諸国漫遊じじばば
あるところに、土を均した街道をえっちらおっちら杖つき歩く一組の老夫婦がいました。
彼らの次の目的地である町までは、あと二キロ程といったところです。
しかし、先を急がぬ二人は遠目に見える町を眺めながら、のんびりのんびりと歩を進めておりました。
と、そこで道のちょっとした窪みにおじいさんの杖の先が引っかかり、その拍子に手から離れカランと地面に落ちてしまいます。
「おっとと、活きのいい杖じゃわい」
「あらあら」
クスクスと上品に笑うおばあさんを前にして、おじいさんは少し照れたように笑いながら、杖を拾うべく腰を屈めました。
「ふぅ。どれ、よっこい…………しょぷ!」
「……おじいさん?」
なぜか変な掛け声をかけたきり全く動かなくなってしまったおじいさん。
そんな連れ合いに、おばあさんは首を傾げます。
そして、ゆっくりと顔だけを妻の方へ向けたおじいさんは、幾筋も皺の刻まれた額からあぶら汗を流しながら、こう言いました。
「こっ、腰がっ……イってもーたっ。ぉうっふぁ。
う、動くとあまりの痛みに昇天しちまいそうじゃあ。
ばあさん、助けとくれぇー」
「あらまぁ、弱りましたねぇ。
この辺りには危険な獣が出るという噂ですし。
助けを呼びに行こうにも、動けないおじいさんを置いて離れるのはねぇ」
頬に手を当て眉をハの字にしながら困るおばあさんでしたが、常に死が間近にある年寄りの余裕なのか、特に慌てるような素振りは見受けられません。
と、そこへ、まだどことなく少年のあどけなさを残した青年が、二人とは別の方角に延びる街道から簡素な荷馬車をロバに牽かせつつ歩いて来ました。
おばあさんはこれ幸いと青年に話しかけます。
「もし、そこを行くお兄さん。
急ぎでなければ、どうか貴方の手を貸してはいただけないかしら」
多くの地域で未だに賊が跋扈しているような世の中です。
場合によっては、盗人か詐欺師かと警戒されておかしくない状況であったのですが、今時分に珍しくも情の厚い青年は、おばあさんの善性を疑いもせずに首を縦に振りました。
「ええと、僕でよろしければ」
「まぁまぁ、ご親切にありがとう。助かるわ。
実は、そこな町へ向かう途中に連れ合いが腰を痛めてしまって……」
おばあさんがやおら説明を始めると、彼はまるで二人が自らの肉親であるかのごとく、心からの気遣いを示しました。
彼女の話を聞き終えた青年は、町に唯一の診療所まで送り届けると言い、動けなくなっているおじいさんを慎重に抱えて荷馬車に乗せます。
痛みに呻きながらも、おじいさんは彼の敬虔な態度にすっかり感激してしまっているようでした。
「あまり乗り心地は良くないでしょうが、少しの間の辛抱です」
「おぅおぅ、なんと奇特な若者じゃあ。
お前さんには、いずれきっと良いことがあるじゃろうて」
「まぁ、おじいさんたら」
声ばかり調子の良いおじいさんです。
笑いさざめく和やかな雰囲気の中、荷馬車はゆっくりゆっくりと町へ向かっていったのでした。
腰痛に効くという薬を塗られ、ベッドにうつ伏せになるおじいさんを残して、おばあさんと青年の二人は診療所のすぐ外で言葉を交わしています。
「この度は、本当に助かりました。ロバさんは大丈夫だったかしら?」
「華奢なご老人お二人乗せた程度、どうということはありませんよ。
うちのロバは特に足腰が強いんです」
改めてお礼を口にするおばあさんへ、青年が愛馬の首筋を撫でながら自慢げにそう告げました。
「それじゃあ、僕はこれで……」
そのままの流れで、彼はハミから延びる手綱を取って、踵を返そうとします。
「まぁっ、まだ何のお礼もしていないのに」
すると、おばあさんは慌てて自身の斜め掛け鞄を漁り出しました。
対して、青年は苦笑いで片手を横に振ります。
「自分が町へ戻るついででしたし、お気持ちだけで十分ですから」
「……ううん。あまり押し付けても、ご迷惑になるかしら」
純粋な親切心による行為ですから、それに物品を渡して値をつけるような真似をするのは無粋になるかもと、おばあさんは頭を捻ります。
