第三章 何がための戦い−4−
移転暦一九年五月
終戦発効後、一部部隊をオーロラリア帝国およびエリプト連合共和国に駐留させ、秋津島統合防衛軍は平時の任務に戻っており、艦艇も一〇箇所に増えていたドックでの整備が行われていた。今回の戦いでは海戦でも砲雷撃戦や航空戦が無かったため海軍の被害は軽微であった。陸軍でも負傷者のみで戦死者はいなかった。大勝といえる。
戦費に倍する賠償金を得ることができたため(エリプト連合共和国からの支払いやオーロラリア帝国の賠償金などである)、秋津島統合防衛軍司令部は艦艇の改装プランを本国に打診する。空母『赤城』『加賀』『飛龍』『蒼龍』のジェット機搭載化、『千代田』『千歳』『日進』の空母化改装である。これは一部変更して許可された。『千代田』『千歳』『日進』も当初、全長を延ばす予定でジェット機搭載化も考えられていたが、艦形はそのままとされ、ジェット機搭載は見送られた。
『赤城』『加賀』は飛行甲板長二五○m、飛行甲板幅四五m、斜め飛行甲板、昇降機三基(うち二基は舷側式)、カタパルト三基、搭載機数五二機(FG−4戦闘機二四、FG−4II型戦闘攻撃機二四、早期警戒機二、多目的小型ヘリ二)となる。
『飛龍』『蒼龍』は全長二五○mに延長、幅三三mに延長し、『赤城』と同様の飛行甲板長二五○m、飛行甲板幅四五m、斜め飛行甲板、昇降機三基(うち二基は舷側式)、カタパルト三基、搭載機数五二機(FG−4戦闘機二四、FG−4II型戦闘攻撃機二四、早期警戒機二、多目的小型ヘリ二)となる。
『千代田』『千歳』は飛行甲板長一九○m、飛行甲板幅三二m、昇降機二基(うち一基は舷側式)、カタパルト二基、搭載機数三○機(零式戦闘機一二、九七攻撃機一八)となる。
『日進』は飛行甲板長一八○m、飛行甲板幅三○m、昇降機二基(うち一基は舷側式)、カタパルト二基、搭載機数三○機(零式戦闘機一二、九七攻撃機一八)となる。
『瑞鳳』は小改装が行われ、飛行甲板長二○○m、飛行甲板幅三○m、昇降機二基(うち一基は舷側式)、カタパルト二基、搭載機数三二機(零式戦闘機一二、九九爆撃機二○)となる。
『千代田』『千歳』『日進』『瑞鳳』については、飛行甲板幅を広くしたこと(斜め飛行甲板の装備)、軽量高強度材料を使うことで同じ艦橋を小さいながらも右舷に備え、操艦能力が格段に向上する。また、艦載機は任務毎に変更されることとなる。
『赤城』『加賀』の工期は九ヶ月、『飛龍』『蒼龍』の工期は一年、『千代田』『千歳』『日進』の工期は六ヶ月、『瑞鳳』の工期は三ヶ月とされていた。つまり、それほどの一般日本人や現地人の人口が増えており、近隣国の出稼ぎなどもあり、工場人口が増大していたということである。
平時任務に戻ったとはいえ、秋津島統合防衛軍の小型艦艇(駆逐艦や軽巡洋艦)には航路哨戒任務があった。また、部隊維持費を少しでも獲得するため、秋津島統合防衛軍では周辺諸国からの有償による軍人教育や作戦教育などのソフトウェア面で活動していた。それは何も海軍だけではなく、陸軍でもそうであった。
ここ一年間に限って日本との友好条約を結んだ国、ニューロギニア、イースロギニア、サウロギニア、ナミル共和国、エリプト連合共和国などからは、陸軍関係の兵教育などが要請されていた。中でもエリプト連合共和国は昨年までオーロラリア帝国の侵略を受けていたことから、特に熱心であり、日本本国からも武器の購入を計っているといわれていた。海軍艦艇も何隻か購入を希望しているといわれていた。
サウロギニアは海軍艦艇よりも航空戦力に注目しているようであった。パイロット養成に関しての問い合わせや運用、整備士養成などについての問い合わせが多い、とは航空集団参謀から大井の耳に入っていた。
この航空機に関してであるが、秋津島重工という地元会社が、航空機製造を始めていた。そこで作られているのが液冷とかって言われていた水冷エンジンを採用した戦闘機や、攻撃機であった。戦闘機型はかっての三式戦闘機飛燕に似たシルエットをしており、零戦を上回る性能を持っていた。また攻撃機型はかっての流星改攻撃機に似たシルエットを持ち、九七式を上回る性能を持っていた(それは当然ともいえた。なぜならその二機種を元に開発されたからであった)。
もちろん今の日本では政府の許可を得なくして、武器製造はできないが、その点はクリアしていた。この会社は出現した艦艇の砲弾薬の製造も行っていた、というよりも、それのために作られた会社だった。航空機の今後の主力はFG−4戦闘機やFG−4II型戦闘攻撃機になるが、『千代田』『千歳』『日進』『瑞鳳』ではジェット機運用ができないため、レシプロ機の零戦や九七式、九九式を使わざるを得なかった。秋津島統合防衛軍司令部で検討された結果、海軍側は艦載機の特徴であるフロート構造になっていないことから反対する向きもあったが、ジェット機ではそうなっていないことからしぶしぶ採用されたのである。
戦闘機型は名称は一九式戦闘機と名づけられており、要目は次の通り。全長一〇m、全高三.七m、全幅一二m、自重三二三五kg、最大重量四七四○kg、最高速度六八○km(高度六○○○m)、上昇限度一万m、航続距離二二○○km、発動機AJP5液冷倒立V型一二気筒過給器付き一六八○馬力×一基、乗員一名、武装二○mm機銃×二、十二.七mm×二、六○kg爆弾×二というものであった。
攻撃機型の名称は一九式攻撃機と名づけられており、要目は次の通り。全長一一.五m、全高四m、全長一四.四m、自重三六五○kg、最大重量五八九○kg、最高速度六三○km(高度六二○○m)、上昇限度九五○○m、航続距離一八五○〜三○○○km(爆装によって変わる)、発動機AJP6液冷倒立V型一二気筒過給器付き二○八○馬力×一、乗員二名、武装二○mm機銃×2、十二.七ミリ機銃×一(後部旋回機銃、後に廃止)、八○○kg航空魚雷×一または八○○kg爆弾×一もしくは五○○kg×一もしくは二五○kg×二もしくは六○kg×六というもので、急降下爆撃もこなすように設計されてあった。
これら機体は後に友好国が創設する空軍に採用されてゆくことになり、いわば標準戦闘機あるいは攻撃機となる。秋津島統合防衛軍では採用されないが、機銃を四○mm一挺にした対地攻撃型や秋津島統合防衛軍でも少数採用される偵察機型などの派生型も生産されることとなり、このおかげで、秋津島重工は膨大な収益を上げることとなる。この世界の各国でジェット機が使用されるにはあと一〇数年を要するようになるのであった。