となりの樹乃香(キノカ)
◇
「ただいま」
カランコロン――と、ドアベルが心地の良い音を奏でた。
オトハが押し開けた重厚な木製の扉には、店名を刻んだ小さな真鍮プレートが貼り付けてある。
『自然派フレンチレストラン・しゃるる』
村でただ一軒の本格フレンチレストラン。ここがオトハの家だ。
「おぅ! おかえり」
「オトきゅんおかえりっ!」
厨房の奥から響く野太いダミ声は父で、可愛らしいアニメ声は母の愛莉だ。
古民家を改装した店内は温かみのある色合いの照明で照らされていた。剥き出しの黒い梁と、ランプシェードの赤と黄色い光が落ち着きのある空間をつくりだし、隠れ家的な雰囲気を醸し出している。
壁に掛けられた振り子時計は、午後5時を指し示している。
店内に一歩足を踏み入れると、途端にコーヒーの良い香りと焦がしバターの芳醇な匂いが鼻をくすぐった。更にはディナーコース用にと煮込まれたデミグラスソースの濃厚な香りが入り混じり、オトハのお腹が思わずぐぅ、と鳴る。
「おなかすいた……」
「ランチタイムの残り物ならあるけど、食べる?」
「うん」
ぱたぱたと駆け寄ってきてオトハを出迎えたのは、メイド服姿の母だ。黒いロングのワンピースに白いヒラヒラレースのエプロン、ポニーテールにくくった茶髪には、同じく白のヘッドドレスがあしらわれている。
見た目は若く、自称永遠の20代……というのも、頷けなくも無い。
息子としては恥ずかしいから止めてほしいと切に願うばかりだが、「給仕服にやましい所なんて、ないのよー?」と窘められる始末なので、いい加減諦めた。
オトハは小さく苦笑を浮かべながら、まだお客さんの居ない店内を見回すと、一番隅の目立たない席に腰掛けた。
店はこれからすこしだけ忙しい時間を迎えるので、今のうちに「まかない飯」で早めの夕飯を済ますのが日課だった。
厨房の奥では、オトハの父である軍曹のような風体の男が、シェフの白衣を着て忙しそうに仕込みをしていた。父は東京の有名店でシェフ長をしていたが、生まれ故郷であるこの岩乃泉村へ、3年前に「自分の店を開きたい」と引っ越してきたのだ。
いわゆるUターン組みという事になるのだが、自分の店を持ち、地元で取れる食材を生かした料理を出す……のが父の夢だったのだ、けれど、オトハにとっては中学のときの転校と言うのは、嬉しい出来事では無かった。
数少ない友達と別れてやってきたこの岩乃泉村は、山深い小さな村で、中学と高校がひとつあるだけの過疎地域だ。
こんな辺鄙な山村でフレンチのレストランを開いても潰れるだろうと、地元の人間に噂されていた事ぐらい、オトハだって知っていた。
けれど以外にも口コミとSNSの力は侮りがたく、「あの名店シェフが開いた隠れ家レストラン」「地元食材を使った自然派本格フレンチ」と雑誌などにも取り上げられ、結果、予約が絶えない密かな人気店となっていた。
そんな事を思い返しつつ、小脇に抱えていたスケッチブックをテーブルに置いて一息つく。
窓の外には山並みと田んぼ、そして転々と見える農家の赤や青の屋根が見えた。そこには時々走っていく軽トラック。犬を散歩する老人、自転車をこぐ白ヘルメットの中学生集団がみえるだけだ。
日本の何処にでもありそうな、のんびりとした里山の風景が続いている。
空は青く、西のほうから僅かに黄色いグラデーションを帯び始めていた。
5月の春の終わりの季節。この時間の外はまだ明るい。とはいえ、山間の里を照らす太陽は稜線のすぐ上まで降りてきていた。光は緩やかに山の稜線の木々の影を長く、引き伸ばしつつある。
――僕がみんなの絵を描くよ。そして……皆に伝えるんだ。
そう言った熱い気持ちの結晶は、スケッチブックの中に確かに残されていた。
『菌界』と呼ばれる異世界に跳躍し、そこで出会った不思議な存在――キノコの娘たち――をオトハは心をこめた可愛らしい絵として描き綴っていた。
最初の友達、ナメコの粘液娘、滑木舐子。
