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第三章 何がための戦い−5−

移転暦一九年八月


 そのころ、西中海方面はどうなっていたのかというと、プロイデンは陸上部隊による東進を急遽中止、部隊を西に移動させていった。その理由はすぐに明らかになった。西中海の西のはずれ、移転前でいえば黒海につながっている海峡の近辺で石油が出ているのに気づいたためであったと思われた。前年一〇月には輸送船と思われる船二○隻、その護衛と思われる大小さまざまな戦闘艦艇三○隻が西に向かうのが確認され、本年一月に入ってから大型のタンカーと思われる船舶がプロイデンと何度も行き交っていることが確認された。その後、地上部隊の東進はなく、西進が目立つようになったのである。


 日本側は安堵したといえる。とりあえず戦闘は避けることができたからである。しかし、石油が必要なのは日本の友好国もそうであった。ちなみにこれまでの東南アジア地域では、石炭と石炭の液化したと思われる液体が燃料として使われていたのである。それを使って発電したり、動力源として使用していたのだった。その液体を分析したところ、かって日本でも考えられていた石炭液化燃料と同じであり、重油を燃料とする機関では使えそうであったと言われる。


 日本本国では火力発電は行われていない。太陽発電、原子力発電が主流で、その他には水力および風力発電が行われていた。秋津島では当初、火力発電が行われていたが、北秋津市および南秋津市で複数の原子力発電が始められていた。このころには日本本国からの移住者は二○○○万人を数え、総人口も二三○○万人に達していたのである。その居住地は北秋津市か南秋津市に集中しており、その利用電力をまかなうには原子力発電が必要だったといえた。


 秋津島統合防衛軍では新兵の補充を目的として海軍船員学校および海軍飛行学校そして陸軍兵学校の三校が開設されていた。これらの学校は水兵およびパイロットそして陸兵の養成のために開設されたのであるが、その計画は当初の目的と異なる方向に進んでいたのである。


 この学校を出たからといって士官になれるわけではなかったが、この学校の開設を知った友好国各国は自国の軍人を留学生として派遣するようになったのである。本来は一年履修であったが、一年の修了後に士官教育課程も存在し、友好国各国からの留学生は二年の仕官教育課程に進んでおり、これを修了したものは自国で士官として遇されるためか、多くの留学生が集まり、本来の目的である新兵補充は予想以上に少なかったのである。


 そもそもの開設目的の一つに友好国の戦力向上および兵の増員にあったため、開設の際、友好国各国に対して留学生の受け入れを公表したことにその原因があったといえる。もっとも、留学生受け入れに関しては、秋津島統合防衛軍の維持費獲得の目的もあってのもので、その代償として高額費用が日本軍に支払われることになっていた。当然ではあるが、日本国籍を有するものは無料であった。


 この三校の教官はすべて日本軍(元自衛隊)の退役および予備役からなっていた。定員は海軍船員学校が二○○名、海軍飛行学校が一〇〇名、陸軍兵学校が二〇〇名であった。初年度は海軍船員学校一八○名、海軍飛行学校九○名、陸軍兵学校一七○名が国外の友好国からの留学生であった。ぞれぞれもっとも多かった国はというと、海軍船員学校でエリプト連合共和国で一〇〇名、海軍飛行学校でサウロギニアの四○名、陸軍兵学校でエリプト連合共和国で一〇〇名であった。


 軍の再編の一角として、秋津島統合防衛軍海軍では水上機母艦の空母転用により、水上機運用の機会がないため、それらパイロットには艦載機乗りへの機種転換も行われていた。艦艇の改装により、乗組員定員の減少による乗組員過剰に対応するため、適正試験を突破した一部軍人を航空兵および整備員など他兵科への転換も行われているのは既知通りである。


 つまり、砲自体の高性能さゆえに搭載量が減ったため、乗組員の数は削減されることとなり、どうしても余剰人員が出てしまったが、大井保少佐の上申により、他分野での活用が図られたわけである。ちなみに、現在の海軍艦艇ではハンモック使用はありえなかった。大部屋ではあるが、きちんとしたベッドで寝ることとなる。


 海軍作戦本部長宇垣纏中将や航空集団司令官南雲忠一中将などにしてみれば、大艦巨砲主義者や敵艦に肉薄して魚雷攻撃をする水雷戦など役に立たず、それこそミサイルによるアウトレンジ攻撃が主体の現代海軍のあり方はショックであった筈だが、今のところうまく対応しているようである。先頃、行われたオーロラリア帝国との戦闘など彼らにしてみれば異次元の戦いであったはずだが、それなりに対応していたからである。


 それはおそらく、昭和の軍人すべてに言えることであろう。航空主兵主義者たる人間にしても、敵艦に肉薄する雷撃や急降下爆撃ではなく、対艦ミサイルによる一撃必殺についてはショックであっただろうと思われる。もっとも、装甲の厚い戦艦に対艦ミサイルが有効かといえば必ずしもそうではない、ということはひとつの救いであるかもしれないといえる。それは『大和』や『長門』『陸奥』では撃沈に至るような被害を与えられないことはシミュレーションにおいて実証されていた。ともあれ、そのすべての始まりが真珠湾奇襲攻撃であったことを聞かされたとき、彼らはどう思ったかは判らない。


 今では秋津島周辺地域は至って平穏であった。すでに『赤城』『加賀』以外の空母は改装工事に入っており、空母乗り組み整備兵にもジェット機整備の教育がなされ、艦載機乗りにも一部を除いてジェット機への機種転換訓練が始まっていた。


 ちなみに、『鳳翔』はどうなっていたかというと、廃艦決定後しばらく放置されていた駆逐艦の解体の際、その機関を『鳳翔』に載せてみようという案があり、実行されている。ただし、船体自体が小さく空母として使えないことが判っていたため、陸軍師団の急速展開用船艇(揚陸艦)とされ、現在も秋津島にあった。機関が七万二○○○馬力になり、速度も三○ktが出せたためである。


 これまで使用していた零戦や九七式艦上攻撃機、九九式艦上爆撃機は友好各国、エリプト連合共和国やサウロギニア、マレーリア王国、パリエル王国などへ売却されていった。このうち、サウロギニア、マレーリア王国、パリエル王国、ゴリアス国の四国には空軍が創設され、昨年暮からそれぞれ二○機の九七式艦上攻撃機を用いて主に偵察などに運用されていた。友好国(エリプト連合共和国を除く)には一ヶ所ではあるが、四○○○mの滑走路を持つ空港が施設され、民間航空機の航路が開かれていた。


 学校といえば、北秋津市近郊に秋津島農業大学、秋津島商科大学、秋津島工業大学の三校が開設され、友好各国から多くの留学生を受け入れていた。実に全校生徒の七割が留学生であった。軍人の交流だけではなく、民間の交流も大いに進んでいたのである。


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