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それは勘以外の何物でもなかった。
この状況を打破する為に必要な情報は、秀明の話の中にある── 真人はそう考えていた。
だが、物を考えると云う事は尋常でない精神力を使う。中にいる魔香に精神力を喰われ続けている、真人にとっては苦行でしかない。
くそっ、思考がまとまらない──
刻一刻と消費していく精神力、時間が経てば益々不利になる焦りから導ける答えなどない。
額に溜まっていた汗が次々と頬を伝わり流れ落ちた。
そんな時だった。真人の背中からドンドンとドアを叩く音が聞こえる。
「おっと、また計算外な事が起こったみたいだな」
秀明がほくそ笑み真人を見る。
その笑みには不吉な影が射し、真人の思考を更に奪っていく。
「─── お兄ちゃんっ! 」
その一言は決定的だった。
その声が聞こえた瞬間に真人の頭に浮かんだのは、瑞穂をこの部屋に入れてはいけないという事だけだ。だから、自分が動けないなんてことはすっかり忘れて振り向いてしまった。
─── しまった。
そう思ったときには、真人は前のめりに倒れ込む。とっさに腕を突き出し支えようとするが、その力すら残っていない。床に付いた手は「ペキ」とコミカルな音を立て、真人は床に顔面から突っ込んだ。
口の中に鉄の味が広がった。前歯が折れたかと思うほど痛みがあったが、真人は構わず這いずってドアまで辿り着くと、背を着けて上半身を起こした。
「無様だな、そんなにその女が大事か? 」
「お前の百倍大切だよ」
室内で唾を吐くのは常識外れだと分かっていたが、真人はあえて秀明に向かって唾を吐いた。
ピチャっと床が赤く染まる。口の中を切っているようだった。
「アレはあの女の娘だったな── やはり、邪魔だな」
「邪魔だと」
真人の声がかすれていた。だが、まだ瞳には力がある。
「お前が貧弱なのはそこの女がいる所為だ。お前は自分が何者なのか知る必要がある── だから、現状を満足させる要因は取り除かないといけないな」
「ざけんなよ、秀明。お前が瑞穂に手を出すと云うならば、殺してでも止める。必ずだ」
真人の覇気は、動けないと分かっていても相手を充分に怯ませる事が出来た。秀明が真人と同等の精神力を持ってなければ、これだけで戦意を無くしていただろう。
「既に立ち上がれないその様でか? 」
力を知る者と知らぬ者の差がそこにはあった。
秀明は魔香の力を知り自在に扱う、肉体的には真人に分があるとは云え、未知なる力は圧倒的だった。
── 待てよ。俺と秀明の差はそれだけなんだよな。だったら……
出来るかどうかは分からない。しかし、今の真人にはこの閃きに賭けるしかなかった。
(── やめておけ。少なくても今はまだ…… 力なら私が貸してやる)
体の中にいる魔香を手懐ける── それが真人の考えだった。
嘘か誠か不明だが、秀明は魔香を真人のペットだと云った。ならば、調伏させる事も出来るのではないかと考えたのだ。否、それすら正しくない。実際にはやらなくてはならないと思っていた。
だが、いざ行動に入ろうとした時に、秀明ではない誰かが真人を止めたのだった。
(誰だ? )
(今問う事ではないだろ。お前は私の力が必要なのかどうかを選択すれば良いだけだ)
一方的な言い分の様だが、その声は真人に選択権を与えている。それしかないから選ぶしかないより、よほど信用がおける。
(なんだが分からないが、貸すと云うなら貸せ! お前を選んでやる)
(心得た。今この時を以て、お前は私の主だ。視界を曇らす霧を払うよう命令しろ。
我が名はジン也── )
その時、秀明の顔が一瞬歪んだらのを真人は見逃さなかった。だから、この選択が正解であると確信したのだった。
「ジンっ、凪ぎ払えっ! 」
真人を中心に空気が集まる。そして、集まった空気は6つの空球を創り出し、前方に向かって弾けた。
書庫内を縦横無尽に飛び回る空球は、物を壊す事なく魔香だけを刈り取る。だからかもしれないが、秀明はその場を動かずに成り行きを見守っている。
