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「── お兄ちゃん、お母さんどうしたのかな」
「分からない── けど…… 」
真人は口を噤む。云ってしまうと、嫌な予感が現実のものとなってしまう気がした。
だが既に時計の針は23時を回ろうとしている。
「大丈夫…… だよね」
「……… 」
キッチンを確認すると、朝食の後片付けがされずに残っていた。それは朝から美沙が出掛けている事を指していた。
朝イチからこの時間まで連絡も無し── 美沙さんの性格からしても、何かに巻き込まれているのは明らかだ。
このタイミングで巻き込まれる事など考えるまでもない。だからこそ真人の焦りは募る。
「瑞穂。事は一刻を争うかもしれない…… だから、教えてくれ」
「何を? 」
「美沙さんが行くとしたら何処に行くと思う? 」
10年以上共に暮らしてきて、心当りが一つもないとは情けない話だと真人は思った。
性格や気質など内面については知り尽くしているにも関わらず、趣味や人付き合いなど外面は殆ど分からない── それが、美沙と真人の距離だった。
「お母さんが…… 」
だが、実の娘である瑞穂にしてもあまり変わらない状況だった。瑞穂は記憶の糸を手繰るように考える。
最近の会話── 何もない。
美沙との会話は、一方的に瑞穂が話をしてそれをにこやかに聞いていた。そして、それは過去に遡っても同じだった。
いつでも美沙は瑞穂の話を聞いてくれる。しかし、美沙から話をした事はない。
「ごめん、分からない…… 昔からお母さん自分の事は何も教えてくれなかったし、知り合いにしても叔父さんぐらいしか…… 」
「そっか…… 」
瑞穂の一言はある意味決定的だった。
美沙は瑞穂の事を目に入れても痛くないほどに愛していた。それは真人から見ても明らかな事実だ。そして人は好意を持つ者には、自分の良い部分を知ってもらいたがるもの。故に人は好意を持つ者が近くに入れば饒舌になる。内向的な性格であれば、その逆もあるだろうが、真人には美沙がその様な性格だとは思えなかった。
ならば何故、美沙は瑞穂に何も話さなかったのか── 理由として考えられるのは、何か隠す事があったのだろう。沢山の情報の中に埋もれさせる方法もある。しかし、隠れ蓑として出した情報から真実に行くつく事がある。だから、美沙は情報を全く出さない方法を選んだと云う事になる。
美沙にしてみれば必死の努力をしていたのだろうが、真人にしては望みが断ち切られた思いだった。
「やはり、待つしかないのか」
美沙が居なくなってから10時間以上経つ、時間だけを見れば海外にだって着ける。捜査能力のない一高校生が、何も情報がない状況で無闇に探し回っても成果があるはずもない。
「…… お母さん」
瑞穂の顔を見て、真人は何とかしなければいけないと思う。しかし実際に何が出来るかと云えば何もない。例え捜索願を出したとしても、成人している者に関しては、事件性がない限り率先して捜索はしてくれないのだ。
瑞穂以上に美沙さんの事を知っている人物か──。 一人いる事はいるが…… ダメだな。アイツと連絡の取りようがない。
真人の頭に浮かんでいたのは、父親である神城信司だった。だが、信司は数年に一度帰ってくるだけで美沙に全てを任す放蕩者であり、TV以上の普及率を誇る携帯電話も持っていない。また、ピンチに駆けつけるヒーロー気質も持っていないと真人は評価していた。
あの道楽野郎にもう一寸甲斐性があれば、美沙さんの昔を知る事が出来るのにな―― そんな事を考えて真人は苦笑した。困ったときに必ず現れなるご都合ヒーローなんて居ない。いつだって頼るべきは、自分の判断と決断なのだ。
正しく状況を判断して、とるべく行動を決断する── それが出来ない者は運否天賦に任せるしかない。
そう真人に教え込んだのは、他ならぬ信司である。これを信司が説いたのが、真人が5歳の時だ。普通の親なら、例え真理であってもまだ伝えるには早い。それでも真人はその教えを理解し、核として成長してきた。だからこその苦笑だった。
