第五章 戦いは終わりても−5−
移転暦二○年七月
バーレントは緑豊かな都市であるが、都市の規模は小さく天然の良港であり、移転前は漁業の盛んな都市であったという。現在、港はエンリア帝国のインペル侵略のための軍事拠点となっており、港には補給物資が多数陸揚げされているのが事前の潜水艦による偵察で確認されていた。
というのも、バーレントの北方四○kmには標高七○○○mを超える峻険な山脈がイエーク王国まで東西に走っており、エンリア帝国は侵略軍の多量補給にはこの街を使うしかなかったのであろう。そのため、海軍の護衛艦艇も多く停泊していた。ちなみに、バーレントから南一七五kmにある都市バリアルまでの間は東西五四km、南北一五○kmに及ぶ砂漠地帯であった。
バーレント逆上陸作戦は地上部隊の進撃開始に遅れること一日で開始された。この作戦は、一航戦および二航戦の艦載機FG−5戦闘攻撃機部隊(火器管制装置の更新に伴い命名変更された)による対地攻撃、インペル海軍上陸部隊護衛艦隊による艦砲射撃、陸軍三個師団上陸、その後の南進という流れで行われることになっていたが、洋上に出ていた偵察部隊と思われる敵艦隊および停泊中の艦隊の対処に手間取り、一日遅れることとなった。
洋上の偵察艦隊(重巡洋艦クラス四隻、駆逐艦クラス八隻)にはFG−5戦闘攻撃機部隊一○二機による対艦ミサイル攻撃、港に停泊中の艦艇(戦艦八隻、重巡洋艦八隻、駆逐艦一六隻)、第一次対地攻撃にはFG−5戦闘攻撃機九六機による同時攻撃として計画されたが、港で艦艇を破壊してしまうと上陸作戦に支障が出るとのことから、停泊中の艦艇を洋上におびき出してからの攻撃に変更されたのである。
独立機動艦隊にはインペル海軍の戦艦四隻、巡洋戦艦四隻、巡洋艦八隻、駆逐艦一六隻が護衛についていた。対艦攻撃の初手は独立機動艦隊の航空攻撃、その後はインペル海軍艦隊が対処することになった。独立機動艦隊の航空攻撃により、重巡洋艦以上の艦は何らかの損害を受けており、その後の対処はたやすいと思われたのであるが、インペル海軍巡洋艦部隊と一部駆逐艦部隊が無用な攻撃を行ったため、戦闘終了まで時間を要するととなった。これが一日遅れの真相であった。
ともあれ、第一次対地航空攻撃が終了後、インペル海軍にとっては驚愕の情報が入ることとなる。
「敵航空機探知、東より接近、速度四五○、機数二○○」
という情報である。これに対してこの時艦隊直援として上空にあったのはFG−4戦闘機が僅かに一二機、インペル側の誰もが作戦失敗を考えたという。しかし、本作戦司令官山口多門少将(そう作戦の一日遅れの原因はインペル海軍が山口少将の命令を無視したがために起こったことであり、これがインペル海軍の日本軍への態度の表れでもあった)は少しも慌てず、上空の直援機に攻撃を命ずる。この後インペル海軍の誰もが山口多門、否、日本軍の命令に逆らわないようになる出来事が起こる。
上空直援機の攻撃は一機あたり四発のAIM3対空ミサイルの発射で始まり、四八機の敵を撃墜する。次には艦隊前面に出ていた駆逐艦部隊六隻が各艦八発の艦対空ミサイルを発射、四八機を撃墜する。輪形陣外側の水雷戦隊旗艦軽巡が八発の艦対空ミサイルを発射、八機を撃墜する。水雷戦隊の駆逐艦各艦は艦対空ミサイルを装備しないが一二七mm速射砲を発射、一二機を撃墜する。重巡二隻がそれぞれ時間を置いて三二発の艦対空ミサイルを発射、六四機を撃墜する。二○分足らずの間に一八○機を撃墜された敵は慌てて元来た方へと戻ってゆく。
これにはインペル海軍の誰もが唖然とすることになる。山口少将は第二次航空攻撃を命ずる。士気の高い独立機動艦隊は二次に及ぶ航空攻撃で多数の集積物資および対歩兵車両を破壊して航空攻撃を終了する。ついで、インペル海軍戦艦四隻および巡洋戦艦四隻の三○cm砲による艦砲射撃へ移行する。この艦砲射撃の前に再度の軍事施設以外への砲撃は禁ず、との山口の命令により、射撃速度は遅いものの確実に残余集積物資を破壊していく。この時の砲撃で命令違反は無かったといわれる。
予定より一日遅れて始まった上陸作戦であるが、四日目には遅れを取り戻し、一週間後には予定以上の進捗を見せることとなる。以後、予定通り、陸軍は一個連隊をバーレント守備部隊に残し、南進(砂漠以外のルート取っていた)を続けることとなり、海軍は黒海海峡部を監視、エンリア帝国補給路遮断の役目につくこととなる。秋津島統合防衛軍の予想を一五日オーバーした九月一八日作戦終了となる。
この戦争において、インペル側六万人の犠牲者を出したのであるが、エンリア帝国側は四○万人とも八○万人とも言われているが、実態は把握できていなかった。日本は五○人近くの犠牲者を出したが、これはすべてイエツ王国およびインペル海の戦闘での話であり、インペルとの共同作戦では裏方に徹したため、直接の被害は出ていない。
以後、エンリア帝国は南進することなく、インペルおよびエンリア帝国海軍の黒海海峡部での睨み合いとなる。この戦闘において捕虜となったエンリア帝国陸海軍捕虜一○万人余りはすべてイエツ王国北部の捕虜収容所に送られ、当面はかの地で捕虜生活を送ることとなる。かの地では、イエツ王国最後の生き残りであった第三王女エレンラ(一二歳)が女王となり、国の再建に邁進していたが、エンリア帝国の侵略により、国民の四○パーセントに上る約四五○万人が死亡、国としての再建は前途多難と言えた。
むろん、当地にはパリエル王国を主体にインペル国、日本、エリプト連合共和国、マレーリア国の軍が駐屯、治安維持にに当たることとなる。エレンラ女王のもとには後見人として日本から人材が派遣されることになるが、これは日本がこの戦いにもっとも貢献したからに他ならない。
幸いにして当地にはボーキサイトや鉄鉱石の資源が豊富であり、将来においての不安は一部解消されていた。
捕虜となったエンリア帝国軍人は祖国への返還には応じず、かといって総数二○万人に及ぶ捕虜を受け入れる国はなく、どうするかが問題であったが、捕虜代表や駐留軍の話し合いにより、インペル北方の山脈を越えた地に残留させることとなった。かの地にはエンリア帝国侵略により、元からいた住民は排除されており、なんら問題はないとされた。むろん、彼らには武器弾薬を携帯させ、対エンリア帝国ともいえる独立国を目指せさせた。彼らはエンリア解放軍と名乗ることとなる。これには各国の考えもあり、エンリア帝国との緩衝地域とさせることにあった。こうして宣戦布告なき戦争は終結、以後は国境でのにらみ合いとなった。