01
「『まだ死んでないよ』って?」
私はその真っ黒な男に尋ねた。
ボロボロのグズグズに崩れた黒い外套。
赤錆で脆くなって、今にも壊れそうないくつかの装飾品。
彼の顔の上半分は包帯でグルグル巻きに覆われていて、わずかに覗く瞳と口元からしか表情を伺えない。
「言葉通りの意味だ、人はいつか死ぬ。でも君が死ぬのは今では無かったようだね」
彼はそう言って私に向かって手を伸ばした。
私はめっちゃ緊張しながらその手を取ると、彼はクンっと私の手を引き、クロスバイクの上から起こしてくれた。
「貴方は――」
立ち上がった私は、思わず一歩彼から離れる。
「――テオーリアですか?」
都市伝説上の存在、亡失された死神、本当にそうなの?
こんな異様な外見をした人間……人間?
「そうだ」
短い返事。
「そうだ――って、え? 一体これって?」
まだまだ混乱している私の脳味噌は、適当な質問を搾り出してくれない。
都市伝説が、突然目の前に、そして私の命を助けてくれた?
「『答え』というのは大抵の物事には存在する、当たり前のように明確で簡単な答えがね。そんな当たり前な『答え』よりも、それを導くための『問い』の方が重要だと、そう思わないか?」
死神はシニカルな微笑みを口元に浮かべると、私にそんな質問を投げてきた。
「え?」
「君の今の混乱も、僕に的確な『問い』を投げかけられれば解決する。そういう意味さ」
難しいものだよな、言葉は不便で――半ば独り言のような口調で彼は最後にそう付け加えた。
「私に……気を使ってくれてるの?」
彼の発言の意味は全然理解できてなかったけど。口ぶりからなんとなく、そんな気がした。
「そうだね、私は君を巻き込んでしまったようだし」
「巻き込むって?」
「これから始まる、酷い出来事にだよ」
酷い出来事、そんな恐ろしい単語とは裏腹に、彼の口調は陽気だ。
まるで、美術館の絵画を鑑賞してるみたいな、感動と興奮と暢気な気配が漂う口調だった。
「私は……どうなるの?」
この時点で、もう私の中には1ミリだって現実感が残ってなくて。
ただただこの非現実的な現象に浮かされて、浮き過ぎて、逆に冷静さを取り戻しつつあった。
ありえない事ばかりで、心の堤防が崩れたみたいな?
「どうにもならないよ、君は君のままだ、僕は君の事を巻き込みたくは無いんだけどね。君は君であるから、これからの出来事に巻き込まれてしまう、私を触媒にしてね」
「私が、自分から、巻き込まれて行くの?」
「君はそれを望む、私にはそれを止める義務……いや、権利がない」
テオーリアは夜空を見上げながら、嘆くようにそんな言葉を落とす。
「一体なんなの? その酷い出来事って」
「それが――」」
テオーリアは私の方を見ない。
「――それが、本当に君の求める『答え』を導く『問い』だと思うのかい?」
「え? 違うって言うの?」
「どうだろうね。答えから遠ざかってしまう問いもある、それは君も知ってるだろう?」
「それって、どういう……」
「君が命を絶とうとしたのも、そして君のかつての友達が命を絶ったのも、そういう話だったとは思わないか?」
その言葉で、私は思わず更に二歩後ろに下がってしまう。
命を絶とうと?
どうしてその事を?
どうして、私の過去を?
「なんで……」
「今此処で全てに答えを出すのは簡単だ。何が起きてるのか、これから何が始まるのか、これまでに何があったのか、君はこれからどうなるのか、私はどこから来たのか。その全ての答えを私は提示する事ができる――」
テオーリアは空に向けて言葉を投げかけ続ける。
「――でも、それは君の求める『答え』なのか? 君は本当にそれを知るべきなのかな?」
彼はそこで視線を落とし、私を視る。
まるで夜空をたっぷりと吸い取ったかのような深い紺の目玉が、私を覗き込んでいた。
「全ての物事が一つに収斂するというのは、人間の傲慢な思い込みだ。この世界は人間の感覚程度では扱えない出来事に満ちている、それを知れば知るほど個の世界は拡散し、個の存在は希薄になっていく」
君も良く知っているだろう――彼はそう言って優しく微笑みかける。
私はその問いかけに、何も返す事ができなかった。
ただただ自分の右胸に手を当て、バクバクと早鐘を打つ心臓を、必死に押さえつけてるだけだった。
「怖がらなくても良い」
テオーリアはそう言うと、突然身を翻して私に背を向けた。
「ま、待って……」
「『問い』については、次に会う時までの課題としておこう。安心すると良い、時間は幾らでもあるからね」
ふわり、とまるで風に乗るように彼の体が浮かび上がる。
「待って、待ってください。課題って? 私は貴方の言ってる事の意味が一つだって理解できてないのに、そんな一方的にいろいろ言われても――」
私は空に漂うその男に、追いすがるように言葉をぶつける。
「私の事を理解する必要はない、君が理解するべき事は、君自身についてだ」
そう言うと彼は、崖の上から飛び出し、闇夜の宙を悠々と歩き出した。
「待って、待ってよテオーリアさん!」
彼はもう私の言葉には答えなかった。
ふわりふわりと中空を渡り、見る見るうちに遠ざかって行く。
「貴方は、何なの? 私の幻覚? これは夢? なんだって今更私はこんな幻を見なくちゃいけないの? 私はもう正常に戻ったのよ! もうあんな……でも、これは……」
気がつくと、私の瞳からは涙が一筋流れ、それが頬を暖めた。
私はそれを拭う。
煮詰まった感情が濃縮されたような、血のような涙を。
テオーリアの姿は、もうどこにも見えなかった。