「だったら、そうね。
おじいさんの具合もあるし、私たちしばらくこの町に留まりますから、何かあったら、いつでも頼ってちょうだい。
こんな老人でよければ、何だって力になりますから」
「ははは、なるほど。覚えておきます」
仮に、彼の身に厄介ごとが起きたとして、わざわざ他人同然の年寄りを尋ねるなどしないでしょう。
そんな事実をお互いに理解していましたが、何とか恩に報いようとする彼女の心情を汲み取って、青年は笑ってソレを受け入れたのです。
「では、くれぐれもお身体お大事に」
「えぇ、ありがとう。貴方も」
今度こそ去っていく彼とロバを、もうおばあさんは引き止めませんでした。
その背が道の角を曲がり、視界から完全に消えてしまうまで見送った彼女は、ほうと疲れを零すように一息ついてから、診療所の中へと戻ります。
そうして連れ合いの元にたどり着いてみれば、当のおじいさんは、壮年の町医者を相手に暢気にいちびっているようでした。
「……というわけで、ワシら夫婦は四十年ごしの新婚旅行と相成ったわけじゃ。
これでも、もう随分色々と周っておってな。ここで六ヶ国目になるんじゃよ」
「それはすごい。しかし、長旅は老体には堪えるでしょう。
いや、それ以上に……街道には荒くれ者や魔物も出没するというのに、よくもまぁ五体無事で」
「ふぉふぉ。これでも若い時分は、ブイブイ言わせとったもんでのぉ。
大陸戦争の時代に比べれば、なぁにこの程度……あ痛たたた」
「あーあー、あんまり動いちゃいけませんて」
恰幅の良い赤毛の医師は、これまた物腰の柔らかい好人物で、突然の来訪者にも懇切丁寧な態度を崩しません。
診察室のさらに奥にある一時預かりどころとしての部屋、その寝床のひとつに転がされたまま、彼を暇つぶしの会話に付き合わせていたおじいさんは、段々と興が乗ったのか、腕を振り上げようとして腰骨の激痛に唸ります。
「もう、おじいさんたら。
お医者先生に迷惑をかけるものじゃあありませんよ」
「うおっ、ばあさん。戻っておったのか」
「えぇ、えぇ、戻りましたとも。
まったく、困った人ね……ちっとも大人しくしていられないなんて」
「うぅ」
最愛の妻から呆れたような視線を向けられ、意外と尻に敷かれているらしい夫はしゅんと項垂れてしまいました。
それを哀れに思ったのか、町医者が彼らの間にそっと言葉を差し入れます。
「いやいや、奥方殿。迷惑などとんでもない。
中々含蓄のあるお話で、私も楽しかったですよ」
「まぁ、いけませんわ先生。この人ったら、甘やかすとすぐ調子に乗るんですから。
厳しく言い聞かせておかないと、治るものも治りません」
「おっとと、これは参ったな」
「うぅぅ」
気まぐれで夫婦四十年の絆に敵うものではないと、壮年の医師は苦笑いで降参の両手を上げました。
その後の話し合いで、引き離すのも忍びないからと、二人は診療所の一室を宿として借りる流れとなります。
おばあさんは、おじいさんの看病はもちろんですが、お世話になっているからと、掃除や洗濯など家事一式を手伝う始末で、返って申し訳なかったかなと町医者を恐縮させました。
幸い、三日も経つ頃には、おじいさんの腰も随分と融通が利くようになって、旅の再開に向けての訓練を始めたようでした。
ことが起こったのは、それから更に三日が経過した頃合です。
早朝、ガンガンと荒い鐘の音が見張り台の上から町中に落ちていきます。
途端、あちらこちらで悲鳴や怒声が飛び交い、そんな住民たちの落ち着かぬ様子に、いまいち状況の把握できない老夫婦が揃って首を傾げておりました。
「何やら非常事態のようじゃの、ばあさん」
「そうですねぇ、おじいさん。どうしたものかしら」
部屋の窓から、慌ただしく駆けていく人々を観察しながら、いかにも危機意識の薄い態度で呟きます。
やがて、無駄に時間を消費するばかりの二人の元に、パンパンに膨らんだカバンを四つほど抱えた医師がやって来ました。
「おじいさん、おばあさん! 魔獣の群れが来ます!
