絵師、ヌルヌル粘液ナメコちゃんに出会う 【前編】
◆
少年の手が、少女の胸の谷間に挟まっていた。
ビキニ水着で包まれた胸は柔らかくて、熱くて、トクトクと脈打つ鼓動が伝わってくる。
猛烈に赤面し、しばし――絶句。
何故、少女の胸に手を突っ込むという破廉恥な状況に至ったかは、後回し。
今は兎に角、手を引き抜くのが先だ。
「う、うわぁあああ!? ごっ、ごめん!」
「あんっ!?」
慌てて腕を引っ込めると、茶色い粘液でヌメった手首は容易に引きぬけた。ちゅぽんっ! とそんな音さえ響かせて。
「事故だよ事故! 君が『来い!』って挑発するから……」
「なるほど、故意に狙っていた……と。まったく、人間の男の子ってエッチですねー」
半眼のジト目で睨まれる。
「ちがう誤解だよっ!?」
「君達人間は、幼女にしか興味が無いのかとおもってましたけど?」
「よ……幼女?」
少年はポカンと間抜け顔。
「ナメコだって、こんなに豊満に育つのですけどね!」
上半身はビキニ、下はホットパンツという格好の少女は、ぎゅっと握った拳を震わせて、形のよい眉の端をひくひくと動かしている。
ぱっちりとした鳶色の瞳に愛嬌のある顔立ち。
髪は褐色で透明な「粘液」に覆われている。サラサラというよりはヌルヌルしていた。髪というよりは……キノコの傘だ。
体つきは全体的に肉感が豊かでプニプニと柔らかい。なぜかと言えばたった今、胸の谷間に腕を突っ込んだ感触がそうだったからだ。
「幼女て何!? な、ナメコにも大人とか子供ってあるの!? キノコなのに!?」
「あるわボケ!」
「ぶらば!?」
粘液まみれの女の子にグーパンチで殴られた少年の名は、オトハ。
少女の華麗なアッパーパンチをトレースするように茶色い粘液が飛び散って、オトハは弧を描いて空中を飛んだ。
ここは――菌界
誰かがそう呼ぶ不思議な異世界に迷い込んで、およそ10分後のオトハの状況がこれである。
殴りつけた少女の名は、滑木滑子。御存知「ナメコ」と呼ばれるキノコの妖精、あるいは化身といってもよい。
ナメコは菌界の住人、「キノコの娘」と呼ばれる愛らしい生き物の一種族だ。
ちなみに、人間たちが「ナメコだナメコ! レロレロー!」と、味噌汁の具として舌先で弄び、ちゅるんと飲み込んでいるのは、傘も開ききらない幼菌、いわばナメコの「幼女」なのだ。
……人類はとんでもない原罪を背負ってしまった事に気がつく者は少ないだろうが、実はそういうことである。
ナメコと呼ばれるキノコの娘、実はとんでもなく大きく成長する。
天然の状態で育った「大人の」ナメコは、茶色の粘液に包まれたまま、もう一人のメジャーアイドル「シイタケちゃん」のように大きくぷにぷにと、驚くほどに豊満に育つのだ。
それは風味も舌触りも香りも全てが別物で、まさに素晴らしい大人の味わいだが、その妙味を知る人間は以外にも少ないようだ。
……さて。
時間をすこし巻き戻してみよう。
◆◆◆
――はじめに胞子有り!
真っ白な粉のような霧が立ち込めた世界で、神様の威厳に満ちた声が響いた。
瞬く間に世界は白い糸で埋め尽くされて、もつれ、塊になり、やがて卵のような殻皮を形成する。
それは『菌糸』と呼ばれるキノコの体を作り根幹を成す要素だ。
世界を隔てた空と大地の狭間で、綺麗な空気と水と土の栄養を取り込みながらキノコは密やかに育ってゆく。伸びて広がる菌糸の一本一本が、やがて「子実体」と人間達が呼ぶ奇跡の生命を形づくる。
ある者は落ち葉の隙間から、ある者は朽ちた木の根元から、またある者は馬糞の中から……森の妖精「キノコの娘」たちは、時が満ちると共に、一斉に命の花をはじけさた。
――ぽん、ぽぽんっ!
