先輩と菌糸ビン ~愛と憎しみのヒラタケ~
◇
――放課後。
オトハと樹乃香は、稲穂先輩が指定した教室へと足を運んでいた。
廊下から見える風景は、気だるく暖かな午後の色を帯びていた。皐月の風が教室の窓辺のカーテンを揺らしている。
先輩に呼び出されると言うのは普通、恐ろしい予感しかしないものだが、「部室にキノコが生えたから調べてほしい」という実にワケの分からない願いによるものだ。
「僕はキノコ探偵じゃないんだけどね」
「まぁいいじゃない、新しいキノコの娘に会えるかもよ」
キノコに詳しいとか、どこから情報が漏れたのか気になるところだが、オトハは教室や学食でスケッチブックを広げては、堂々と絵の手直しをしているので、特段不思議ではないだろう。
今もオトハは小脇にスケッチブックを抱えて歩いていたりいる。可愛らしいキノコの娘コレクションは着実に増えつつあるのだ。
堂々と教室で萌え絵――キノコ娘――を描いていても騒ぎにならないのは、オトハの真剣で揺ぎ無い自信に満ちた姿勢によるところが大きい。
だが、実はこの岩乃泉高校そのものに理由があった。県立高校ではあるが、普通科のほかに特別美術音楽進学コースの選択があり、絵や音楽の腕に覚えがある生徒が多い事も理由の一つだろう。
そして、二人は指定された場所にやってきた。
--『物理準備室』
プレートの付けられた教室はドアが閉まっていたが、カラカラと開けて覗き込んでみる。
中は狭く、独特のケミカル臭で満ちていた。黒い光沢の実験用机が1だけ置いてあり、窓は正面にひとつ。
両脇の壁は金属の棚がビッシリと据え付けられており、古い埃まみれの剥製や、ダンボール、それに得体の知れない白いプラスッチクビンが沢山置いてあった。
そして、一人の女子生徒がそこに居た。
居た、のだが……。
――目を合わちゃいけない人かも……。
放課後、静まり返った理科室の机の上で一人、壁に向かってニヤニヤしている女子生徒を見たら普通そう思うだろう。
「オトハ、ほら!」
「えっ? 僕が?」
同級生のオトハと樹乃香は、物理準備室の入り口で入るべきか迷い顔を見合わせた。
自分たちを「謎のキノコ」で呼び出した当の稲穂先輩は今、棚の上に置いてあるビンと対話中なのだ。
顔は赤みを帯びた髪でよく見えない。
オトハを盾にして、声をかけなさいよと急かす樹乃香。
「……むふ、むふふ」
楽しそうな声が先輩の背中から漏れた。
謎の宗教の儀式か、はたまた宇宙と交信しているのかは不明だが、何か見てはいけないことが行われているのは間違いない。
オトハは入り口でこわばった表情を浮かべたまま、どうしたものかと、後ろにいる樹乃香方を振り返った。
――逃げるなら今しかないよ!?
と目で訴える。
しかし、樹乃香はオトハの背後に居るのをいいことに、声を投げかけた。
「稲穂せんぱい!」
首だけがギギギとこちらを向いた。
「むぅ………?」
「ひっ!?」
稲穂先輩は、ゆらりと振り返った。
そして長い緋色髪を振り払うと、グラマラスな身体を軽やかに揺らして、跳ねるように二人に歩み寄った。
プリーツスカートから見えた健康的な太股に、オトハは思わず目を奪われる。
「おぉ! 来てくれたのかキノコ大使……オトハ君!」
先輩は嬉しそうに微笑みを浮かべた。
「キノコ大使って……」
引き込まれそうに深い茜色の瞳、艶やかで手入れの行き届いた髪――。
おまけに眼前には大きく膨らんだ二つのふくらみがあった。稲穂先輩は大きい。背丈も胸も豊穣な大地で実る稲穂のように揺れて……歴然とした身長差がそこにはあった。
姉と弟と言ったスケールの差だ。
先輩の背は飛びぬけて大きいわけではない。どちらかというとオトハが小柄なのだ。
「……かわいい」
「は……?」
気がつくと、稲穂先輩が熱のこもった視線をじーとオトハに向けていた。
異性に対する熱い視線、ではなく。
ペットショップで仔犬を見る目だった。
次の瞬間、何のためらいもなく腕が伸び、オトハの頭をワシワシと撫でた。
「キミは可愛いなぁ、よーしよし」
仔犬でも撫でるように頭を撫で回す。髪をくしゃくしゃにされるままオトハの頭が左右に揺れる。
「な、ななな!? や、やめ」
オトハは顔を赤くして手を振り払うが、恥ずかしさでちょっと涙目だ。
「はッ!? す……すまん! つい死んだポメラニアンを思い出して」
「犬扱い!? しかもセピア色の思い出の!?」
抗議の意を示す後輩に、稲穂先輩はちょっと名残惜しそうな視線を注ぐ。
稲穂先輩はなかなか妙なロジックで行動する人らしい。
「小さかったのでついな。ハハハ」
稲穂先輩が軽やかに笑う。ハハハぢゃねぇよ! と心の中で叫ぶ。
「背は小さいけど伸びてる最中なんです。先輩が大きすぎるだけです」
皮肉をこめてそう言うと、ぷいと視線を逸らす。先輩が大きすぎる云々の部分は蚊の鳴くような小声だが。