ここから一番近くの避難壕に逃げますから、邪魔になる荷物はそのままで、身一つでついて来て下さい!」
己の姿を鏡に映してから言えとツッコミを入れたくなるセリフですが、彼の職業を考えれば、ある程度は仕方のないことなのかもしれません。
器具も薬もなく、すり傷ひとつ治療のできぬ医者など、およそ立場もないものでしょうから。
ちなみに、この町は木材には恵まれていますが、堅牢な建物を造るだけの丈夫な素材には縁がなく、各地区ごとに壕を掘って、非常時はそこに避難するというのが通例となっています。
杖をついた老人二人の進み具合は壮年の医師の普段の歩みよりもなお遅く、彼らを連れて診療所を出る頃には、町はすっかり空っぽになっておりました。
これが一人であれば、抱えて走ることも可能だったのかもしれませんが、残念ながら彼らは夫婦で、声をかける以外に町医者にできることはありません。
「急いで! 急いで! 土煙が近い、もう魔獣たちはすぐそこまで来てますよ!」
浮き足立つ男を前に、ひぃひぃと足を動かしていた老人二人が、ふと互いに目配せをしてその場に止まります。
熟練が成せる業か、老夫婦はやたらと息の合った仕草で医師を見つめ、神妙にこう言い放ちました。
「先生、先生。無理にワシらに付き合う必要はないんじゃよ」
「そうです。私たちは老い先の短い身、今更になって惜しい命もありません」
置いていけと、暗にそう伝えれば、町医者はこれまでの仏顔をかなぐり捨て、般若のような表情で怒鳴り出しました。
「ウルセェ! テメェ可愛さに目の前の命を見捨てて医者が名乗れるか!
いいから逃げるぞ!」
「ひぇっ」
「まぁ……」
突如、豹変した医師に、おじいさんは肩をビクつかせ、おばあさんは驚きに目を見開きます。
町の人間ですらない、数日前に出会ったばかりの老人を相手に、大層立派な志です。
現実として考えれば、この地で唯一の医者が、放っておいてもお迎え間近の彼らの道連れと散るのは、未来への損害があまりに大き過ぎます。
一般論として愚かと言わざるを得ない選択肢でありましょうが、人間、命を賭しても守るべき信念があるというのであれば、それは、けして軽率に侵されて良いものではありません。
「さぁ、行きますよ」
「は、はい」
「ありがとうございます、先生」
感激に涙を堪えながらも、医師に従い再び杖を進め始める老夫婦でしたが、そこで更に、道の曲がり角から颯爽と援軍が登場しました。
「ああっ、やっぱりまだこんなところに!
おじいさん、おばあさん、僕の荷馬車に乗ってください、早くっ」
「なっ、お主!?」
それは、町を訪れた日、腰を痛めたおじいさんを親切にも診療所まで連れてくれた青年でした。
さぁさぁと近寄ってくる彼に、おばあさんが皆の心を代弁するように当たり前の疑問を投げかけます。
「貴方、どうしてここに……?」
「同じ避難壕のはずなのに、どこにもいないから心配で探しに来たんです。
すれ違いにならなくて良かった」
「まあっ、なんてこと!
私たちのために、一度は避難した壕から出てらしたの?