―― 俺はまだ持っている情報を精査仕切ってない。決断を下すのは早過ぎるよな。
今分かっている事は真人と瑞穂には、何も分かっていないという事だ。何もないところを深く掘っても何も出てこない。
ならば── 出てくるところから引っ張りだせばいい。
辿り着けば簡単な答えだった。
何故、今に至るまでそんな答えに辿り着かなかったのかが、寧ろ真人には分からない。
「瑞穂── お前が昔住んでいた家、今から案内してもらえるか? 」
「えっ、前の家って…… 」
「10年前にお前が住んでいた家だよ。随分時間が経ったが、まだ案内出来るだろ」
「あそこにお母さんがいるの? 」
「否、それは分からないな。けど、そこなら昔の美沙さんを知る人がいるかもしれない」
もし、瑞穂の実家に行って何もなかったとしても、真人は迷惑を省みずに聞き込みを行うつもりだった。
「かもしれないって、そんな不確定な事でいいの? 」
「何も分からないからこそ、動かないといけないんだよ。今動いて後悔はしないけど、動かなかったら後悔するかもしれない。なら動くべきだろう」
「一寸、待ってて── 」
真人の言葉を聞いて、瑞穂は自室へ戻って行った。そして、一枚のハガキを手に持って下りてきた。
「案内するのは多分無理だけど、住所なら分かるから── これ」
瑞穂が持ってきた手紙に書かれた住所は、ここからだと駅二つ離れた場所だった。
「バイクなら10分で行けるな」
「── お兄ちゃんっ! 」
出掛けようとする真人を瑞穂が呼び止める。
「お前も行くんだろ。早くメット持ってこい」
「うんっ! 」
元々、真人は瑞穂を連れて行くつもりだった。こんな時に瑞穂を一人にする訳にはいかない。危険はあるかもしれないが、それでも目が届く範囲にいなければ護る事も出来ない。
瑞穂がメットを取りに行っている間に、真人はガレージに向かった。
『HONDA CB400SF』
あまり親に物をねだらない真人が、唯一頼み込んで買って貰った愛車だった。
性能としては、主だった特徴がないと云われるバイクだが、乗り手には洗練されていると評価され、全てのスタンダードとも云われている人気がある車種だ。
真人がオーナーになって一年、そのバイクが大切という思いは一切色褪せていなかった。
「後に乗せてもらうの久しぶりだね」
後から追い付いた瑞穂が、メットを被りながら云う。納車直後は何度か乗っていた瑞穂だが、美沙があまり良い顔をせずに乗らなくなっていたのだ。
「前よりは全然マシになってるが、少し乱暴になるぞ。覚悟しておけ」
「信用してるよ」
瑞穂は顔色一つ変えず、真人の後ろに腰を下ろした。
「じゃあ、行くか── 」
深夜人気がない道に、うるさいくらいの音が鳴り響く。そして、テールランプの光をそこに残して真人のバイクは走り出したのだった。
◆
「── ここか? 」
「うん、でもこんな雰囲気だったかな」
バイクを止め、真人と瑞穂はある洋館の前に立った。
瑞穂は昔の記憶を遡って思い出そうとしているが、それは無理だろうと真人は思った。
瑞穂の家は住宅街を離れた場所にあった。広い敷地に淋しく建つ屋敷。住宅街を走り抜け民家から離れていくほど、真人は思惑が外れたかもしれないと考えていた。しかし、いざ屋敷に着いた瞬間にその考えは一転した。
雰囲気が図書館と同じだったのだ。
この異様さが昔からあるはずもなく、瑞穂が幾ら過去の記憶を探っても思い出せるはずがない。
そして、この雰囲気は魔香がもたらしている。美沙が秀明の云う門番であるなら、間違いなく何かに巻き込まれている。
「こりゃあ、ビンゴたな」
「お母さん、ここにいるの? 」
「十中八九いる。だが── 」
真人の視線が玄関に向けられた。
「とりあえず片付けないといけない問題があるな。瑞穂少し下がってろ」
暗闇から人影が現れる。
「── ! な、なんでお前が…… 」
「か、カミシ…… ロ…… 」
視点も定まらず、呂律も回っていない。そんな状態で猿渡良雄は立っていた。
