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ドゴンっ、と素手で殴ったとは思えないほど鈍く重い音が鳴り、その後、砂が宙を舞った。
「砂? 」
この無限回廊には踏み締める地はあるが、砂や土などない。いや、それ以上にここにあるのは本来、魂だけなのだ。
真人や他の人間が入り込む事で、時間が生まれ、物体が人の数だけ存在している。
その空間で砂が舞うという事は、その砂を持ち込んだ者がいる── そういう事になる。
「── ったく、未熟だな。ダメだ、ダメ過ぎる。もし、俺が一人だったら、完璧に負けてたな、コレは」
「アホ、アンタ一人だったら完璧に死んでたよ、コレ」
真人を切り裂くはずだった一撃を受け止め、自分を下卑する真人に軽口を返したのはレイサッシュだった。
「土の精霊使い…… よく反応したわね」
「そりゃあそうでしょ。私はアンタ達が思ってるほど、マサトを信用してないの。だから、一瞬目を疑っても、こんな事もあるって頭を切り替えられる」
如何に強かろうが、如何に凄かろうが、何をどうしても真人は人間なのだ。従ってミスはするし、この先真人より強い者だって現れる。その度に信じられないと動けずにいる訳にはいかないのだ。
レイサッシュが真人の相棒である意義は、窮地に陥った時、最悪の状況を回避出来るか否に集約されている。
「さらりと私の勝機を奪っておいて、その涼しげな顔ね。子憎たらしい」
「あら、涼しげとは心外です。これでもなけなしの力を使ってギリギリの対応をしてますのよ。
涼しく見えるのは若いからエネルギーに満ちてるたけの事ですの。ま、おば様には分からない感覚かもしれませんね」
「── 小娘が」
ピキっとこめかみを動かし、里美はレイサッシュを睨みつける。
「次はアンタが相手をしてくれるのかい? 」
「うーん、そうですね。あまり気は進みませんが、もうマサトは貴女を相手にする気はないみたいだし、だからってほっといたらまた邪魔するでしょ。
鬱陶しいから相手してあけるわ」
敬語からの最後は上から目線、まともな神経の持ち主なら普通に不愉快さを感じる挑発。
「んふっ、それじゃあ相手になってもらうわよ」
「あらら、受けちゃうんだ。こりゃあ意外」
明らかな挑発に乗ってくるようなタイプには見えない。
「神城がまともに動けるようになるまでの期限つきだけどね」
「ふ〜ん、動けるようになったらトンズラぶっこく気か── けど、それは失策ね」
僅に笑みを浮かべたまま、レイサッシュは真人を指差す。
「だって、コイツもう動けるもの」
「は? 」
そんな馬鹿なと里美が真人に視線を移すと、
「風精霊譲渡っ! 」
「なっ! 」
その瞬間に真人が跳んだ。
「マサトはね。氷の矢を二本その身に受けても戦える無痛症だからね」
── 誰が無痛症だ。無茶苦茶痛ぇってんだ。
地を駆けながら、レイサッシュの暴言をしっかりとその耳に捕らえるが、口にする事はしない。言葉を出せば、その痛みでまた動きを止めてしまうからだ。
風精霊譲渡を使い肉体強化と同時に、魔力操作で痛みを緩和させてはいるが、受けたダメージは騎士戦の時の比ではない。冗談抜きで余裕などなかった。
── ちっ、こりゃ内臓までいってんな。これじゃ無茶を通り超えて無謀だ。
真人が風精霊譲渡で精密な動きを可能としていたのは、魔力操作を併用しているからなのだが、今は痛みを和らげる為に殆どの魔力をそちらに回している。そうしなければ動く事もままならない。
── 一瞬でケリをつけてやる。
瞬時に詰めた和奈との間、更に手心を加えずに眉間を狙って放たれた真人の拳。
その一撃が和奈の顔を後ろに弾け飛ばした。
「くっ! 」
拳から感じる確かな手応えと、その時に生じた衝撃が脇腹の痛みを呼び戻す。だが、この痛みは敵を打ち抜いた証拠だった。
超高速から無防備な相手に全力の一発、普通の人間なら間違いなく死ぬ。また、普通でなくても殺してしまう可能性が多分にある攻撃を躊躇なく放った事によって、真人は決着を確信した。しかし、
「…… 女の子の顔にグーパンチって、遠慮がないにもほどがありませんか。この無礼者」
首の骨が折れているかのようにダラリとさせたまま和奈が云う。
「おいおい…… 何で意識があるんだよ」
先刻の通り、全力で一切の手心を加えていない。そして、脇腹の痛みは確実な手応えとなっているのだ。
殺してしまう事はあっても、倒しきれないなんて有り得なかった。
「ふふっ、何でって云いましたか。うふふふふ、先輩のその顔とてもイイですね」