「チッ、こちらに持ってきた魂は全滅だな。ま、潮時って事か…… 」
真人がジンを受け入れた時に、体内の魔香は離脱していた。そして、放たれた力によって、書庫内の不純物は滅びた。
そして、室内が落ち着きを取り戻すと秀明は真人に近寄り耳打ちする。
「ライズ── やっぱりお前はそっちを選ぶんだな」
「俺は神城真人だ。何度も云わすな」
「フッ、どう足掻いてももう遅いんだよ。ついでに一つだけ見ておけよ。本当のお前ってヤツをな」
秀明は真人の額に手を当てた。すると、視界が歪み目の前が真っ暗になった───
◆
「……… 」
男が一人、一段高くなった玉座に座っていた。と云っても、そこは立派な城にある玉座ではなく、山の中にある洞窟に造られた山賊のアジトと大差ない場所だった。
「── 精霊使いが来ます」
一人静かに瞑想していた男の元に、部下と思われる男が膝を付いて報告をした。
そして、その報告を受けて玉座の男は両眼を開けた。
(過去の世界、そう云う設定か…… )
玉座の男が目を開けると真人の視界が開ける。
秀明が見せているこの状況は、玉座に座る男が真人であるとしている。
今の真人は自我こそあるか、自由に動かせる体を持っていない。だから、まるで手足を封じられて出来の悪い映画を見させられているようなものだった。
「グラムはどうした? 」
「既に戦場にて指揮をとっております」
「そうか…… 」
男はそう云うと玉座から立ち上がり、表に向かい歩き出した。
そして再び世界は暗転する───
次のステージは玉座の男と、精霊使いと称された男が対峙している場面だった。
精霊使いの前には、一人の男が倒れている。意図的にとしか思えないが、その世界では登場人物の顔は見えない。
(本当に出来の悪い映画だな。これじゃ、誰が誰だか分からない。尤も、俺と玉座の男が同じ存在だと云いたいのだろうが…… )
二人の戦いは、真人が知るものとは一線を画していた。
玉座の男が何もない空間から炎を生み出し、もう一人の男が素手でその炎を弾き返す。そんな物語でしか見られないような戦いを繰り返していた。
先の魔香との一件がなければ、真人も単なる創り物だと軽くあしらっていただろう。しかし、実際に自分でも魔法然とした力を使った以上、一概に有り得ない戦いと決め付ける事は出来なかった。
真人は玉座の男が自分と同一の存在だと認めたくなかった。
強烈な憎しみを玉座の男は内包していた。敵も味方もなく、時が来れば全てを壊す存在── それが玉座の男だった。そんなものが過去の自分だとすれば、万が一記憶が戻った時に大切にしている者を壊すかも知れない。そう考えて恐くなった。
そして、これ以上の映像は見せる気はない様だった。二人の戦いは結末を迎えない内に、真人の視界はまたも歪んでいく……
◆
「どうだ、ライズ── 」
視界の歪みが収まり、真人の眼下に秀明の顔がある。
「策謀臭がする映像だな。
ま、トリックとは言わないが── 思い通りになるつもりはねぇよ」
「そうか、それならそれでいいさ」
秀明は余裕たっぷりに云った。それこそ真人がそう云うと予測していたと云わんばかりの態度をとった。
「どうあれ時は再び動き出したんだ。後はお前次第だ。俺はセルディアで待っているよ」
「セルディア……? 」
「詳しい話はお前のところの門番に聞くんだな。今なら隠すような事はないだろう」
そう云って秀明は真人を入口から退かし、何食わぬ顔で書庫を出ていく。すると入れ違いで瑞穂が入って来るが、秀明の姿は見えていない様だった。
「お兄ちゃんっ!」
「ったく、云う事を聞かないヤツだな」
「だって…… 」
しゅんと頭を垂れ瑞穂は口を噤む。不可解な雰囲気の中、真人を心配しての行為なのは分かっていた。だから真人はそれ以上、瑞穂を責めるつもりは毛頭なかった。
「ま、それはいいさ。けど、今度こそ誰かを呼んで来てほしいんだが頼めるか? 」
「けど…… 」
