6
その夜は闇が濃かった。
真人が歩を進めるほど、その実感はどんどん強くなる。
── なるほど、こりゃあ怖いな。
真人は恥じる事なくそう思った。ここには、確かに人の意思が介入している。そして、それは屋敷に近付く存在を何処からか見ているのだ。
これで怖くないと思う者は無謀なだけの蛮勇であり、何も感じない者は単なる鈍感者である。
屋敷の扉には鍵が掛かっていなかった。それはまるで真人を誘っているようであったが、気後れしている場合ではないと、ノブを下ろして中へ入って行った。
「暗いな…… 」
屋敷の中には光が一切入ってこない為、暗闇に慣れつつあった目でも不自由を感じる。
そして、真人が人の気配を探るが何も感じられなかった。
―― だからといって、誰もいないとは限らないんだよな。
図書館での一件で高い授業料を払っているのだから、この程度で動揺などしていられない。だが次の瞬間、屋敷に明かりが灯るのは流石に真人の計算にはなかった。
「なっ! 」
「お待ちしておりました。神城様」
真人の目の前に一人の老婆が立っていて、仰々しく頭をさげる。
その老婆は魔香の影響により気配を感じないのではなく、存在感自体が希薄のようだった。
本当に人間か── 真人がそう思うほどに老婆からは人間味が感じられない。だが間違いなく存在していた。
「どうぞこちらへ」
音もなく振り向き真人を誘う老婆。
「案内を買っていただけるのはありがたいのですが、その前に貴女は味方なのですか? 」
聞いたところで正しい答えが帰ってくるとは思えないが、それでも指標として聞かないでいる事は出来なかった。
「我々はただの門番ですからね。敵も味方もありません」
「それは美沙さんもですか? 」
「…… あの娘は貴方の味方でありたいと願っていますよ」
含みがある言い方だが、その言葉に嘘はなさそうだった。そして、真人は初めて老婆に人間味を感じる。
「今から向かうのは美沙さんの元ですね」
「ええ」
「何をしているのですか」
「門番がする事などそれほど多くはありません」
つまりは、美沙の元に案内はするが何をしているのかは、自分の目で確かめろという事なのだろう。真人はそれ以降、何も語らずに老婆の後ろに付いて行った。
「── ここです」
一階の奥まで歩いて行くと、古めかしい扉があった。
その扉の前で老婆は立ち止まり真人を促す。だが、老婆はその扉に触れようとはしない。
「ここから先は俺一人で行けという事ですか」
「今の私ではこれ以上入れませんので。詳しい話は中にいる美沙に聞いてください」
「そうですか── 。分かりました」
真人としては、少しでも多くの情報を持って行きたいというのが本音だったが、幾ら粘っても意味がない時がある。それはそこに必要な情報がない場合と、その情報を持つ者が絶対に情報を出さないとしている場合だ。
真人は老婆が知りたい情報を持っていても、自ら口にする事はないと判断した。勿論、違う角度からの質問で情報を引き出す事は出来なくはない。しかし、老婆は必要な事以外喋る様子はなく、遠回りしても無駄な時間を浪費するのは明白だった。
―― 先に進めば美沙さんがいる。目的はそれで達せられる。
無駄な時間を掛けるなら、少しでも早く美沙の元へ行くべきだと、真人はノブに手を当てる。
「── チッ! 」
ノブから真人の力が中に流れるような感触があった。
── やはりか。
老婆が入れない理由がこれなのだろう。ノブを触ると力の一部が中に流れ込む、これに耐えられない者は中に入る事は許されない。
「ご老人、この程度の情報は落としてくれても良いのではないですか」
「教えてどうなるものでもありますまい。耐えられなければ入れないだけでございます」
「そりゃ、そうかもしれませんがね…… 」
心構えってえのがあるだろ…… と、いう言葉を真人は呑み込み、扉を開け中に入って行く。老婆はそれを見送ると仕事を終えたのか、その場から静かに消えたのだった。
「こりぁ、中々…… 」
扉の中の状況を見て、真人は絶句した。
その空間は屋敷の大きさからは考えられないほど広く、白い塊が法則性を無視したように自由に飛び回っている幻想的な場所だった。
塊が発光している為、視界は充分に確保されているが、その他に指標となる物は何もなかった。闇雲に歩けば、迷子というレベルではなく遭難と云っても過言ではないだろう。
「さて、そうなると…… 」
白い塊を見るがやはり法則性はないようだ。この光を頼りにする事は出来ない。まるで指標がないのであれば、直接美沙の気配を探るしかない。
「頼むぜ」
元々自信があった探知だが、魔香の存在により探知出来なかったり、老婆の存在に気付かなかったりと真人の自信を奪っていた。
失敗したら先に進めない── その覚悟で両の眼を閉じ、大きく息を吐き出す。そして、自分の意識を遠くへ飛ばすイメージで集中する。
どんな小さな気配でも見逃す事は出来ない。
真人は針の穴に糸を通すように気配を探っていった。そして、
── 見つけたっ!
