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第83話 絶望

作者: 山中幸盛

 同人誌『いよいよ』の第七号に、大西隆信氏の「生命いのちの限り(下)―アウシュビッツの地獄の中で―」がある。通読して、アウシュビッツ強制収容所に送られたユダヤ人達の心情を想うと、もはや「絶望」ということばしか思い浮かばない。その中から三箇所を引用する。

【ストライプの囚人服1枚では、通常零下20度の労働環境ではとても耐えられません。雪がちらつく寒さが囚人たちの体温を非情にも奪っていきます。さらに慢性的な栄養不足によって手足が動かなくなったことで多くの仲間がカポーから手痛い攻撃を受け、そのまま降る雪に埋もれて死んでいくさまを何度も見ながら、次こそは自分の番だと覚悟を決める日々が続きました。】

【ある夜、近くのベッドで横たわる、先輩にあたる仲間がほとんど意識をなくしているのに気が付いたエリカはそのベッドにもぐりこみ励ましの声を掛けながら時を待ちました。しばらくして冷たくなって呼吸をしていないと確認するや、彼女の囚人服上下を脱がせて自分の囚人服に重ねました。

 ひどいのはまだ若干意識があっても衣服をもぎ取る連中がいることです。悲鳴が上がっても誰も動きません。】

【ある日の事。母と子とおばあさんの一家が貨車から降りました。子どもを抱いた母親とおばあさんは別々の列に振り分けられましたが、突然SSがその母親に対して「子供を年寄りに渡せ!」と命令しました。でも母親は子供を離そうとしません。SSが近づき大声で「その子供を早く渡せ!」と今にも殴り掛からんとして言いました。母親はやむなくおばあさんに渡したのです。

 結局ガス室に送られたのはその子供とおばあさんでした。母親は強制労働組でした。】


 幸盛は出勤し、始業前に読了して、やりきれない思いで『弥』を閉じて顔を上げると、梅木さんが椅子から立ち上がって、はい、と回覧文書を差し出してきた。幸盛は受け取り、表紙を見ると、『職場内人権研修の実施について』とある。パラパラとめくってみた。

 【趣旨 「人権週間」(12月4日~10日)の時期に合わせ、職員一人ひとりが日常の人権意識や行動を振り返り、人権尊重を基本とした職務遂行の徹底を図る。】

 【(名古屋市の)「平成26年度人権についての市民意識調査」結果。①女性に関して、どのような人権問題が起きていると思うか?(複数回答可)「強姦・強制わいせつなどの性犯罪や売買春52.8%」「労働における職種の限定、待遇の差47.2%」「セクシャル・ハラスメント45.7%」「配偶者・交際相手からの暴力(DV)43.9%」など。②子どもに関して、どのような人権問題が起きていると思うか?(複数回答可)「子どもへの暴力や暴言、育児放棄などの虐待78.8%」「子どもの間で仲間はずれや無視、暴力をふるうなどのいじめ62.3%」「インターネットを使ってのいじめ59.2%」「暴力や犯罪、性にかかわる問題など子どもにとって有害な情報の氾濫52.3%」など。

 他にも、③高齢者、④障害者、⑤同和問題、⑥外国人、⑦さまざまな人権分野、と調査結果が続く。】

 アウシュビッツの悲惨さに比べれば回覧にあるような人権問題はちっぽけなものに思えるが、当事者の中には「ひと思いにガス室で殺してくれ」と叫んでいる者もいるかもしれない。ガス室で殺される理由と、いじめられたり虐待されたりする理由が、当事者たちとってみれば「納得できない」という点で一致しているような気がする。理不尽、不条理、それが人権無視ということなのだろう。しかし、この時はまだ、このような人権問題を、幸盛は他人事のように考えていた。


 十二月の上旬に、幸盛は知多半島の小さな漁港の堤防の先端までアナゴ釣りに出かけた。この時期の夜釣りは凍える寒さなので周囲には人っ子一人居ない。深夜二時を過ぎた頃、車が一台漁港に入って来て幸盛の車の近くに停まった。

 イヤな予感がして水銀灯に照らされた車の方を見ていると、海面から五メートルほどの高さで、幅が六メートルほどの堤防の上に四人の人影が現れ、こちらに近づいて来る。一人は小柄だが他の三人は大男だ。幸盛は釣りをしていることを伝えるため、横に置いていた蛍光ランプを点灯させた。

 彼らは折りたたみ椅子に腰かけている幸盛の四、五メートル手前で立ち止まり、逃げられないように広がって道をふさぐと、蛇のような目をした小柄な男が歩み寄って来て懐から拳銃のようなものを取り出し、「パン」と乾いた音を鳴らして蛍光ランプを木っ端微塵に吹き飛ばしてから言った。 

「金を出せ」

 幸盛は恐ろしさで腰が抜けてしまい、顔面蒼白で声も出ない。しかし、ここで金を惜しんでは殺されるかもしれないので、ジャンパーの内ポケットから財布を取り出し、札を全部抜き出して男の方に差し出すと、男は黙って受け取り、月明かりで七,八万円あることを確かめると言った。

「お前は運がいい。死にたくなかったら海に飛び込め」

 幸盛は覚悟を決めて立ち上がり、おもむろに防寒服の上下を脱ぎ捨てた。堤防の下には捨て石が置かれているので最低でも五メートル以上跳ばないと港内の深みに届かない。幸盛は思い切り助走してから海に向かって大ジャンプした。



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