絵師、ヌルヌル粘液ナメコちゃんに出会う 【後編】
「君のことスケッチしても、いいかな?」
オトハは手に持っていたスケッチブックを広げると、そう言った。
手に持った2Bの三菱ハイユニ鉛筆をくるっと回してから片目をつぶり、早速構図を縦に横にと決めている。
絵描き――。
それがオトハが持つ、唯一のアビリティだ。
ナメコがオトハと名乗る「絵描きの少年」と出会ってわずか五分。
スマホアプリで来れるお気楽な異世界のおおよその仕組みと、粘液美少女との出会いという普通なら理解しがたい状況を、いとも簡単に受け入れてしまあたり、適応能力もなかなかのものだ。
「私の絵を、キミが描くってこと?」
ナメコは茶色い瞳を瞬かせながら訊ねた。今日の今まで、そんな事を言う人間に出会ったのは初めてだったからだ。
「うん、そう! キノコがさ、君みたいに『人間』の姿で生きていて、こんな風に普通に話せるなんて超凄いよ! だからさ、描かせてよ、君の事!」
好奇心あふれる瞳を輝かせ、オトハが言う。
「オトハ……」
その情熱と真っ直ぐな瞳を見て、ナメコは菌類だというのに異世界から来た異種族にきゅんっと胸をときめかせた。
胸の鼓動がトクトクと早まって、身体の芯が熱くなる。自然と手の先から頭の先から、新鮮な粘液がトロリと垂れた。
ちなみに、キノコの娘が「絵を描く」という人間の文化を理解している理由は簡単だ。異世界――『菌界』――は、人間の世界と重なり合っている事で、知識の継承が行われている。だからスマホもアプリも制服も、特段驚くことではない。
「どうかな?」
ワクワク顔のオトハは近くの切り株に腰掛けて、いつでも描き始められる体勢のようだ。
「わかった。いいよ……可愛く……描いてね」
ナメコは、倒れて朽ちかけた木の幹に腰掛けた。
木はだいぶ前に枯れて倒れたらしく苔むしている。他のキノコの娘――ロクショウグサレキン――が隠れているようだが、特殊な「アプリ」を通してこの世界に来たオトハの目からは、青いシミのようなキノコにしか見えないようだ。
ナメコはタラタラと先程よりも多めに粘液を垂らしながら腰掛けて、ポーズをとった。上気した顔ではぁ、はぁ、と息も荒く……。
「あのさ……脚、M字に開脚しなくていいから」
オトハがスケッチブックの向こうから、顔の上半分だけを出してこちらを冷めた目で見ていた。
その視線の先には横倒しの幹の上で、大胆に股を開いているナメコの姿がある。胸から露出したお腹、そしてホットパンツから覗く足の付け根にかけて茶色い粘液がタラタラと流れている。
「え? いいの?」
「いや、そういう絵じゃないから」
オトハは溜息をついて立ち上がると近づいてきた。そして、ポーズはこういう感じでお願いしますと指示を出した。
所詮人間とナメコ。常識や感覚が違うのは致し方ないところだろう。
カリカリ、シャッシャとオトハが鉛筆で紙の上をなぞりはじめた。真剣な様子でナメコを見ては描き、また見ては描きを繰り返している。
静かで緊張感のある時間が流れて行く。
正直、ナメコは開始一分ほどで、じっとしていることに飽きてきた。
「……私たちは胞子で増えますけど、人間は交配して増えるらしいですねぇ?」
「…………」
「なんでも、人間が二体必要だとか? はっ! 不便な生き物ですね? ウチらは太陽の光と水と空気があれば、ほら、うなじのうしろから胞子出ますし」
あ、すこし出た! といってナメコは白い粉を飛ばして見せるがフケのようでもあり、あまり見たいものでもない気がする。
「ちょっと! すこし黙っててくれる!?」
オトハがキレた。
「なによ!」
「なんだよ!」
「やる気!?」
ナメコが立ち上がった。売り言葉に買い言葉。いい加減疲れてイライラしていたのだろうが後には引けない。
しゅっ! しゅっ! とナメコがシャドーボクシングの構えでオトハに近づいてゆく。パンチを繰り出すたびに茶色の粘液が飛び散って、オトハの顔にピチャリとかかる。
温厚そうに見えるオトハだが流石に、ビキ、と青筋が浮き出た。
立ち上がり迎え撃つ。
「いい加減にしてよ、絵が描けないじゃないかっ!」
「他の遊びをしましょうよー!」
「わ、やめ!」
ナメコの突進を避けようとし拍子に、オトハの手がナメコの肩に当たり、そのままちゅるん! と滑ってナメコの胸の谷間に吸い込まれた。
「えっ!? あっ!?」
「きゃぁあああ!?」
