第五章 戦いは終わりても−4−
移転暦二○年七月
インペル国祖国開放作戦、作戦名IJ作戦が実施されたのは予定通り、七月三日であった。作戦終了日時は不明であったが、統合防衛軍では約二ヶ月とみていた。この作戦において統合防衛軍が担当したのは、バーレントへの上陸支援、同地への輸送船団護衛、インペル国周辺海域での対潜哨戒、インペル空軍航空管制、地上偵察部隊であった。
バーレントへの空母部隊による上陸支援は、改装なった第一航空戦隊空母『赤城』『加賀』第二航空戦隊空母『飛龍』『蒼龍』第四戦隊重巡『愛宕』『鳥海』第四水雷戦隊軽巡『由良』(154あまぎり)駆逐艦『朝雲』『峯雲』『夏雲』『朝潮』『荒潮』第二八駆逐隊駆逐艦『白露』『村雨』『五月雨』『春雨』『夕立』『夕暮』からなる独立機動艦隊であった。
バーレントへの輸送船団護衛は、第三航空戦隊空母『瑞鳳』『日進』第一○水雷戦隊軽巡『長良』(152やまぎり)駆逐艦『陽炎』『不知火』『野分』『早潮』『親潮』『黒潮』からなる独立護衛艦隊であった。
インペル国周辺海域での対潜哨戒には、P3D対潜哨戒機六機および第一二水雷戦隊軽巡『北上』(155はまぎり)『夕風』(122はつゆき)『三日月』(123しらゆき)の独立哨戒部隊であった。
インペル空軍航空管制には、E2D六機からなる独立管制部隊が担当する。
地上偵察部隊は第48師団、第49師団、第51師団から抽出の移動レーダー車両六両装備の独立捜索大隊の担当であった。
このうち、P3D対潜哨戒機六機、E2D六機、移動レーダー車両六両は戦後の売却を見込んでいた。ちなみに、P3D対潜哨戒機、E2Dの抜けた秋津島統合防衛軍では本国海軍が所有するP4対潜哨戒機六機、E−MRJ70AWACS六機、各捜索大隊は本国陸軍装備の新型レーダー車両の導入が決定していた。むろん、インペル軍には新型の装備にいついては知られていない。いくら友好国とはいえ、出現したばかりの国に対して日本はそこまで甘くは無かったのである。
売却を見込んでいるそれぞれの機体および車両にはインペル国陸海空軍軍人が加わっていた。やはり、というか当然のことながらその能力を最初にインペル軍に知らしめたのはE2Dであった。空爆終了後、敵爆撃機接近を捉えたのである。
「β1よりβ0へ、敵爆撃機編隊と思われる一〇〇機の編隊を探知、β01を直ちに発進、発進後当機の誘導に入るよう指示されたし」
E2Dはα、β、γがそれぞれ東部、中部、西部に分かれて二機ずつ配備されていたが、敵編隊を捉えたのはβ1、つまり中部を担当する最初の一機であった。β1はβ0、つまり中部担当空軍部隊司令部に連絡を入れ、迎撃部隊β01を発進させ、自機の誘導に入るよう指示する。この時点ではインペル側レーダー網は未だ敵編隊を探知していなかったため、半信半疑のまま迎撃部隊は発進することとなる。以後三○分の間に、東部α1および西部γ1もそれぞれ同じ指令を発することとなる。
「β1よりβ01、貴部隊を確認した。011編隊は進路北東へ、012部隊は進路北西に変進せよ」
迎撃部隊β01は二個飛行隊六四機で編成された部隊で装備機は双発単座戦闘機イーぺリアスであった。インペル空軍主力戦闘機であり、マッハ一.六級の対空ミサイル四発を積む大型戦闘機であった。インペルでは通常二個飛行隊で一飛行群ごとに各地に展開していたが、今次作戦で各地域に八個飛行隊ずつ二四飛行隊が展開していた。首都防衛飛行群の三個飛行隊のみがそのままであり、ほぼ全力展開に等しかった。
「011部隊は進路西南へ、012部隊は東南へ変進せよ」
この時のインペル空軍の誰もが、狐に包まれたような感じであった。それは無線を傍受しているβ0、つまり中部空軍司令部でも同様であった。その後の、β1の指令にさらに驚くこととなる。
「次の指令で各機とも二発の空対空ミサイル発射後、011部隊は高度六○○○へ、012部隊は高度八○○○へ取れ。高度を間違えると空中衝突するぞ」
「今、ミサイル発射、高度を取れ」
そして、一二八発のミサイルが敵編隊に襲い掛かる。ミサイルは熱線追尾型であり、レーダー追尾型に比べれば命中率は落ちるが、打ちっ放しが利くということで選択されていた。このミサイル攻撃で敵編隊は四○機にまで打ち減らされ、β1の次の誘導で再度のミサイル発射により、全機撃墜することに成功したのである。
E2Dの的確な誘導により、各迎撃部隊は敵爆撃機部隊を撃破することに成功し、地上部隊は進撃を開始する。以後、敵航空部隊が探知されるごとに迎撃部隊が出動することになり、E2Dおよび迎撃部隊は疲労が激しくなってゆく。が、それに伴い、敵爆撃機の来襲も機数が少なくなり、迎撃部隊の編成も一飛行隊のみで行われるようになり、余裕が出るようになる。E2Dについても一機体につきクルーの三交代制により、多少の疲労軽減が図られていた。
地上部隊は各方面軍とも六個師団からなり、全一八個師団が戦闘に加わっていたが、これは首都防衛二個師団およびバーレント逆上陸軍三個師団を除けば、陸軍部隊全力出撃になる。中でも東部方面軍は作戦開始後二週目から敵爆撃機の来襲が無く、快進撃を続け、北部国境まで一〇〇kmに迫っていた。逆に西部方面軍は敵の防御が厚く、進撃スピードが予定より遅れていたのであった。
この地上部隊進撃作戦で予想以上の効果を発揮したのが、陸軍に新設された、対地攻撃飛行隊であった。装備機は一九式攻撃機、インペル軍呼称ホーク19攻撃機九六機であった。地上部隊援護機が装備されていないと聞いた統合防衛軍参謀土田少佐の進言により、急遽創設された飛行隊であった。主武装は五○○kg爆弾と四○mm機関砲で、特に四○mm機関砲は敵の戦車に多大な損害を与えていた。弾種が海軍用の炸裂弾とは異なり、徹鋼弾であり、エンリア帝国主力戦車の装甲を打ち抜き、次々と破壊していた。が、敵も対空機関砲装備車両が現れ、徐々に損害が増えていた。
作戦が始まって二週間後、日本本国から観戦武官として来ていた陸軍中佐の発案により、砲塔が故障して修理待ちのインペル主力戦車アンベシャーの車体に、対空陣地にあった三○mm機関砲を載せた改造車が現場で作られ、敵対空車両に対する効果があることが確認されると、インペル陸軍は急遽少数を製造、戦場に投入、対地攻撃飛行隊の損害がが減ることとなる。