第四章 誰がために戦うのか−4−
移転暦二○年二月
この年が明けてすぐ、巨大地震がイエツ王国西方で確認された。その規模は大きく、はるか日本でも観測された。この地震による直接被害は日本や秋津島陸上には無かったが、その友好国ではそれなりの被害を受けていた。
その一番の被害はマレーリア国(一九年一○月に日本と同じ立憲君主制民主国家に移行)とタイブル王国の国境、当地では枯れた不毛地帯と言われていた幅約二五○○m、長さ約二〇〇kmの地域が陥没、内陸のカンベジア民国側の琵琶湖ほどの大きさの不毛乾湖に海水が流れ込み、ゴリアス海に繋がった内湾が形成された。
この事件で、ゴリアス海で操業していたマレーリアおよびタイブルの漁船二三隻が巻き込まれて沈没、漁船に乗っていた九三人全員死亡という痛ましい事故が起きている。また、ゴリアス海が荒れ、西秋津海上保安管区では桟橋に係留されていた大型巡視船五隻が海水の引いた海底に着底、転覆こそ免れたが、艦底に大きな損傷を受け、一時稼動巡視船がないという事態になっている。なお、同海域が落ち着くまで約一ヶ月を要していた。
被害が大きいと予想されたパリエル王国では、陸上での被害は大きかったが、新都市部では日本の耐震構造ビルが倒壊することは無く、被害は旧都市などに限られていた。それでも死傷者八万人、行方不明一○万人の犠牲者が出ていた。日本本国からは緊急医療チームが派遣され、秋津島統合防衛軍からも陸軍第49師団や輸送船二○隻からなる援助チームが派遣され、救出に当たっていた。
その後の調査で、イエツ王国西方、インデル海に突き出ている大きな半島に新しい国が出現していることが確認されていた。偵察衛星による情報ではかなりの工業レベルを有していると思われた。同半島三二○km沖に進出した第三戦隊戦艦『榛名』『霧島』第七戦隊重巡『熊野』『鈴谷』第二水雷戦隊軽巡『神通』(153ゆうぎり)駆逐艦『嵐』『雪風』『秋雲』『磯風』よりなる第一四艦隊B部隊からの情報もそれを裏付けていた。
日本本国ではこの国の出現による巨大地震の発生(M八.六規模と判定された)であると断定、情報収集および可能であれば接触する事をパリエル王国派遣艦隊に命じてきた。このため、被弾した艦艇とともに秋津島に戻っていた大井保少佐は戦艦『榛名』艦橋にいた。
情報収集を始めて一ヶ月、未だ混乱からは脱していないようであるが、さまざまな情報が得られていた。国名はインペル、国王はいるが政治に関与していない立憲君主制議会民主国家、ラジオやテレビが普及しており、自動車も普及している工業レベルであった。余談ではあるが、この地の日本の友好国でテレビが普及しているのは北からロザリア共和国、ロリアル共和国、リウル王国、ゴリアス共和国、マレーリア国、パリエル王国だけである。その他の国はまだラジオの普及が進んでいる段階である。自動車についてはロザリア共和国、ロリアル共和国、リウル王国、ゴリアス国、マレーリア国で普及しはじめている段階である。
ラジオやテレビ(音声のみ)での情報が変わってきたのは二月も終わり近くなってからであった。それまでは一言も流れていなかった戦闘や戦争という言葉が流れ始めたのである。発生しているのは北部のようであったが、今では東部との言葉も流れている。
大井少佐は戦艦搭載の対潜ヘリSH−60Jをイエツ王国方面に飛ばし、状況を探らせた。その結果、先年艦砲射撃と空爆で壊滅させたはずの基地が再建され、規模も大きくなっており、その方面からのインペル攻撃も加えていることが判った。急遽、ある作戦を立て、秋津島統合防衛軍司令部に上申する。返信は、可能な限り早く秋津島統合防衛軍司令部に出頭せよ、であった。
B部隊をイエツ王国沖に移動させ、更なる情報集を指示すると、迎えのUS−2飛行艇によりパリストールへ、そこから民間の旅客機で秋津島統合防衛軍司令部へと戻った大井少佐は、作戦会議の席上、今回の作戦を実施することのメリットおよびデメリットを語り、山本および今村両長官の了承を得ると直ちに東京へ作戦案を転送した。東京から実施許可が下りたことを受けて、作戦準備に入る。
参加艦艇は以下の通り。
第二戦隊戦艦『伊勢』『日向』
第三戦隊戦艦『榛名』『霧島』
第七戦隊重巡『熊野』『鈴谷』
第二水雷戦隊軽巡『神通』(153ゆうぎり)駆逐艦『嵐』『雪風』『秋雲』『磯風』
第二○駆逐隊駆逐艦『吹雪』『白雪』『初雪』『叢雲』『磯波』『浦波』
第三航空戦隊空母『瑞鳳』『日進』
第四航空戦隊空母『千歳』『千代田』
第八戦隊重巡『利根』『筑摩』
第三水雷戦隊軽巡『川内』(151あさぎり)駆逐艦『舞風』『浦風』『初風』『浜風』『谷風』『萩風』
第二四駆逐隊駆逐艦『敷波』『綾波』『朝霧』『夕霧』『白雲』『天霧』
第五二輸送部隊輸送艦一○隻
『金剛』『比叡』『天津風』『時津風』は修理中のため外れるが、代わりに『伊勢』『日向』が加わる。また、今回は地上戦も実施するため、第51師団が投入されることとなった。これにより、秋津島に残る陸上戦力は新編の第52師団(現地住民主体)と海軍陸戦隊四個大隊のみとなる。そして、司令官は山本五十六大将が自ら出向き、指揮を取ることとなった。これはこの作戦の重要度を物語る事例であろうと言えた。