伏見楓
……テオーリアの事を語るとき、私こと「伏見楓」の頬はパッとハイビスカスみたいに朱に染まってしまう。
あの人は、私に「もう会うことは無いだろう」と最後に宣言した。
きっとその言葉は、嘘偽りを一切含んでいない純粋な物で。
きっとその言葉は、世界のどんな真実よりも正しいのだと思う。
不思議な人だった。
いいや「人」じゃない。
あれにはもっと別の表現……例えば「死神」かな?
テオーリア、あの夜私の前に幽霊のように現れた死神。
私はそれに恋をした。
それは産まれて初めての恋だった。
それが本当に恋と言えるのか、今までそういったパキっとした経験もなく、私はフワフワっと生きてきたからちょっと自信が無いけど。
それでもきっと、あれは私の初恋だった。
ねぇ、良かったら少し思い出話に付き合ってくれない?
それは私の初恋の話。
漆黒の死神と
彼に優しく包み込まれた一人の少女
そんな御伽噺を一つ。
それは真っ暗な夜の出来事だった。
私は無骨なクロスバイクで、必死にその山道を上っていた。
その時私は無性に腹が立っていた。
なぜなら大嫌いなクロスバイクがとっても役に立ってたから。
私への合格祝いのはずなのに、パパは私の意向は完全に無視して、自分の好みの無骨なチャリンコを選んだ。
本当はもっとスポーティで軽そうで、ちょっと色の落ち着いたパステルカラーみたいな自転車が良くて。
その自転車があんまりにも私の好みだったから、それがめちゃくちゃ欲しかったから、私は「大学もチャリ通する」という試練を甘んじて受け入れたというのに。
パパは変速機が二つもついた重苦しい自転車を勝手に買ってしまった。
今思い出しても胸がグツグツと煮えたぎって、すぐにでもこの自転車をガードレールの外、遥かなる谷底へと目掛け「死ねッ」と捨てたくなる。
でも、悔しい事にそのクロスバイクはとても役立っていた。
山の中腹にポツンと立つ大学までの道のりは予想の何倍も険しく、あのパステルカラーの自転車では私の繊細な心はポキッと折れてしまっていただろう。
そんな訳で私は、夜八時の薄暗い山道を、部室に置きっぱなしにしてしまった「明日のテストの過去問の入ったクリアファイル」を回収するために、感謝と憎しみの詰まったクロスバイクを必死に漕いで漕いで漕ぎまくっていた。
「およ?」
大学が見えてきたあたりで、私はブレーキを握り締める。
私は視線を遥か頭上、私の通う大学の遥か先、山の頂上付近に吸い込まれた。
妙なせり出し方をした、断崖絶壁の淵、そこに誰かが居る。
まるで私を見下ろすように誰かが立っていた。
「こんな時間になんじゃろ? まさか自殺?」
うひゃーおっかねー。なんて呟きながら、思わず私はじっとその影を観察した。
それは少し妙な影だった。
大きさからなんとなく男性ではないかと予想できるのだが、シルエットが妙だ。
あれは、マント?
マントみたいな物を羽織っている?
彼が身に纏うそれは、風に煽らればさばさとはためいている。
その奇妙な影には、どことなく悲しげな雰囲気が漂っていた。
「え? 本当に自殺?」
気がつくと私は再び自転車を漕ぎ出し、大学の正門を通り過ぎ、山の頂上へと車輪を廻していた。
無駄だってことは分かってた。
「自殺を止められる」だなんて思い上がってたわけでもない。
私みたいなボケーっとした子が絡んだ程度で自殺は止まらない、そんな事はわかってる。
自殺する人は自殺する。
私は心に無駄な傷を負って、相手は死ぬ前にちょっと不快な思いをするだけ。
余計なお世話で、自己満足で、自分勝手で……
っていう思考が頭の中でクロスバイクの車輪みたいにガーッと回転していたけど。
それでも私は漕がずにはいられなかった。
だって私も、一度そうやって死のうとした事があるから。
私はその時死ねなかった。
死なずに生きて、そして立ち直った。
死ななくて良かったと思えるようになった。
だからこそ、たった今、目の前で死のうとしてるあの人が気になった。
「あそこには、あの時の私が居る」そんな非論理的で馬鹿げた思考が私の足を動かしていた。
私が崖の上に着いた時、その人影はもうどこにも見当たらなかった。
「本当に飛び降りちゃったの?」
そんな呟きは、夜の闇に飲み込まれるだけだ。
私はそわそわ落ち着き無い足取りでその崖に、さっきまで人影のあった断崖に向かう。
「あれ?」
崖からぎりぎりまで身を乗り出して、眼下の谷底を舐めるように見回してみても、死体らしき物はまったく見当たらない。
見えるのは真っ暗な森の葉の屋根と、遠くにちらちらと光る町の明り。
その時、何かの気配を感じて――視線を上げた瞬間、私の頭の中は空っぽになった。
「……はい?」
人影が、宙に在った。
ボロボロに擦り切れたマントを羽織った、全身黒づくめの人影が、宙に浮いていた。
その姿は、高校時代に女子の間で流行った都市伝説そのもので――
「テオーリア?」
私の声に反応して、そのマントの男は振り返る。
その顔は、襤褸切れのような布で上半分が覆い隠されていた。
「やはり私には、選ぶ事はできないのか」
マントの男は薄い唇を開き、澄んだ声でそう言った。
「……え、嘘」
私は思わず後ずさる。
いや、正確には後ずさろうとした、かな。
私は後ずさろうとしたけど、後ずさることは出来なかった。
なぜならそこに地面が無かったから。
黒マントの男にすっかり気を取られていた私は――
「ひ、ひゃ!」
体が落ちて行く、そう感じた時にはもう地面が目の前に迫ってて――
死ぬ、そう思った瞬間、
ひゅっ、
と一陣の突風が吹いた。
そして、視界がぐしゃぁと回転して、体に訳の分からない力が掛かる。
――木の葉みたいに、私の体が風に飛ばされてる。
そう気づいた瞬間、ガキッと鈍い音ともに強烈な痛みが背中を襲った。
「あ、あぅぇ」
何がどうなってるかまったく判んない。
体の下に地面を感じるが、やけにゴツゴツしてるし、平らじゃない。
死んだの?
私は死んだの?
「いいや、まだ死んでないよ」
硬く透き通った、水晶みたいな声が私の疑問に答える。
見ると、黒マントの男が目の前に立っている。
ぼろ布の隙間から覗く紺色の瞳が、心配そうに私を見つめていた。
そして私の体は、あの憎きクロスバイクの上に横たわっていた。
これが、私と死神――テオーリアとの最初の出会いだ。