「俺は大丈夫だよ。一寸疲れてるけど、お前が戻ってくる前には動けるようななってるさ。
詳しい話はまた後でな」
「分かった」
不承不承ながら、真人の無事を確認した瑞穂は校舎に走って行った。そしてそれを見送った真人は、瑞穂との約束を果たす為に瞼を閉じて眠った。
真人が再び目を開けたのは、あれから二時間以上経過してからだった。
「── んっ、ここは? 」
目を開けた同時に昼白色の蛍光灯が見えた。
「起きたか天才君」
「藤さんか…… って事は、俺は保健室に運ばれたって事だな」
「おいおい、仮にも保険医だぞ、先生様だぞ。敬称を付けろといつも云っているだろう」
保険医である藤村里美は、丸眼鏡を指で押し上げながら云う。
長い黒髪を後ろでまとめ、少々目付きは鋭いが白衣が似合う、美人校医として生徒にも人気があった。
「じゃあ、藤さん先生」
「藤村先生でいいだろうに…… あたしゃ、世界遺産の御山じゃないっつうの。
ったく、もういいから目が覚めたのなら、そこに寝てるヤツを連れて帰れ。いい加減、私も帰宅したい」
藤村女史がベットの横で眠りこけている存在を見る。
「コイツ、気持ち良さそうに…… 」
「感謝しなさいよ。その娘が私を呼びに来て、唯一目覚めなかったアンタを背負ってここまで運んだんだから── ったく、その細腕でどんだけ火事場パワーを出したのかしらね」
真人が知る限り、瑞穂にそこまでの力はなかった。藤村女史が云う通り、力の限りを尽くしたのだろう。
「無茶させちまったな」
(ま、案の定半分も到達しない内に力尽きて、私が運んだんだけど黙っておきましょう)
真人が瑞穂の頭を撫でながら、優しい目で見ているのを藤村女史は更に見守っていた。
「で、帰れと云っておいて何だけど、何があったのよ。アンタを含めて四人が同時に気絶するなんて普通じゃないわよね」
「あっ── えっ…… と…… 」
珍しく口篭る真人を見て、藤村女史は何かを知っている事を理解した。だが、その一方で真人は本音を隠すだろうとも予測する。
「ああ、いいわ。適当な事聞かされても迷惑なだけだしね。
ま、天才君の事だから、心配するだけ無駄だし、アンタなら多少の事なら自分で何とかするでしょ」
「信用されているのか、見棄てられているのか…… それに藤さん、俺の事天才って云うけど成績は秀明の方が上ですよ」
「んっ、一応信用はしてるよ。ただ私より優秀な者に云える事なんて経験談ぐらいなものでしょ。だから現段階じゃ、何も分からないからアドバイス出来ないだけよ。
んで、伊佐美だけど、アイツはアンタより知識があるだけ── ま、私の勝手な見解だから真面目に取る必要はないわよ。流してOK」
藤村女史は適当な口調で云うが、一つ一つは的を射ている。不遜な態度が藤村女史の評価を下げているのだか、本人はそれを望んでいると真人は思っていた。
「んじゃ、人生経験豊富な優秀な人に誉められたと解釈しておきますよ」
真人がぼそりとそう云うと、藤村女史はズズいと顔を近付けて「あたしゃ、そんなに年をくってない」と言い返した。
「そっか、藤さんまだ二十代だったけ」
「後数年は二十代だ。ひよっ子から見てからと云え、人生経験豊富な年齢と云われるのは心外だよ」
「そりゃ、悪かったな── よっ、と」
大して悪びれもせずに真人はベットから飛び降りた。
「何だ帰るのか? 」
「ああ、俺らが居たら藤さんも帰れないだろ。もう8時近いしね」
「うむ、確かにな…… ま、わたしゃこの時間に帰っても、晩酌のツマミを買うぐらいしかないんだけど…… そうだ神城、一杯付き合わないか? 」
「未成年に酒を勧めるか…… 普通…… 」
真人とて今まで一滴も口にした事がない訳じゃないが、校医が生徒を飲み誘うのはやはり逸脱している。
「おっさん臭いよ、先生」
「ここで先生云うなっ! ま、確かに今誘うのは問題あるか…… んじゃ、今日の借りは2年後に返してもらうとしますか」
(…… この人は、酒に付き合う以外に返済方法をしらんのか)
「まあ、覚えていたら誘いますよ。ホレ瑞穂、そろそろ起きろ」