首を後ろに背けたままで、真人の顔など見えるはずもない。その状態でのこの言葉は、安い挑発にしか思えないのだが、
「お前には、顎に三つ目の目でもあるのか? とても笑えんぞ、キモい」
「花も恥じらう乙女に向かってキモい云うな」
「それは失礼した。けどよ、お前の次の行動が見えるんだよ。こう首をぐるんと起こして高笑い── 違ったら申し訳ないが、当たってるなら、キモがってもらいたがっているとしか思えんな」
ゾンビ系の映画などでよく見られるシーンだ。ショー染みた言動を好む和奈が如何にもやりそうだった。
「…… ツマンナイ、ツマンナイ、ツマンナイっ! ホントにツマラナイ」
「駄々をこねるな」
相手を楽します事より、自分が楽しむ事を優先させているようではエンターテイナーは勤まらない。
「もうホントにツマラナイから、ネタばらししちゃお」
真人の予想通りに首を一気に起して、ニヤりと笑うと和奈の体が再び消え、真人のすぐ横に現れた。
「ちっ! そういう事か」
「そっ、そういう事です。実はそれもニセモノでした」
実感ある幻術── 。
高位の魔法であるが故、セルディアに於ても使用者は少ない。
それが辺境といえるこちらの世界で過ごしていた和奈が使えるとは、考え及び付かなかった。
「悪魔喰いの力があるとはいえ、よくそんな術が使えるもんだな」
「和奈ちゃんは天才なんですよ。そして、この力があれば、そのガキは要らない。影で殺して操るなんてナンセンスでしょ」
「本人を殺して、その偽物を送り込む事にそれほど差はないけどな」
── 否、そんな事はないか。
顔無しの能力では、殺してからでないと目的地に潜り込む事は出来ないが、和奈の能力であれば拉致するだけで目的を果たす事が出来る。そして、拉致した者を買収でも洗脳でも、何れかが出来れば和奈はそこに囚われる事なく、次の行動に移る事が出来るのだ。
その時間短縮一つでも大きなメリットになり、分身体を送り込む顔無しより、幻影を見せている和奈は身に迫る危険度が格段に下がる。
全てに於て、和奈は顔無しを超える存在。秀明があっさりと切り捨てた理由はここにあった。
「で、今も呑気に見せている姿も幻影か? 」
「さて、どうでしょね」
もっと早く分かっていれば、真相を探る事が出来ただろう。
探査の風を広範囲に放つも良し、幻影を創り出しているならば完全な魔力遮断は出来ないはずなのだから、集中して魔力探知を行えば本体の居場所を特定出来るはずだった。
だが、残念な事にそのどちらも使えぬ程、真人の集中力は無くなっていた。
正直にいえば、こうして立っているだけでもギリギリなのだ。
「俺の負けか」
「うーん、どうでしょ。先輩はもう碌に動けない。でも、その場に留まり迎撃だけしていればまだ保つんでしょ。
だったら行き着く先は良くて引き分け、しつこくすればこっちの魔力が尽きて負けるって事になる」
和奈の分析は正確なものだ。真人の思考もその結論に達している。つまり、真人の勝ちはこの時点で完全に無くなったのだ。
「藤村センセ、私はここで退散させてもらうわよ。悪魔喰いも回収して二つになったから、このまま向こうに行くけど、センセはどうする? 」
「私はこっちに残る、アンタは好きになさい」
「ふーん、やっぱりね。ま、いいわ、じゃーねーセンセ」
幾ら里美がそう云ったとはいえ、和奈は何の迷いもなく見捨てて姿を消す。
「藤さん、これで良かったのか」
「まだ、この娘に借りを返してないからね。一寸、痛い目を見せてからじゃないと退くに退けないから」
「あら、退いてくれていいんですよ。今なら引き分けで済むのだから上出来でしょ」
真人は動けず、良雄と瑞穂はいうに及ばない。まともに戦えるのがレイサッシュだけならば、里美の云う事も分からなくはない。しかし、能力がネタばれした今、レイサッシュに負ける気はない。
「女のプライド、舐めないでよね」
「そっ、舐めはしないけど、私にもプライドがあるのよ。精霊術士が魔術師に遅れをとる訳にはいかない」
真人にとっては耳が痛い言葉だった。
魔導師よりの精霊術士ではあるが、真人もまだ神官長の一人なのだ。魔術師との戦いで敗走すれば、それはラフィオンが遅れをとったのと同義なのだ。
「精霊術士の自尊心か── なんかすっかり忘れてたな」
痛む脇腹を手で押さえて、真人はその場に腰を下ろした。立っているがキツいという事もあるが、女の自尊心と精霊術士の自尊心では重さが違う。なら、何処に心配する要素がある。
真人はレイサッシュの勝ちを確信して、見る事を選んだのだ。
── ドジんなよ、レイ。
頼もしい相棒を見守り、真人はレイサッシュへの信頼を更に強く持ったのだった。