真人は歓喜の思いを抑え付け、見つけた気配を再度確かめた。
「間違いない。けど── 」
見つけた気配は二つあった。一つは美沙だとしても、もう一つはどうだろうか。老婆と同じく中立な存在なら問題はないが、そう考えるは軽率だと真人は思う。だからこそ、真人は地を蹴ると全速力で目的地に向かって走った。
◆
美沙は川を作っている白い塊の向こう側を見ていた。通常ならこの川の流れは一定で、入口のように無秩序に動きまわる事はない。
向こう側にいる何かが秩序を乱しているのだ。
門番の一族は、この空間の秩序を護っている。そして、白く光っている塊は生物の魂だった。
魂は世界を循環している。ここは美沙達がいる世界ともう一つ別にある世界との狭間の空間。何もなければ魂は順として流れこんなに乱れる事はない。
「タチの悪い悪戯をしてくれるわね」
川から離れようとする魂を元に戻しながら美沙は呟いた。離れた所で勝手に飛び回っている塊があるのは分かっていたが、そうなる原因が川の向こうにある以上、この場を離れる訳にはいかない。そんなイタチゴッコを長時間に渡って繰返していたのだ。
今起こっている問題を解決する為には、原因の根本を絶たねばならない。しかし、ただの門番である美沙には魂の川を渡る力はなかった。
「ったく、何やってんのさ」
そんな時、状況の均衡を崩せるキーマンの声がする。
「やっと来てくれたんだ、真人君」
「何も残さないでやっとはないんじゃない。瑞穂なんか半べそかいてたんだよ」
「そっか、戻れると思ってたのよね。今はまだ…… ごめんね」
「で、帰れない理由がこれですか? 」
真人は魂の川を見ながら云った。入口付近で無規則に飛び回っていたのとは違い。この川にいる塊は規則性をもっている。ここに来る前にこの川を見つけた真人は、その流れに沿ってここへ辿り着いた。
そして、辿り着く直前に美沙がはぐれた塊を元に戻しているのを見ていた。
「ええ、向こうから干渉しているようでね。定期的に魔香を川に送り込んでくるのよ── ホラ、あんな感じでね」
美沙の視線を追うと、少し色がくすんでいる塊があった。
「なるほど魔香は魔族の魂だったな。だったらこれは魔族以外の魂って事か── そんな中に天敵である魔香が紛れ込んだら…… 」
川の流れを作っている魂が、魔香を避けるようにざわめき出した。
「その通りよ。まず魔香を全滅させて、川の流れを安定させないといけない。
その為には向こうから送り込んでいる元凶を断たないとダメなんだけど…… 」
「美沙さんじゃ、あちらに行けない」
「ええ、私に出来る事は── 〈小爆破〉」
紛れ込んだ魔香に美沙は魔法のようなものを使った。呪の後に美沙が指を弾くと、対象物のみ弾け消滅する。次に両手を大きく振ると、流れから外れた魂を操作して元に戻していた。
「不毛ですね」
「否定出来ないわね」
これでは単なる根比べだった。
向こうが諦めない限り、美沙はこの場に留まらないといけない。
「俺なら向こうに行けますか? 」
「お願いするしかないのよ」
美沙が苦笑しながらそう云うと、真人は全てを理解した。
「んじゃ、一寸行ってきます。多分、俺が行くべき相手だと思いますしね」
そして、手を振り川に飛び込む真人。美沙はその様子を静かに見守っていた。
魂の川中へ入って、真人は図書館で被害にあった人間達がどのような状況だったのか知る事が出来た。
魂は真人の周りを囲いその存在を隠す。今の真人からは美沙の姿は見えず、その気配も感じられない。
そしてもう一つ、美沙がこの川を渡れない理由を知る。川に侵入してきた異物に魂は攻撃を仕掛けてくるのだ。
