開発され、本年六月に正式化されたばかりの最新鋭ミサイルであった。三艦合計一二発の二二式巡航ミサイルは軍司令部、航空基地、海軍基地、弾薬庫、レーダーサイトなど目標すべてに命中した。
次は二艦合わせて四八機のFG−5戦闘攻撃機による空対地ミサイル攻撃であった。この攻撃は主に陸上の施設に対して行われた。迎撃戦闘機は二○機ほど上がってきていたが、その数はアージェ攻撃の際の迎撃機の一/一○にも満たなかった。五○○km沖合いからの巡航ミサイルによる成果であったといえるだろう。その迎撃機には護衛としてついていた二四機FG−4戦闘機が応戦、これを全機撃墜せしめた。攻撃隊のうちの二機の武力偵察により、東北方面群部隊司令部が壊滅状態であると確認され、皇王派陸軍一個師団の上陸にかかったのである。
皇王居住地は何処にあるかというと、首都パーリの東のはずれにあり、近衛師団が常に守りに付いているという。もっとも、現在では外側からの攻撃を防衛するのではなく、内側の治安維持という面が強いという。皇王居住地である皇宮を守るのは近衛第一師団隷下の一個連隊で、その他は近衛第二師団と共にパーリの守備に当たっている。この一個連隊は皇王派陸軍兵士で固められている。が、武装は貧弱であり、最大の武器といっても連隊支援機関銃でしかないのであった。これは皇王派陸軍兵士の反乱を恐れての軍政派の策謀であった。
皇宮内には軍政派の二個分隊が配備され、皇王の監視任務に当たっていたが、現在では一個小隊に増援されていた。そんな皇宮内の皇王執務室、現皇王マリー・ミシェールは数日前に机の上に置かれていた妹、フランソワからの手紙に驚きつつも書かれてあった一つの行動を行い、解放軍と名乗る部隊との連絡文をやり取りしていた。むろん、現在起こっていることは軍政派の連絡仕官から何も聞いてはいなかったが、何か起きているのは判っていた。その日、例の手紙には皇宮からの脱出を促す文面が書いてあり、行き先も書いてあった。
この時、遊撃艦隊と第一独立機動艦隊に支援艦隊が合流していた。それはすなわち、海軍陸戦隊特殊部隊の脱出準備が整った事を意味する。むろん、陸戦隊だけではなく、現皇王マリー・ミシェールそして一人息子で皇太子であるアラン・ミシェールの脱出をも意味する。アランは病弱であり、脱出行に耐えられるかどうか心配するマリーに解放軍の一人、羽柴健次郎と名乗る男は負担は少ないといっていたため、決断したのだった。その日の深夜、二人の姿は皇宮から忽然と消えた。
二人を含む六人は徒歩と車で皇宮から二○km離れたところでSH62ヘリによって『鳳翔』に運ばれ、その後、マリーは解放軍、否、皇王派の根拠地となった、ツァーロンに降り立つこととなった。その後、開放は進むかに思われたが、そうではなかった。ではあるが、多くの国民たちは北のローゼンヌあるいはツァーロン、西のアージェ、東のボルダーへ集まることとなった。
解放軍となった皇王派の損害はどうかというと悲惨なものであったといえる。ツァーロンに上陸した一個師団九○○○のうち戦死者は四○○○名、アージェに上陸した一個師団八○○○のうち戦死者は二五○○名、ボルダー上陸した一個師団七○○○のうち戦死者は三○○○名であったのだ。被害の大きかった理由として歩兵主体の皇王派と機械化された機動歩兵が主体の軍政派、という点に尽きる。
そんな理由がありながらも開放できたのは秋津島統合防衛軍の航空戦力、皇王派の軍人たちがそれぞれに合流したからにならない。元々、陸軍には皇王派は少なく、合流した軍人たちにしても海軍兵が多かったのである。
この理由は簡単に説明が付く。つまり、移転前のフレンス皇国は大陸の一部であったということである。余談ではあるが、インペル国は移転前は大陸にへばりつく形の大きい島嶼国家であったのだ。今の日本や移転前のイギリスと同様であったというのである。
だからこそ、主流ともいえる軍政派は陸軍に多く、主流から外れていた皇王派は海軍に多かったのである。ちなみに航空部隊はというと、陸海軍それぞれ保有していたが、海軍の航空戦力はシンドニー沖の海戦において激減していたため、現在では皆無に等しい。パイロットは二/三が救出されてこの作戦に参加していても乗り込むべき機体がなかったからである。