「それよりも、ここにキノコがあるって聞いてきたんですけど? 先輩」
「いてて!?」
二人のやり取りを見ていた樹乃香の細い指が、ギリギリギリとオトハの肩に食い込んだ。
妙なライバル心を燃やしているようだが、オトハにとってはとんだ迷惑だ。
「おぉ! そうだった。こっちに来て、まずは見てほしいものがあるんだ」
稲穂先輩は二人を物理準備室に招ききれた。
オトハと樹乃香はキョロキョロと辺りを警戒する。
「まずは、この『菌糸ビン』を見てくれ」
棚からプラスチック製の白っぽい瓶を一つ取り出して実験机の上にそっと置いた。中は白と茶色が入り混じった土みたいなもので埋め尽くされていてよく見えない。
なんとそのビンからは、銀色の傘を持つキノコが生えていた。
茎は白く、滑らかな大き目のヒダが見える。
そんなキノコが何本もの株になり、重なり合うようにこんもりと育っているのだ。
「菌糸……ビン? キノコを育てているんですか……養殖?」
オトハは目を瞬かせた。
見ると物理準備室の金属棚には、同じような瓶がいくつも並んでいた。中身は同じような白と茶色の混合物だ。
キノコが生えているものが何本かあるが、生えていない物も多い。
「それ、『ヒラタケ』ですよね? オガクズとキノコの菌を入れて熟成させて、エノキやエリンギも育てたりするやつ」
樹乃香が身を乗り出した。
貧しい樹乃香の家の経済事情から考えるに、もしかすると自家栽培でもしていてもおかしくない。
「詳しいな! えと……キノコさん」
「いつか言われると思ってました。キノカです! ……ウチでも育てようとチャレンジしてますから」
むっと眉を吊り上げる樹乃香だが、図星だったようだ。
「そうか。だが……育成という意味では同じ物なんだが、用途が違う。よく見てくれ、羽化が終わった成虫だ」
「成虫?」
「羽化?」
ビンを覗き込んだオトハが目を見開く。
「ク、クワガタ!? でかっ! これ……オオクワガタですか!?」
瓶の中をよく見ると空間が有り、中に黒い甲虫が見えた。
「そうだ。ここで育てている。かわいい私の宝物だ」
大きさ五センチを越える黒々とした身体は、特徴的な二本の角が見て取れる。その形状と大きさからして『オオクワガタ』だ。
確かに大きなクワガタを育てるのに、菌糸ビンで育てている、というマニアの話を以前テレビで見たことがあった。
何故にここでクワガタを稲穂先輩が育てているかは、謎だけれど。
「あ、こっちの瓶にも居る!」
棚においてある瓶を指さして樹乃香が言った。覗き込むと、黒々としたクワガタが見えた。大アゴが大きくてこれも立派なオスだ。
「うわ! すごい! 大きい!」
オトハは興奮して瓶を横から、斜めから眺めている。
樹乃香はオトハのそんな興奮ぶりのほう珍しいらしい。
「男の子は大抵同じ反応をするんだな」
先輩がクスリと肩を揺らして、髪を指先で耳にかきあげた。
「あ、また子供扱いしてません?」
「これを見ると、大人でもそうなるから大丈夫だ」
「悔しいけど、これ見たら盛り上がらないわけが無いですよ」
稲穂先輩は満足げな様子で、そんなオトハの反応を眺めている。
茜色の瞳の奥で、妖しげな光が揺れた。
「だろう? で、どう思う?」
「どうって……キノコもすごいけど、クワガタも大きいです」
上に生えているヒラタケも新しい「キノコの娘」に会えるチャンスなのだが、クワガタだってやっぱり気になる。
「もう一度言ってくれないか?」
「え? キノコ……凄い?」
「違う! 後半だ」
「大きいです…・・・?」
オトハが首を傾げつつ、興奮気味の稲穂先輩の顔を伺うように見上げる。
「そう! 黒くて……大きいだろう?」
「え、えぇ、まぁ黒いです」
「それにこの子達は、とっても固いんだ。さぁ言ってくれ、オトハくん、君の口で!」
ハァーハァーと稲穂先輩の息が荒い。
樹乃香が半眼で睨んでいるが……嫌な予感しかしない。
先輩に見つめられ、ごくん。とつばを飲み込んで
「……黒くて硬くて、……大き」
「オトハ、ストォオオップ!」
「痛い!?」
オトハに、「地獄突き」を叩き込む樹乃香。
先輩の術中、ギリギリアウトな事を言わされる寸前で阻止したことは拍手だ。
「先輩! キノコを見てほしいんじゃなかったんですか!?」
ばっ、と先輩と同級生男子の間に割ってはいる。
「す、すまん! 私としたことが、つい。……実は、頼みがあるんだ」
「ですから頼みって?」
完全に警戒モードの樹乃香はキッと先輩を睨む。
黒髪が行く筋か頬にかかっているのさえ気にせず、肩をいからせる。
「この、憎っくきキノコを殲滅する方法を教えてくれ」
「キノコを……せん、めつ?」
「倒す、無くしたいって……こと?」
<つづく>
【さくしゃより】
次回、ヒラタケのキノコの娘登場!
ゲストキャラ(ナメコ)も出るよ!w