四方八方、真人の死角から魂達はアタックを掛けてくる。その攻撃は真人の体に触れる前に、ジンの加護のお陰かことごとく弾かれているが、その様はまるで白血球が体内に入った異物を排除するかのようであった。だが、真人が感じている感覚は違う。魂が弾かれる度に身体を持たない存在の渇望を感じていた。それは魔香も同じだった。
――― 生ある存在も形が無くなれば、魔と案外変わらないのかもしれない。
肉体への強い執着心を感じ、真人はそんな風に思った。
川の半分を大きく過ぎた頃、魂のざわめきが凪へと変わっていった。
「三途の川を渡るのか?」
霞みの向こう側から、また真人のよく知る声がした。
―――参ったな。
見えない向こう側を見ながら、真人は唇を噛む。
この結果を予測していなかった訳ではない。それどころか、秀明が魔香を使い切っていると知った真人は、可能性の一つとして最も高いとさえ考えていた。
しかし、それを望んでいたかといえばそれは違う。
「ふざけんなよ…… 」
霞みを掻き分けるように進む。真人には明らかにイレ込み予兆があった。
「厄日だな…… ったく」
「否、そうじゃないお前そのものが厄災なんだよ」
「よく云うな。秀明は厄災を撒いてたぜ。で、今のお前も同じだよ裕司」
対岸に到着した真人は、空中にぷかぷか浮かびながら、つまらなそうに魔香を指で弄ぶ裕司を見据えて云った。
「秀明一人でもヘコむのに、何やってんだよおめぇは」
「別に…… ただ目の上の瘤を潰す為にここにいるだけだ」
「それは敵対宣言と捉えていいんだな?」
後ろから見ている者がいれば、真人は軽く言葉を返しているように見えるだろう。しかし、正面から見ている裕司は真人の目つきが言葉とは裏腹にどんどん鋭さを増している事を感じていた。
「敵になれるとでも…… フッ、馬鹿げてるな。どんな本気になっても今のお前はその他大勢でしかない」
手中にある三つの魔香を、裕司は真人にけしかける。
「残念だよ…… 裕司。
力を見くびられたとか、そんな小さな事じゃないぞ。お前ほど気の合う奴はいない――― 友だと思ってたんだがな」
迫る魔香を真人は片手で薙ぎ払う。ジンの力の使い方を身につけつつあった真人にとって、魔族とはいえ魂だけの存在では物の数には入らなかった。
「魔香には限りがあるんだってな。その他大勢だって、この程度なら滅ぼす力はあるんだよ」
「知ってるさ。だが、それでもお前が選んだ力じゃ俺には届かない」
「そんなの知らねえよ。お前とは一度も争ったことなんてないしな」
これまで真人と裕司は争いとは皆無の付き合いをしてきた。険悪な雰囲気になりかけた事はあっても、どちらかが必ず退いてきたのだ。
「それが突然、原因も分からず敵対するって云うんだ。分かる以前に分かりたくもない」
「でも受け入れる体制を作っている。お前にとって友なんてそんなモンなんだろ。
誰の助力もいらない、自分一人で何でも出来る。友情なんて自分を彩る添え物でしかない。ついでに云えば、家族ですらお気に入りの玩具の一つ、壊れたら捨てればいい…… そうだろ、真人」
「どう思うかなんてお前の勝手なんだろうがな。
それを口にしたらそこに責任が生まれる。そしてそれを不快に感じたら、俺には怒る権利が与えられる。そうは思わないか裕司」
裕司の挑発は真人を退かせない為のもの。そしてその返答は退く気がない事の証明だった。
初めての喧嘩にしては大きなものになっていたが、真人も裕司もそんな事は意に介さないように睨み合っていた。
「それじゃあ、俺なりの責任の取り方で対応しよう。お前が選んだ力では俺には及ばない証明を実践で教えてやるよ」