双丘に挟まったオトハの手首に、二人は同時に悲鳴をあげた。
(――そして、冒頭のシーンへと続く)
◆
異世界の森でキノコの妖精をスケッチしようとする少年絵師は、しばし真剣な顔つきでスケッチブックに向かいあうと雑念を祓うように目をつぶった。
――解き放て。右腕に宿る、絵師の魂を。
精神集中を終えたオトハはカッ! と目を見開く。
心の奥底からの声に呼応するように、脳内の『描画世界』への扉を開ける。目の前に広がるのは真っ白な世界。今ならばペン先は、望むまま全てを描き出せるはずだ。
すっ、とオトハはペン先を流すように振るう。
小鳥のさえずりと梢の揺れる僅かな音の、静寂の中でオトハは『キノコの娘』のイメージ、つまり目の前に座るナメコの輪郭をトレースしはじめる。
卵型の輪郭を薄く描いた上に線を重ね輪郭線を描いていく。なだらかなラインで顔のラインを、続けて強弱をつけながら頬と顎のラインを描きだす。
次に全体のパーツの配置。
バランスを取る為に鼻、口、眉の位置を決定する。最初に描いた卵型の下書きに描かれた薄い十字線にそって配置してゆく。
瞳の位置は真ん中。大きめの澄んだ瞳。ナメコが愛らしい表情でこちらに視線向ける様子を描く。瞳に描き加える光彩は最後の仕上げで良い。
顔はバランスが命だ。
僅かな違い、角度、線の強弱。そのすべてが人物の味わいと表情を決定づける。
ここが崩れると絵は輝かない。
全神経を集中し、オトハは描く。踊るようペンさばきで、描き続ける。
「すごい……! これが人間の……絵師!」
ナメコが心底驚き目をまるくする。
と。しばらくの後、絵はとりあえず完成したようだ。
「――できた!」
「見せて見せて!」
ナメコがオトハに駆け寄って覗きこんだスケッチブックの中には、可愛らしい「キノコの娘、ナメコ」が微笑んでいた。
アニメ絵だが、ナメコには衝撃的だ。
「オトハ……すごい! これが私?」
ナメコは思わずその出来に目を奪われる。
絵のジャンルは、人間界で「萌え絵」と呼ばれるものだった。
ナメコは紙の上で生き生きと輝いていた。その姿は可憐で愛らしく、不思議な魅力を讃えている。
丸くキラキラの瞳、優しく微笑む唇に形のよい顎のライン。そこから繋がる首筋、鎖骨、胸の膨らみ、そして……一気に下腹部に至るなだらかな美曲線。神の意思すら感じさせる造形美をこれでもかと描いている。
おまけにぬるぬる粘液も描写され、粘度の高い液体に包まれた指先や顔、頭に至るまでヌメヌメと光る描画演出もバッチリなのだ。
萌え絵とはいえ、それは素晴らしい出来で、朽木に腰掛けるナメコの愛らしい姿が見事に描かれていると言っていい。
「できたぁあ――っ!」
「凄い! すごいねオトハは!」
思わずハイタッチする二人。いつしか二人の心は通い合っていたようだ。
「ね! この世界にはキミみたいなのが、まだまだ居るの?」
オトハが絵の出来を眺めながら、ナメコに訊ねた。
「うん。そりゃ私達の仲間はあちこちにいるからね」
「会ってみたい! そして……今みたいに絵を描きたいんだ!」
オトハの言葉に、ナメコは白い歯を見せて微笑み返す。
「会いたいならオトハのアプリでキノコの写真を取って『跳んで』来ればいいよ!」
「でも……、そのときはナメコに案内、頼めるの?」
すこし遠慮がちにオトハが訊ねた。
「もちろん! 一度こうして『遭遇』したキノコの娘は、キミのスマホとやらの『アプリ』に出てくるらしいし、そこで選んでくれればまた会える……って神様が誰かと話してたよ?」
思わずオトハは笑ってしまうけれど、どうやらそろそろお別れの時が来たようだ。
天空に光が現れて、オトハに向かって降り注いだ。
後ろでに腕を組んで、ナメコは軸足でターンした。くるり、と森のほうに向かって歩き出す。
「今日は……ありがとうね! ナメコ!」
「またね! オトハ!」
キラキラとした光が天から降り注ぎ、オトハの体を包み込んだ。
◇
黄金色の光の粒子になって、少年の姿は静かに消えていった。ナメコは茶色の瞳に映るきらめきを、最後まで見送っていたようだ。
「んー。今日も一日、いい日だったなぁ……っと」
うんっ! と伸びをするナメコの声が風に運ばれてゆく。
それは、いつもと変わらない、菌界の風景だ。
森の静寂の隙間からは小鳥達のさえずりと、何処からともなくキノコの娘たちの楽しげな笑い声が聞えていた。
<プロローグ 了>