しかも、そんな重い荷馬車まで自ら牽いて……?」
「うおおぉ、なんという殊勝な若者じゃあああ!」
これには、おじいさんも号泣です。
うっかりその場に蹲りそうになる老人を、青年は困り顔で宥めすかしつつ荷台に運び上げました。
おばあさんは、そんな夫を少々呆れた目で見ながら、町医者の補助を受けつつ己の足で同じ場所に乗り込みます。
即座に発進した荷馬車は、前方を青年に引かれ、後方を医師に押されながら、ゴロゴロと土の路を進んでいきました。
ちなみに青年自慢のロバは、主人の無茶に付き合わせられないということで、壕の中でお留守番をしています。
「急げ! 急げ!」
夢中で逃げる4人でしたが、まぁ、これだけ長く時間を浪費していれば、当然、魔獣だって遊んでいるわけではないのですから追いつきもするものです。
【グルゥアァアアアァァアアアアアアッ!】
恐ろしい咆哮と共に彼らの背後に現れたのは、魔狼を使役するゴブリンライダー、悪食で有名な三尾巨猿、額から切れ味鋭い刃のような骨の伸びる大角虎などの凶悪魔獣で構成された混成集団でした。
このように多種族で群れて行動することは通常有り得ないのですが、とある切実な事情により、彼らは揃って大地を駆けて来たのです。
「ああっ、くそっ、くそぉっ!」
「ここまでか……っ」
走る足を止めないまま、チラチラと後方を振り返りつつ、青年と医師が絶望に顔面を歪めます。
それから間もなく、最後尾に位置する町医者が今にも魔獣から飛び掛かられそうになった時のことです。
ドンッという大きな音と共に荷馬車が不安定に揺れて、気が付けば、おじいさんが消えておりました。
壮年の医師は一瞬だけその事実に呆然とし、すぐに正気に戻って、まさか彼が自分の身代わりに飛び込んだのではないかと、急ぎ、背後へ首を回しました。
すると、そこには赤色に染まった土と、横たわるひとつの亡骸が……。
「おっ、おじいさん!?」
「えっ?」
町医者は驚きに全身を固まらせ、それにつられるようにして、青年も動きを停止します。
彼らの視線の先には、肉体を左右真っ二つに斬り分けられた魔獣の死骸を足元に、仕込み杖から引き抜いた細身の剣を構える、凛々しいおじいさんの姿がありました。
「はっ!」
気合いの掛け声と共に枯れた細腕を宙にブレさせれば、キラリと太陽を反射し光る刃が、彼の周囲の魔獣数匹をまとめて微塵に刻んでゆきます。
「へ?」
「え、なんっ……」
目にも見えぬ達人の早業に、何が起こっているのか到底理解が及ばない男たちです。
二人の喉から、反射的に意味を持たない間抜けな音が漏れ出します。
「せいっ!」
おじいさんの発声が辺りに響く度に、面白いようにバッタバッタと魔獣たちが倒れていきました。
一閃の元に斬り捨てられていく仲間の犠牲をもってして、ようやく脅威を認識したのか、散発的なちょっかいを止め、ついに彼らは総攻撃を仕掛けてきます。
そして、それを迎え撃とうとおじいさんが剣を上段に構えた、その刹那、稲妻のような衝撃が彼を襲いました。
「腰がッ……!」
そう、ぎっくり腰が再発してしまったのです。
己の剣すら取り落とし、完全に無防備になってしまったおじいさんへと、容赦無く魔獣がその牙をむきます。
「っ危ない!」
思わず町医者がそう叫んだと同時に、彼のすぐ側をゴウゴゴウッと真っ赤に輝く何かが物凄いスピードでいくつも通り抜けていきました。
「ふぁっ!?」
その赤い何かが、それぞれおじいさんを囲む魔獣の元へと到達すると、途端に、彼らを中心に巨大な火柱が立ち上ります。
炎の昇る勢い凄まじく、柱は天まで届こうかという、激しい燃え盛りようを見せておりました。
阿鼻叫喚の地獄絵図の中、いつの間にか水の球に体を包まれていたおじいさんが、そのままフワリフワリと荷馬車に向かい飛んで来ます。
唐突かつあまりに非現実的な展開の連続に思考が追いつかない青年と医師は、大口を開いた間抜けな顔で、ただ眺めていることしか出来ません。
荷台に到着し、プリっと球体から解放されたおじいさんの側へ寄るおばあさん。
日常、慎ましやかな老女の手には、すっかり様変わりした神々しくも荘厳な杖が握られておりました。
そう……おじいさんが仕込み杖なら、おばあさんのソレは、変形する魔法の杖だったのです。
再発した腰の痛みに喘ぐおじいさんですが、妻であるおばあさんは、そんな夫を容赦なく叱りつけました。
「もうっ。
おじいさんたら、いつまで経っても、考えなしに飛び出して行くクセが抜けないんですから。
ご自分のお年をよぉく頭に入れた上で、少しは自重することを覚えて下さいな」
「うぅ……ばあさん、すまんのぉ」
命からがらの危機的場面だったとあって、さすがに反省の色も深いおじいさんです。
その会話の隙に、ハッと気を取り戻した男たちは、あっけなく全滅した元魔獣たちの残骸を目に止めた後、老夫婦に視線を移して、掠れ震える声で呟きました。
「こ、こんなことって……」
「あ……ああ、貴方たち……いったい何者なんです」
彼らの瞳には、驚きの他に、強大な力への怯えの感情が含まれています。
そんな青年と医師の様子に気付いていないのか、年寄り二人は揃ってきょとんとした表情を浮かべてから、自らを指差し、こう告げました。
「うん? 名乗っとらんかったかの?