裕司は良雄と同じくノーモーションで真人に迫る。だが、良雄の無拍子は武術を特化させた動きに対してのものだが、裕司の無拍子は全く異なるものだった。
「ちょっ! 何だそりゃ」
状況だけいえば、空中に浮かんでいた裕司が重力の影響を取戻し落ちてきた感がある。しかし、それならば裕司の体は直下するはずなのだが、自由落下以上の速度で斜めに真人に迫ってくるのだから本人にしてみればたまったものではなかった。
それでも、何とか身を翻し裕司をやり過ごす真人。普通なら完全に交わしきったといえたのだが、ここでも裕司の動きは常軌を逸していた。
真人が避けなければ交差するはずの地点で、裕司は何もない空間を蹴り方向を変える。
「ぐっ! 」
予測を大きく上回った裕司の一撃は、ノーガードであった真人の左わき腹を穿ち身体を後ろに弾き飛ばした。
ざけんなっ! 何だよ、あの動きは……
腹部に手を当てると、そこに熱棒を当てられるかのような錯覚を覚える。感じる痛みの度合いから、あばら骨が数本折れているようだった。
マズいな……
痛みは集中力を奪う。ただですら実力上位な上、尋常ではない動きに対応するには大きなビハインドを背負ってしまったという事だ。
(主よ。逃げる事を推奨するぞ。あの者の実力は主とはレベルが違う)
(瞬殺だけは避けられたがな)
(否、それはあの者が主をなぶる為に手を抜いたに過ぎん)
(なるほど―― ね)
穏やかでないジンの言葉に真人は、悟りの境地を開いたかのような顔をした。
だがそれも一瞬だった。真人の顔は笑っているように見えるがその実感情は見受けられない。笑い顔の能面のように見る者に恐怖を与える顔だった。
ジンは裕司がなぶり殺す為に手を抜いたと云っていたが、真人は違う見解をしていた。
俺を見下したんだな裕司……
裕司は遥か高みにいるのかもしれない…… それは真人にだって分かっている。
それでもついさっきまで対等だと思っていた裕司が、自分に対して手を抜いたという事は屈辱という感情以上に惨めさを真人にもたらした。
(ジン。俺と裕司の差は、お前と裕司の契約している精霊としての力の差か? )
(おまっ! )
ジンの動揺が真人に伝わる。
真人は数回使った力でジンの正体に行き着いていた。
図書館で魔香を吹き飛ばした時、良雄の中の魔香を滅ぼした時、魂の川を渡った時、全てに於いて空気の流れをその手に感じていた。そして、決定的なのは裕司の動きだった。
重力の支配下に戻った裕司がノーモーションで真人に向かって来た時、空気が裕司の体を押したとしたら――
何もない空間を蹴って方向転換した時、空気を集め足場を創ったとしたら――
いずれも空気の流れが関わっている。では空気が流れればそこに生まれるものは何か―― 考えるまでもなく風だ。
自ら行使しなければ認められない幻想の力、風を操る能力を持つ存在…… 精霊と呼ばれるものがジンの正体だった。
(何を考えて隠していたのか知らんし、本当はお前が俺を主と認めてないとしてもそんな事はどうでもいい。だが、さっきの問いには答えてもらうぞジンっ! )
(我と貴奴の契約している存在に力の差はない。
汝と奴の力の差は、我らの力を引き出せる能力に差があるだけだ。だがこの差は大きい、どう埋めるつもりだ? )
(そうだな、俺が高み登れないならあっちに降りてきてもらうしかないな。見下していた視線を水平まで戻してもらう)
表情は変わらない。やってやるという意気込みも感じられない。
それでも不思議とジンはこの男は負けないのでは、と感じ不思議な信頼を覚えていたのだった。