「うーんっ! いい朝……!」
元気よく傘を開くと、まだ幼さを残す茶色の傘の表面が、まるで水玉のようにキラキラと朝日を浴びて輝いた。
うんっ! ……と、気持ち良さそうに朽木の上で伸びをしたのはスギタケ属のナメコさんだ。
味噌汁の具としてお馴染みだが、野生では山の沢沿いの朽ち木など、湿り気の多い場所で暮らしている。とはいえ性格までも湿っている訳ではなく、むしろ明るく快活といっていい。
なんといっても人間の国では、「ナメコ」と言えば押しも押されぬメジャーキノコ。長く慣れ親しまれている、いわば人間達の「幼馴染」のようなキノコである。
茶色の色素を持つ瞳、艶やかな髪、健康的で肉付きの良い身体、そしてむっちりとした豊満な胸……。
短いホットパンツに白いビキニ風の水着を身につけて、頬もほにゃっと柔らかそうだ。
「今日もいい日になりそうね」
茶色い粘液に覆われた手足を思いきり伸ばし、森の木漏れ日と爽やかな風を全身で楽しむ。
康的な茶色い肌の色を覆うシースルーのドレスかと思われた衣装は、実はヌルヌルの粘液の皮膜である。全身から粘液が出ると言う特異体質は時に便利であり、ときにやっかいなものだという。
ここは、『菌界』――
人間達の棲む『人間界』と少しだけ位相が異なる場所。
他にも数え切れないほどの沢山の世界が重なり合い、更に大きな『真世界』のひとつの要素となっている。
「さーて、今日こそ胞子を飛ばさなきゃ!」
ナメコの娘はそう一人ごちると、たゆたゆと胸を揺らしたり、ぐんぐんと背伸びをする。最近ちまたで話題の「胞子がよく出る体操」らしい。
キノコの娘たちはやがて、時が来れば『傘』を開き、その裏から新しい命の種である胞子を風に乗せ旅立たせる。
そんな輪廻を繰り返し、この世界でキノコの娘たちは静かに、平和にひっそりと暮らし――――
「うわああああああああああああああああああ!?」
朝霧を突き抜けて悲鳴が降ってきた。
絶叫を響かせて、やがてズシイイイイン! と激突音が響き渡った。
「ひゃぁ!?」
ナメコの娘が驚いてぺたんと尻餅をつく。どうやら「何か」が落ちてきたらしい。
地面に落下した衝撃で小鳥たちが驚き一斉に羽ばたき飛び去った。ウサギやリスなどの小動物たちがあたりを逃げ惑う。
「いてて、また何か……落ちてきたの!?」
汚れのついた尻の粘液を気にしながら立ち上がると、直ぐに住処の朽木を飛び出して、大きな音がした方向へと駆け出した。
森の木々の根を飛び越えるたびに、たゆんたゆんっ! とたわわに揺れて、実に見応えの有る光景だ。菌類のくせに実にけしからん美巨乳である。
やがて辿りついた落下地点と思われる場所の地面には、マンガのように見事な「人型の穴」が開いていた。
周囲には森の木々と折れた枝が散乱し、木の葉がハラハラと待っている。今しがた落下してきたことは間違いないだろう。
「おーい、無事ですかー?」
穴を覗き込んで声をかける。
「って、無事なわけあるかぁああ!」
がばっ! と地面の人型の穴から起き上がったのは、どこか幼さの残る少年だった。どうみても無事なのは世界の物理法則が異なるからか。
黒髪に黒い瞳に地味な目鼻立ち、少年はこれと言った特徴の無い顔つきをしていた。
体には人間達が「制服」と呼ぶ、ブレザータイプの衣服を着ていて、全体的に黒一色の印象だ。色彩らしいものといえば、首に巻かれた赤いタイだけだ。
落下の衝撃にも拘らず手にはスケッチブックを持っていた。肌身離さずという様子から察するに、どうやら少年のとても大切な物らしい。
「おー? 元気そうですねぇ。人間の少年」
ナメコの娘は、さほど驚きもせず、気軽な調子で声をかける。この世界には人間がたまに迷い込むこともあるのだが、この子は特に軽装も甚だしい。
「げっ!? ローション女!」
「失礼な! これはあたしの保護用の粘液皮膜! キノコの仕様なの!」
「仕様て……キノコ?」
目を白黒させて、ナメコの娘を頭の先から足先まで眺める少年は辺りを見回してから、うーん? と首を捻って考え込んでいる様子だった。
そして、ぽん! と手を打つ。
「僕……異世界に、来たの!? ……マジで?」
「みたいだね、少年。ここは初めて?」
「初めてです……って、怪しいサービスのお店なの!?」
異世界到着一番、目の前に現れたのはビキニにホットパンツ、そして頭からスライム状の液体を被ったような女の子なのだ。
露出している肌はヌルヌルで、肩口ほどの髪も粘液をタラタラと垂らしているわけで、怪しい店と思われても無理は無いだろう。
「異世界っぽくないけど、すごい! このアプリ、インチキじゃなかったんだ……!」
オトハがポケットから手のひらサイズの携帯端末を取り出して指先でなぞる。そこには『キノコの娘』というアプリがインストールされていた。