ワシ、ジューちゃん☆」
「私は、ユーちゃん♪」
いっそ無邪気すぎるぐらいの、満面笑顔の夫婦でした。
「いや、ちゃん付けって……」
「ジューに、ユー……っあ! えっ、まさか!?」
青年は特に心当たりもないようで、彼らの奔放な紹介に気抜けしたようでしたが、大陸戦争終了直後に生まれた壮年の医師は違います。
「んもももしかして、剣聖ジュラルパと、大魔導師ユーリカ!?
ほんっ本物!?」
「へっ?」
町医者の叫びに、青年が目を丸くして固まりました。
剣聖ジュラルパと大魔導師ユーリカといえば、現代なら余裕で教科書に載っているような大人物です。
有名レベルでいうと、ナポレオン・ボナパルトにも匹敵します。
本人たちは未だ健在ですが、書籍や舞台演劇、吟遊詩人の鉄板ネタ等として彼らの活躍はすでに伝説となり大陸中に広まっているのです。
まさかこんな田舎町にという思いは拭えませんが、老夫婦のあの異常なまでの強さを目の当たりにした医師にとっては、すでにその正体は確定事項となっておりました。
「んー、まぁ、そんな風に呼ばれた時代もあったかのー」
「懐かしいですねぇ」
「ウッソだろぉぉ!」
「ひえぇっ!?」
案の定、肯定を返す年寄りたちに、男二人は驚愕の悲鳴を上げてしまいます。
まぁ、そんなこんなで、ある程度騒ぎ倒した青年と町医者は、腰痛のおじいさんとおばあさんを連れて再び診療所へと引き返したのでした。
そして、ここにきてようやく老夫婦は、この町が抱える事情を知ったのです。
「すべては北の山に一匹のドラゴンが住み着いたことから始まったんです」
「初めは小さな草食動物からでした」
医師と青年の中々の連携具合で語られた内容によると、それはかなり気性が荒いドラゴンらしく、山に暮らしていた獣や魔獣が、弱いものから次々と追い出されていっているということでした。
そして、そんな獣たちの通り道が、この町なのだそうです。
建物などは障害物としてどうしても破壊されがちですが、山からなるべく離れたい彼らが長く町に留まることはありません。
だから、その間だけ避難壕に隠れていれば、人的被害はかなり抑えられるのだ、と町医者は言います。
「いやぁ、材料だけは沢山ありますから、毎度の復興は意外と大仕事って程でもないんですよ。
近頃は効率的な家屋の組み立て方や壊れ具合別の木材再利用法なんかも編み出されましたしね」
青年が空笑いでそんなことを述べました。
この逆境にあって、どうにかポジティブであろうとする精神は見上げたものです。
「まぁ、随分とこの非常生活に慣れたものですが、それでも犠牲者が出ることはありますし、作物も荒らされ放題で、行商人なんかも魔獣を恐れてすっかり撤退してしまって……正直、このまま我々が暮らしていくには難しい状況になりつつあります」
「うぅむ、なるほど難儀じゃのぅ」
「この辺りに出るっていう危険な獣の噂は、きっとその行商人たちから広まったのね」
おじいさんは腰痛薬を塗布されベッドの上で、おばあさんはその傍の椅子に座って、各々相槌を打ちながら彼らの話に聞き入っているようでした。
「じゃあ、ばあさん」
「えぇ、おじいさん」
すっかり情報が出尽くした頃、おじいさんとおばあさんは、お互いの顔を見合わせて、順番にコクリコクリと頷きます。
そして、同時に町の男二人に視線を移して、何でもない雑談のように軽ーい口調で、特大の爆弾を落としてきたのです。
「ワシの腰が治ったら、また旅を続けるついでに北の山に寄って、そのドラゴンとやらを懲らしめてやればいいわけじゃな」
「山の坂道は少ぅし堪えますけれど、まぁ、急ぐ旅でもないですし、のんびり行きましょうか」
「はあああ!?」
「いやいやいやいや!」
トンデモ発言を受けて勢いよく立ち上がった青年と医師は、ものすごい剣幕で老夫婦に詰め寄りました。
「いくら大戦の英雄である剣聖と大魔導師でも、相手は人間じゃない、ドラゴンなんですよ!?