瑞穂の頬を軽くペシペシ叩くと、イヤイヤと首を振り起きる気がないようだった。
「…… コイツは」
「精神的にも体力的にも疲弊してるんだ。結城への借りはおぶって返すんだな」
「仕方ないか」
真人にしても疲れている。これで自宅まで岐路を瑞穂を背負って行くのは、かなりキツいものがあった。
「頑張れよー、お兄ちゃん」
瑞穂を背負い保健室から出ていく真人に、藤村女史は軽く手を振って見送ったのだった。
◆
「── ったく、やっぱキツいな」
家路まで半分ほど来たときに真人は呟いた。
寝た子は重いと云うが本当にその通りだな── と、真人は思った。
ただ一番の問題はそこではない。瑞穂が寝ている以上、全てが真人に委ねられている。重みも然ることながら、昔にはなかった膨らみが、真人に瑞穂が一人の女性である事を意識させる。
「そんなに重くないもん…… 」
「何だ起きてたんか── だったら降りてくれないか」
これ以上、変な意識する訳にはいかない。
「イヤよ」
更に体を密着させる瑞穂。
「ったく、しゃーないな」
真人には瑞穂がどう思い行動しているのかは分からない。ただ、もし瑞穂が意識をさせる為に行動しているのならこれは逆効果といえた。
子供っぽい態度は、真人にとって妹という立場を明確にしている為、あっさりと自分の立ち位置を確保する事が出来たのだった。
「あ、そーいや美沙さんに何の連絡も入れてなかったな」
「うん。でも5時くらいに一度連絡は入れたんだよ。お母さん出なかったけど、履歴が残ってるから、怒られないと思うよ」
「出ない? 美沙さんが」
瑞穂の一言が妙に気になった。真人の知る限り、美沙は殆ど家から出ない。勿論、買い物などで出掛ける事はある。だが、近所付き合いのようなもので長時間空ける事はなかった。
「瑞穂。美沙さんからの折り返しもないんだよな?」
「え、一寸待って── うん、ない」
「そうか…… 」
一旦気になると、良かれ悪かれ想像は大きく膨らんで行く。真人はその想像を振り払うように、瑞穂にもう一度掛けてみるように云ってみたのだが、既に自宅まで後10分くらいなものだった為、瑞穂に断られた。
「ねぇ、お兄ちゃん…… 」
「何だよ? 」
少しでも早く帰りたい真人を尻目に、瑞穂は少しでも長くこのままでいたい様子だった。歩みを速める真人の足を止めるように質問をしてくる。
「図書館で何があったの? 」
「── あ、それな…… 」
思わず足を止めてしまう真人。
瑞穂が巻き込まれる可能性があるのに話すべきか、ずっと悩んでいたのだ。
あの時の秀明は本気だった。しかも、常識を逸脱した現象もある。
自分一人でも手に余る状況に話すべきではないと考える半面、秀明が最後に云った言葉が迷いを生み出していた。
『詳しい話はお前のところの門番に聞くんだな── 』
秀明が云う人物は二人── 瑞穂と美沙だった。そして、真人がより対象として可能性が高いと考えていたのは美沙だった。もし瑞穂だった場合、あの状況での台詞は「そこに居る門番に── 」となっていたはずである。だからこそ美沙に聞いてからと、真人は考えていたのだ。しかし、その場にいた瑞穂が気にしない訳もなく、いずれバレる事なのだ。
だったら── そう真人は決断する。
「詳しい話は美沙さんと一緒に話す。けど一つ、お前門番と云う言葉に心当りはないか? 」
「── ズルいよ。私の質問には答えないのに、お兄ちゃんの質問には答えないといけないなんて…… 。だったら私も答えないからね」
すっかりへそを曲げる瑞穂に、真人は苦笑するしかなかった。だが瑞穂が云うのはもっともな事なのだ。
「そうだな── お前の云う通りだ」
そうして真人は再び歩み出した。その後は瑞穂も口を開かずに背中にしがみついている。その分進みは早くなったが、真人が云った美沙と一緒には守られなかった。
自宅に戻った真人と瑞穂は、電気の点いていない家を見て、美沙の不在を知った。そして、それから二時間待ったが美沙は戻って来なかったのだった。