「猿渡…… 君? 」
「何やってんだよ、お前」
真人の問いにも、良雄は口の両端を不気味に吊り上げるだけで、心ある反応はなかった。
「カミシロ…… ショーブ……」
「勝負? 」
良雄の根幹がそこに出ているようだと真人は思った。そこに理性はなく、したい事をしているような印象が強い。
そして図らずも真人の見立てはあっていた。
『欲望開放』
魔香に憑かれた者は自分の望みを優先させる。それが魔香の特性であった。
だが、それだけでは良雄の状態を説明する事は出来ない。
真人が魔香の侵入を許したとき、秀明は「魔香を体内に入れて自我を保てる者は少ない」と云った。それは真人にも理解出来る。えも言われぬあの倦怠感と、心を飲み込むかのような声…… あれは、何も鍛えていない人間であればとても耐えられない。
それでは、今の良雄はどういう状態なのか── 考えられるのは、ギリギリの状態で何とか自我を保っているのではないか…… 真人はそう答えを出した。
── 良雄は秀明とは違う。
秀明は自分の意志で真人に敵対してきた。しかし、良雄は操られている。そしてそれを裏で操っているのは秀明だ。祐司が云った「良雄の事は秀明に聞けばいい」という言葉を思い出し、真人は奥歯を噛み締めた。
「── 秀明っ! 何処にいるっ! 」
真人にとって良雄は顔見知りでしかない。だが、秀明とは親友であったはず。それなのに何故巻き込める── 今まで感じた事がない憤りを真人は感じていた。
「お兄ちゃん…… 秀明君がどうしたの? 」
何も事情を把握していない瑞穂は呆然と呟いた。
「簡単に云えばあのクソ野郎が何かを企んでいるんだよ。図書館の一件もそうだった」
「ちょっ…… 嘘だよね」
「嘘なら俺も気が楽なんだがな── 瑞穂、これから何が起きても黙ってみてろ」
瑞穂をバイクのところまで下がらせて、真人は良雄と向き合った。
「マ、サト…… ショーブ…… ダ」
秀明からの返事はない。その変わり良雄が真人の名前を呼び近付いてくる。
良雄が真人の名前を呼んだ事で、良雄が本当にしたかった事が分かってしまった。
「欲がねぇな、お前…… 」
真人の才能に惚れたなど切っ掛けでしかない。そんな事より、良雄は真人と対等に打ち合える仲間になりたかっただけなのだ。言い換えれば、友達になりたい── その為だけに追い回してたに過ぎない。
「── いいぜ、相手してやる。お望み通り本気でな」
真人の本気の目を見てか、良雄の持つ狂気が膨れあがる。そして、手に持った木刀を正眼に構えた。
刹那、良雄の剣が一直線で走る。
── 速いっ!
真人は喉元を狙った良雄の剣を紙一重で交わすが、頬に痛みが生まれる。
無拍子でこのスピードか…… やっぱりコイツは侮れないな。
無拍子とは、一切の予備動作を行わないで放つ事を指す。格闘技の基本はリズムである以上、これをやられると、受ける方はタイミングが取れずに避ける事もままならなくなる。しかし、放つ方も予備動作を行わない為、充分なスピードとパワーを乗せた一撃を放つのは難しい。
だからこそ、無拍子で威力のある一撃を放てる良雄の実力は本物であるといえた。
元々、真人は良雄を軽くなんて見ていなかった。
あの『瑞穂争奪戦』のとき、唯一相手が提示した勝負をしなかった。剣道での勝負を受けずに、真人は剣術で対抗していたのがその証拠だった。
普通に戦えば戦闘力は真人の方が上だろう。だが、殺す気がない真人と殺しても構わない良雄で、その戦闘力の差は埋まっている上に真人は素手ときている。
剣道三倍段と云われるように、武器を持った人間に立ち向かうには圧倒的な力の差が必要になる。更に時間をかければ、その差は顕著になるだろう。
だったら一撃で終わらせるしかないな――
真人は腰を落とし初めて構える。
その構えは居合いだった。まるでその腰に真剣を差しているかのように見えた。
「良雄。正直、お前を助ける為に勝てばいいのか、負ければいいのか分からない。
── だから勝つ事にするよ」