それに、平地ならともかく、未開の山で戦おうなど地形の不利が過ぎる!
そんな枯れた足腰で一体どれだけのことが出来るというのです、無謀でしかない、お止めなさい!」
「放っておいても、いつかは逃げる魔獣すらいなくなって平和になるかもしれないでしょう!?
町の関係者でもないおじいさんとおばあさんが、わざわざ無理をする必要なんかありませんよ!
いのちだいじに! いのちだいじに!」
これ幸いと送り出さず、本気で止めにかかるあたり、伊達にお人好し二人じゃあありません。
平和になるかも、なんてセリフも出ていますが、壕が荒らされない保障もなければ、ドラゴン級の巨大魔獣が現れれば、地下空間ごと潰されてしまう可能性だってあります。
それを分かった上で、老夫婦を説得するために咄嗟に道化を演じてみせるのですから、まぁ、そんな善意を見逃せるジュラルパとユーリカではないでしょう。
「カカッ。なぁに、ああいった手合いならワシらの十八番じゃわい」
「そうそう。
命の危険があるとしたら、それは魔獣じゃなくて、山の中で遭難して衰弱死とか、あとは寿命でぽっくり……ぐらいですよねぇ?」
「洒落になってませんからソレぇぇ!」
「頼みますから、自分たちを英雄殺しの間接的犯人にさせないで下さいよぉぉ!」
朗らかに笑い合う老夫婦と、混乱絶叫の渦中にある男たち。
もしも、ここに尋ねる人などあろうものなら、シュールすぎる光景に、すぐさま逃げを打つこと請け合いです。
もちろん、棺桶に片足を突っ込んだ状態にあるおじいさんとおばあさんが、外野から何をどう言われたところで、今更になって意思を変えるような真似をするはずもありません。
青年と医師、二人掛かりの必死の説得も空しく、それから十日も経つ頃には、北の山を経路に据えたままニコニコと笑い旅立つ老夫婦を、彼らは泣きながら見送る破目になるのでした。
おじいさんとおばあさんが去っていった数日後から、この地方にあって珍しい小さな地震が散発的に発生したり、山の中から眩い光の筋がいくつも立ち昇っていく超常現象が起こるようになったりと、事情を知らぬ住民たちの間にかなりの不安が広がっていきました。
結果、疎開者が増えて、少しばかり衰退が進んだりもしたものですが、ある時、天地を揺るがす一際大きな轟音が一帯に響き渡ると、それがきっかけであったとでもいうように、以後、町には再び静かで平和な日常が戻ってきたのです。
気が付けば、あれだけ頻繁に現れていた魔獣もとんと見かけなくなっており、やがて、旅人や出稼ぎの人間などからその噂が広がって、今にも廃れかけていた町は、少しずつかつての賑やかな姿へと立ち直っていったのでした。
町に暮らす一人の青年と壮年の医師は、前触れなく彼らの元を訪れた奇跡に感謝を捧げながら、一組の心優しき老夫婦の旅の無事を祈ります。
そんな騒動から約一年が過ぎた頃、ドラゴンに乗って大陸全土を飛び回る爺婆といった眉唾物の風の噂が二人の耳に届き、揃って噴出するなどという珍事態が発生するのですが……まぁ、それはまだまだ、未来のお話。
諸国漫遊じじばば、完。