指先でとんとんと叩いて機械の無事を確認する。
「よかった、壊れてない」
「ははぁ、最近多いんだよね、その『アプリ』とかでここに来ちゃう子。君、名前は?」
ナメコは妙に人間世界に明い様子で、まるで「お姉さん」のような大人の余裕で微笑む。
とりあえずここは互い名乗るのが得策と考えた辺り、なんともコミュニケーション能力の高いナメコである。
「オトハ……。真壁音羽」
少年がぶっきらぼうに、照れたように言う。
「ふぅん? 長めの黒髪に黒い瞳……、びっくりするくらい地味ね」
「ほっといてよ!?」
「伸ばした前髪でデコを隠して俯くと目線が見えないとか、コミュ障? 友達居る? 色と同じで暗い感じよ?」
ぷっ、とからかうようにナメコが笑う。
「うるさい! こ、これはいいんだよ! ……で、君こそ誰さ!?」
もはや半ギレ気味のオトハだが、妙に人間慣れているナメコの娘のほうが、菌生経験(?)は豊富なようだ。
「ごめんごめん、冗談だよ『オトハ』。いい名前だね! わたしは滑木 滑子。あ、ナメコって呼んでいいからね。うん! 見ての通り妖精ね! しってる? 詳しく言うと担子菌門のモエギタケ科スギタケ属のナメコ(学名:Pholiota nameko)っていう種族で……」
「妖精!? うそつけ粘液モンスターだろ! しかも毒属性の」
「し、失礼ね!? そりゃスギタケ属には毒のある子もいるけど、ちょっとだもん!」
ぷく、とナメコがほほを膨らませる。
「異世界に来てイミフローション女と遭遇……っと」
パシャ! と写メを撮り、ぺぺぺとSNSに書き込むオトハ。一応これが反撃のつもりらしい。
「ここ『デンパ』届かないよ」
ナメコが半眼でいう。
「えっ!? なんで……そんなことまで知ってんだよ!」
「さっきも言ったでしょ? 最近はね人間の世界から『アプリ』とかで来ちゃう子多いの。私は特に君達人間に身近な存在だから、一番多く人間に遭遇してるんだよ」
やや呆れ顔で腰に手を当てて、ナメコは空を見上げた。
空は青く澄んでいるが、よく目を凝らせば何か紋様のような複雑な図形が青い透明な空の彼方に見えた。もしかするとあれが人間の世界なのだろうか?
実際、オトハと名乗る少年が空の向こうから「落ちて」きたのだ。
「そか……! キノコの画像をアプリで読み込ませると……擬人化娘に逢える! って書いていたけど、こういうことなの!?」
ようやくオトハは状況を理解したらしい。
オトハの持つスマホのアプリにキノコの画像を読み込ませると(それは実写でも写真でもいいのだが)擬人化キノコ娘が表示される! というのが謳い文句だったと、オトハは説明した。
ナメコのはその話の半分ぐらいしか理解できなかったが、別段困ることはないね、と気楽に考えた。
「そ。神様が仕組んだのかしらないけど、メーワクな話よねぇ」
ナメコは頭の後ろで腕を組んで、はぁと溜息をついた。
ちちち、と小鳥が平和に森の空を飛んでゆく。
「はぁ……。それで最初の出会いが、君……なの……?」
「なにそのガッカリした顔!?」
オトハが生気の失せた顔でナメコの娘をみつめてくる。ナメコはちょっとむっとする。オトハにとっては、予想外の異世界探訪だったのだろう。
「いや、そういう訳じゃないけど」
「あ! 思い出した。キノコは本物でも『写真』でも何でもいいみたいだよ? カメラで写して読ませて、そんでピピッとここに来れるって、神様が言ってた」
「軽ッ!? 異世界軽ッ!」
オトハのツッこみにナメコがくすくす笑う。普通の少女のように可愛く小首を傾げると、頭から茶色い粘液がタラリと垂れた。
「ナメコさ、いちいち汁が垂れるね……」
「汁とかいうな! 体を護る保護膜なの! 殴ってみ!? 防御力高くて効かないから」
何故か自信満々でカモーン! と挑発するナメコの娘。
「なんで僕が女の子を殴らなきゃなんないのさ」
もっともだ。
「え? 異世界にくると『エンカウントだー!』とかいって襲い掛かってくるコもいるけど、キミは違うの?」
「僕は……そういうのは好きじゃないよ」
「へぇ! 君、変わってるのね」
にこっと優しい笑みを浮かべるナメコだが、笑うととても可愛くて、オトハはすこし照れてしまう。
「そ……そうかな? あ……、そだ!」
オトハは何かを思いついたように、小脇に抱えていたスケッチブックを広げた。胸ポケットから鉛筆を取り出すと、くるりと指先で回し、そしてビシリとナメコの娘に鉛筆の尻を向けた。
そして白い歯を見せて微笑んで、真っ直ぐな瞳で見つめてくる。
「君のことスケッチしても、いいかな?」
「スケッチ? 私を……?」
ナメコは鼓動が僅かに高鳴るのを感じはじめていた。
<つづく>