スゥっと息を吸い込み、目を閉じると真人を中心とした真円が見える。これが真人の間合い、武器を持っているときとは、比べ物にならないくらい小さな円だった。
それでもこの円に入った物は全て叩く── という一点で真人の集中力はドンドン高まっていく。
「来いっ! 」
真人の声が良雄を動かした。そして、動かされた良雄の負けが確定した。
良雄は剣道に準じた動きしかしない。つまり、無拍子の速い突きであっても、狙いは喉元なのだから他に注意を向ける必要もない。極限まで高められた真人の集中力を前にして、精度が高い一撃は逆に狙い易いものになる。
間合いに良雄の剣先が入ると、真人は右腕を使い剣を叩き落とす。そして、剣を払われた良雄は体が外に流れ、真人の手刀が首筋を捉える。
「うっ! 」
真人の一撃により、良雄個人との勝負は終わった。だが、これで解決ではない。良雄が動かなくなった事により、魔香が暴走する可能性もある。
「ジン── 」
完全に魔香を沈黙させる為に、真人が選んだ方法はその存在が何なのか分からないものに頼る事だった。
(私に何を望む)
「良雄の中の魔香だけを消せるか? 」
(さっきのように私の力を集めて開放してみろ── ただその時に物体を傷付けないイメージをする。
お前次第で結果は変わるだろう)
結局解決する為の力は貸すが、それを使いこなすかどうかは真人次第という事のようだ。
万能な存在って訳じゃなさそうだな――
幸いな事に真人には魔香だけを消すイメージを創る事は容易い。それは奇しくも図書館を覆う魔香を見ているから出来る所業であった。
霧を散らす風をイメージして右手に力を集める。
「失敗しても恨むなよ」
充分な力が集まったのを確認して、真人は良雄の背中に拳を撃ち込んだ。
「がぁああー」
良雄は苦悶の表情をした後、体を痙攣させるとそのまま意識を無くした。
「お兄ちゃん、猿渡君の体から出てる煙みたいなのは何? 」
少し離れた場所からこちらを見ていた瑞穂は、決着が着いたのを見て真人に走り寄ってくる。
「こりぁ、魔香っていうものらしい…… って、お前これが見えるのか? 」
「えっ、う、うん」
瑞穂の云う通り、良雄の体から湯気のようなものがもくもくと上がっている。だが、真人が魔香を視認出来るようになったのは、ジンが力を貸すようになってからだった。それだけに瑞穂が見えているのは意外でしかなかった。
魔香って、こうなると誰彼構わず見えるものなのか? だとすると……
この先、魔香が発生したときの事を考えて、真人は頭が痛くなる思いがした。
もし、良雄のように体を乗っ取られる者が出てきた場合、人目に付く所では戦えない。助けたとしても、人から煙が上がるような異常事態を何も知らない者が目にした場合、パニックを引き起こさない方がおかしい。そうならない為には、敵だけでなく回りも気にしないといけなくなる。
だがそれ以上に、懸念する事が真人にはあった。
瑞穂と俺が特別な存在だとしたら……
瑞穂をより深く巻き込む事になる── 深く関わる事は、その分危険度が羽上がる事に他ならないのだから、真人にとって最も嫌な展開であった。
「何れにしてもこの場じゃ答えは出ないな。だったら、その答えを知ってる奴に聞くしかないか」
不気味に沈黙する屋敷を見ながら真人は呟いた。そして、
「瑞穂。良雄を頼む」
「お兄ちゃんはどうするの? 」
「悪ふざけの過ぎるガキをぶん殴ってくる。で、美沙さんと一緒に戻ってくるよ」
そう云われても、瑞穂は嫌な予感が頭から離れなかった。
── もう戻ってこないのではないか。
そう考えてしまうと、連れて行けと云いたくなってしまう。だが、瑞穂は喉まで出掛かった言葉を呑み込んだ。
尋常ではない事が起こっているのは間違いない。だからといって自分が付いていって、どうなるというのか…… 足を引っ張るだけで、何も出来ない自分を認識していた。
「分かった。けど── 説明するって云ったくせに、まだ何にも教えてもらってないからね。嘘つきは嫌いだよ。お兄ちゃん」
「そうだったな」
クスリと微笑を浮かべ、真人は屋敷に向かって歩き出したのだった。