第一章 新たなる星の上で−2−
移転暦五年二月
移転暦三年から始まっていた近隣諸国との交渉は順調に進んでいたが、外交下手の気質は変わらず、それが元で戦争が発生することとなった。
台湾の位置にあった国、ゴリアス帝国と名乗る国との戦争である。交渉のもつれとかではなく、あまりにも下手に出すぎたのか、相手に与しやすし、との印象を与えたものか、ゴリアス帝国と名乗る国は沖縄に侵攻してきたのである。憲法第九条に縛られていた日本の初動は遅れ、沖縄本島に上陸すら許してしまうこととなった。
この戦争は第二次世界大戦以来、日本国が六十数年ぶりに経験した戦争となった。であるが、この戦争はわずか一週間で終わる。ゴリアス帝国の戦力は多かったが、技術レベルは1940年代の日本のレベルであった。どちらかといえばタカ派に当たる当時の内閣総理大臣、宮沢太一郎は徹底した戦いを命じ、降伏を勝ち得ることに成功し、その後の交渉を有利に進めることとなったのである。
この戦いでは、海上自衛隊二個護衛隊群を派遣し、ゴリアス側海上戦力を撃滅(撃退ではない)、さらに艦対地ミサイルで敵の軍事拠点の壊滅、陸上自衛隊二個師団による上陸侵攻までやってのけたのである。技術レベルが低いとはいえ、国土は日本の数倍を持つゴリアス帝国に対して日本の完勝であった。この戦いにおける自衛隊の被害は負傷二十人のみであったが、最初の遭遇戦において海上保安庁所属の最新鋭大型巡視船十隻、五百名が死亡、負傷者多数という被害を出していた。この後、海上保安庁と自衛隊の立場は入れ替わることとなり、海上自衛隊が国防の矢面に立つことになった事件であった。
戦後の交渉においてゴリアス帝国は同国東南部に属するレンビル島および南部のレア島を割譲することで許しを乞うてきた。日本としては当初、領土の拡張の意思はもっていなかったが、レンビル島はともかくとしてレア島には資源のある可能性があったため(移転前のボルネオ島の位置にあったからだった)、承諾することになった。日本はその国策から貿易立国としての途を目指していたが、この当時は資源の獲得に躍起になっていたため、領土拡張も含めた資源獲得に走った、と後世では理解されていた。
レンビル島の面積は四国ほどの大きさで、全体的に平坦で資源は無く、産業は一次産業程度であり、住民は六十万人ほどであった。ではあるが、労働力が安く手に入ることから製造業関係者には歓迎されたといえる。
レア島は本州と北海道を合わせたのと同じほどの面積を持ち、全体的に高低差があり、中央部には四千メートル級の山が連なっており、その山脈の北東部には広大な平地があり、農業が盛んで、日本が望んでいたゴム等の資源があった。住民は百万人ほどでその多くがゴリアス帝国の思想的反逆者であった。その後の調査において、島の北西部では油田が発見され、南西部には鉄鉱石やボーキサイト等の鉱物資源が豊富であることが判明、日本は本格的な開発に入り、島名も秋津島とされた。さらに、西部にはゴリアス海が広がっており、南部には大陸につながる細長い半島や文明度の高いと思われる三つの島やジャングルに覆われた大きな島(移転前で言えばニューギニアに相当)があり、守りやすい位置にあった。
最初に油田の発見された島はその名も樺太島と命名され、日本領に組み込まれていた。住民は放牧民で三十万人ほどがいたが、生活を保障することにより、友好的に終わっている。
このように、問題もあったが、概ね周辺国とは友好的に貿易関係が築かれていった。先に述べた三つの島以外は日本お得意の外交戦略を貫き、基本的には内政に関与しない方針が貫かれた。
しかし、このゴリアス帝国との軍事衝突が日本に与えた衝撃は大きく、新たに領土に加わった漣日流島や秋津島そして樺太島の防衛に関して激論が交わされることとなる。特に秋津島と樺太島は資源が多く、この両島を失うことはこれからの日本国が成り立たない事を明確に表していたのである。
その後、移転暦十年までに秋津島には1個護衛隊群(DDH一、DDG二、DE六)を編成し、その他補助艦艇二十と1個航空隊を、陸上自衛隊からは1個漣隊を、航空自衛隊からは1個混成飛行隊を派遣することに落ち着く。さらに海上保安庁からは巡視船六隻を派遣することも決まる。自衛隊はともかく、海上保安庁から派遣するのは周辺海域での警察権の行使のためであった。しかし、自衛隊の戦力では早急な派遣は難しく、五年という期間が設けられたのであった。ゴリアス帝国は日本の指導の下、議会制民主主義へと移行しようとしているが、混乱に乗じての密入国が兼念されたからである。
地球ではない星、この世界で国として存続していく場合、軍備がなくてもいいのか、といえば否、である。それはゴリアス戦争で照明されていた。良くも悪くも軍備を持たない場合、持つ国に占領されてしまう。それは政治家の誰もが認めるところであった。それがためにゴリアス戦争後に軍備予算がこれまでのGNP比二パーセントから四パーセントに増額されたのである。 四月までには関係省庁および自衛隊先発隊(海上自衛隊DE三)、陸上自衛隊1個施設大隊、海上保安庁から巡視船二隻が派遣されることとなり、民間からも多数の開発団が入ることとなった。
樺太には陸上自衛隊1個連隊、航空自衛隊からは1個飛行隊、海上自衛隊からは地方隊(DE四)および1個航空隊が派遣されて任務についていた。冬季には流氷(ここでも存在した)により艦艇は活動できないため、大湊に戻ることになっていた。ともあれ、本土に近いということと重要な石油資源が見つかったことで油田発見から6ヵ月後には体制が整えられ、移民も始まっていた。
樺太島はその後二年間を掛けて最低限のインフラ整備がなされ、先住民族である放牧民の調査も行われた結果、人口三十一万三千五十九人と判り、その帳簿も作成された。出産や死亡のたびに定められた役所に届け出なければならないことは彼らに不満を与えたが、インフラ整備による電力供給やその他文明品の流入により、それは解消されることとなった。ではあるが、そのために放牧地を求めて移動する彼ら本来の姿が消えていったことは一部団体から突き上げを受けることとなった。