そして、先刻出会ったばかりの「アミガサタケ」の三姉妹、モリーユ・エスクレンタモリーユ・コニカ、シャグマ・エスクレンタもしっかりと描かれているのだ。
おしとやかで物静かなモリーユ。しっかり者でお姉さんの「とがり頭」のコニカ。そしてワイルド毒キノコのシャグマ。
三姉妹といっても血縁関係にあるのはモリーユとコニカで、シャグマは「従姉妹」といったところらしい。
生まれてくる季節が5月ということもあり、三人は姉妹としてひっそりと仲良く暮らしていたのだとか。三人と出会い、いろいろな話を聞き、「いつかナメコさんやシイタケさんみたいに有名になって、人間達にも愛されたい!」という願いがあることも、オトハは知るに至った。
――みんなの事を人間に教えるって言っちゃったけど……、どうしよう。
オトハは少し思い悩む。
絵を見せようにも美術部は勢い辞めてしまった。
中学のときに転入してきたことで、オトハは少しばかり周りから浮いた存在として扱われてきた。それにオトハ自身も、絵の事で自分は他人とは違うのだと、勝手に壁を作っていた節もあるのだが。
――WebにUPしてみようかなぁ。
ぼんやりとスケッチブックを眺めながら、可愛らしくも個性的な「キノコの娘」を思い出していると、母がトレイに揚げ物と湯気の立つスープ皿と、山盛りのご飯を持ってきた。
「はいはい! 残り物のコロッケとシチューだけど、食べてね」
「フレンチの残りじゃないの……?」
「残念、これは私とお父さんの昼ごはん、『まかない』の残りでしたー」
「だと思った。いただきます」
「はいどーぞ」
オトハは表情をさほど変えず食べ始めた。別に本格フレンチの残りが出てくるなんて期待してはいないけれど。
と――。
カランコロン、とドアベルが軽やかな音を立てた。
お客様が来る時間にしてはまだ少し早いなと、熱々のシチューをかき混ぜながら思っていると、母の弾んだ声が聞こえてきた。
「いらっしゃ……! あら、お隣の樹乃香ちゃん!」
「……こんにちは」
出迎えた母が明るい声で呼んだ名に、オトハは聞き覚えがあった。確か隣の家に住む同級生の女子だ。
暗く聞き取れないほどの小さな声は、樹乃香のものだ。
お隣……といっても、田舎なので家と家の距離は100メートルは離れている。
オトハの家であるレストランと、彼女の家の間には畑やら田んぼやらがあり、とても「隣」という雰囲気ではない。
どちらかというと窓から見える風景の一部分のような距離にある。
現に、オトハが座っていた席の窓から見える青い屋根の家が、その家なのだが、樹と畑の遥か向こうに見えている。
オトハは残り物のコロッケをぱくつきながら、ひょいっと顔を出して店の入り口を眺めてみた。
メイド服姿の母の向こうに、背丈の小さい、女子制服に身を包んだ少女の姿があった。制服はオトハと同じ高校のものだ。
飾り気の無い黒髪は自然な感じで肩まで伸ばされていて、前髪だけを赤いピンで留めている。
目は大きくアーモンド形をしていて、眉は意外と太い。口元は小さく結ばれていて、全体的にモノトーンで無表情、つまりは暗い印象だ。
オトハは彼女に一度だけ勇気を出して挨拶をしたことがあるが、ほとんど無視されるような形で小さく会釈をされただけだった。つまるところ隣だからといって特段親しいというわけでもない。
「オトきゅん、おともだちよ」
母の愛莉が、きゅぴんっ! と満面の笑みで振り返る。何を勘違いしたのか、ガールフレンドでも来たのかと思ったらしい。
――そのオトきゅんってのやめろ!
とオトハは叫びたいところだったが、口に入れていたシチューのせいで上手く叫べず、
「あっ、そお、おろ!」
と、叫んでしまう。
「いえ、あの……キノコ……とれたので。もってきました……」
またまた暗く聞き取れないほどの声。
樹乃香は手に、地元で山菜取りやキノコ取りのときに使われる竹かごを抱えていた。学校帰りに取ったのだろうか? あるいは両親に持たされたのだろうか?
「まぁ!? キノコ? この季節に? お父さん! お隣さんがキノコを持ってきてくださったわ!」
――キノコ?
オトハは思わず立ち上がった。
厨房の奥からは、どうみても建設現場で汗を流しているようにしかみえないガタイのいい父親がのっそりと現れた。白いシェフ姿だが、隆々とした筋肉は明からコックのそれではない。
村でテロがあれば真っ先に立ち向かうタイプだが、そもそもこんな山奥の村では、テロなど起こるはずもないわけで……。
「おやおや、すまないね。キノコ? この季節に何か採れたのかい?」
父はニコニコとした愛想のいい笑顔で、カゴを覗き込んだ。
自然食レストランのオーナーとしては、地元食材のことになると目の色が変わる。
「はい……。うちの庭に沢山生えて……以前、ヨーロッパじゃ食べてるって聞いて……」
「ほぉ! これは!」
オトハもなんとなく近寄って、驚いている父の隣から樹乃香のカゴを覗き込んだ。
一瞬、樹乃香は何かを言いたげに表情を動かしたが、オトハは目を合わせなかった。そのまま目線をカゴに向ける。
と。
そこにはボコボコと網目状に穴の開いた傘を持つキノコ、アミガサタケが沢山入っていた。
「モリーユ!」
オトハは思わず声を上げる。
その声に驚いたように目を瞬かせたのは、父と母だった。
「オトハ、おまえ、詳しいな。知ってたっけ?」
「オトきゅん、そういう名前なの? その……このキノコ」
「え!? あ、うん……モリーユ。その……アミガサタケとちょっと知り合いで……」
「うん?」
「え?」
父と母が、面白いことを聞いたようにオトハの顔を覗き込んだ。オトハは慌ててぶんぶんと首を振り、「キ、キノコの本で見たんだよ!」とお茶を濁す。
誤魔化すようにもう一度、少女が手に持っていた竹カゴを覗き込むと、少し傘の尖ったアミガサタケも入っていた。
「あ……コニカ、トガリアミガサタケも」
「ほぅう!? オトハ、いつの間に詳しくなったんだ? そうだな、西洋じゃモリーユ属は有名な食菌だ。日本じゃ……あまり食わんが、ウチは大歓迎だぞぅ!」
なぜか嬉しそうに。バシバシとオトハの肩を叩く。
「あの……じゃぁ、どうぞ」
樹乃香は、そんな様子の家族を見て、曖昧な困ったような、喜んでいるような顔で口元を動かすと、カゴをオトハに差し出した。
「あ、ありがとう、えと……」
名前を呼ぼうとするが、咄嗟には呼べない。
「オトハ君、詳しいんだね」
「あ、いや、ま……うん」
あれ? 樹乃香って、結構可愛いんじゃないの? とオトハは一瞬思うが、そんな事はおくびにも出さず、冴えない無表情を貫いてカゴを受け取った。
ズシリ、と中にはかなりの量のアミガサタケが詰まっていた。
「湯でこぼして水につけて、明日にはお客さんに出せるな。うん、ツボ焼きとかクリームシチューの具にすると美味いんだぞ。だけど……こんなにもらって、タダってわけにゃいくまいよ。どうだ樹乃香ちゃん、メシ、食ってかないか?」
オトハの父がにっと豪快な笑みを浮かべる。
「そうそう! お昼の残り……今ちょうど、オトきゅんも食べてるところだから」
母の愛莉もうんうん頷いて、夕飯へ誘う。
「そんな……悪いです」
遠慮がちに、曖昧な笑みを浮かべる樹乃香。指先で耳にかかった黒髪をかきあげると、耳が赤かった。
「いいのいいの。ご両親は仕事で遅いんだろう? 遠慮なんかしなくていいいんだ。連絡はしておくからよ!」
笑い厨房へと下がってゆく父の後ろでは、母が樹乃香の肩を押して、オトハがご飯を食べていた席に座らせた。オトハも自分の席にしずしずと戻り腰を下ろす。夕飯はもちろん食べ賭けだ。
「でも……わたし、お金ありません」
「そんな心配いらないの、キノコのお礼だからいーの! 余り物といってもね……今日のランチは、子羊のローストと新鮮な季節の温野菜、それに……春のサクラ色ゼリーなの!」
「わ……すごい、です」
樹乃香がようやく素直な笑みを浮かべた。緊張がようやく解けたのか、小花のように小さく笑う。
「ちょっとまってよ!? 僕のはコロッケじゃん!?」
オトハは思わず立ち上がって叫んでいた。
「あら? あたりまえでしょ、オトきゅんは店の子。樹乃香ちゃんはお客さま、それに……オトきゅんの大切なお友達でしょ?」
パチーンとオトハに向けて片目をつぶる。
「なっ、ちょっ……違」
「…………!」
違う、と言いかけて、強く否定するのもなんだかな、とため息をついて、ゆっくりと席に腰を下ろす。
対面の席では、樹乃香が照れたように小さく口を結んでいた。けれどその顔は笑いを押し殺しているようにも見えた。
さぁさぁ、食べてもらうわよ! と母の愛莉はムフフンと意味ありげな笑いを浮かべて、そして厨房のほうへと小走りで去っていった。
――な、何だこの状況……。
オトハは突然の女子との会席に戸惑い、心臓が跳ねるのを感じていた。
<つづく>