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真人の言葉に、里美は一回頷いて見せる。
「素直で結構」
暴力により相手の思考を奪う事は、真人にとっても決して本意ではない。酷く無様で格好が悪いとさえ思っている。それでも、この行為が二人を収める抑止力になると信じていた。
「んじゃ、時間を掛けるのも何だしずばりと云うが、アンタに顔無しは渡さない。ただ、悪魔喰いだけは回収させてやる。
出来るんだろ? そういう事も」
その質問に里美はしばし動きを止め、和奈を見ていたが、視線を外した直後に頷く。
「悪魔喰いを回収させてくれると云うなら、譲歩の余地はあるけどね。けど、先輩はそいつをどうするつもり?
キャチアンドリリースするなら、それこそ最低の行為だと思うけど」
先程の視線のやり取りで、こうして和奈が割り込むと決めたのだろう。確かに割り込む事を禁じた訳でもない。構うか構わないかは真人次第だった。
そして、真人が出した結論は、
「ま、俺の目の前で連れ去られて、何もしなかったというのが、精神衛生上良くないだけだからな。完全に俺の目の届かない所でなら、の垂れ死のうが知った事じゃない」
にべもなくそう云い切りながらも、
「だから、そうなりたくないなら俺の目の届く範囲に居ればいい。何をするのもソイツの自由だ」
「生きる場所を与えるか。少し甘くないですか先輩」
「俺に云わせれば、こっちで生きてきて簡単に殺せばいいって思考に至るお前の方が理解不能だよ」
「ふぅん、そんなもんですか…… で、アンタはどう考えてるの? 顔無し」
和奈なそう云った瞬間だった。顔無しは、ガバッと起き上がると、脇目も触れずセルディア側へと走り逃げる。
「チッ、この馬鹿がっ! 」
真人の提案はとりあえずとはいえ、顔無しの安全を保証するものだった。しかし、その安全を拒否し顔無しはこの場を逃げ出した。幾ら悪魔喰いを無くしたくないとしても、所詮は仮初めの力なのだ自分の命と比べるような価値はない。
だが、そんな当たり前の事も思い付かないほど、顔無しは自分の欲に負け、真人の庇護下にいられる権利を失った。
「これで、もう先輩がアイツを護る理由はなくなりましたね」
クスクスと下卑た笑みを浮かべる和奈に、何も云い返す事が出来ない真人。
「それでは、これからちょっと衝撃的な映像をお見せ致しましょう。心臓の弱い方はお控え下さい」
ショー染みた態で、和奈が大仰に一礼する。そして、その瞬間に逃げ出した顔無しが「ぎゃ」と小さく呻き立ち止まる。
「さあ、逃げ出した蝶は今再び罠に掛かりました。皆様、あちらをご覧下さい」
すぅ、と動く和奈の手に釣られ、全員の視線が顔無しに集まり── 凍り付いた。
「馬鹿なっ! 」
良雄が叫ぶ。
「な、何で…… 」
瑞穂が呆然と呟く。
今この瞬間までそこにいたはずの和奈が消え、顔無しの前に立ち右腕を口の中へ突っ込んでいた。
「うっ、おえっ…… 」
涙を流しながら嗚咽を洩らす。和奈の腕は、半分以上が顔無しの体内に収まり、周りで見ているだけで吐きそうになる。それにも関わらず、当の本人は薄ら笑いを浮かべながら楽しそうに更に奥へと押し込んでいく。
「苦しいわよね。ほんっ、と馬鹿なガキよねアンタ。雑魚は雑魚らしく、先輩の庇護下に居れば良かったのに、そうすれば今だけは苦しまずに済んだのに」
「お、おうっ、げっ、けっ…… 」
当然の如く、為す術なくされるがままの顔無し。
「こりゃあ、趣味が悪過ぎんぜ…… 」
我慢の限界とばかりに、ふらつく体を無理矢理起こす良雄。それに同意するかのように、瑞穂が歩を進める。
「貴方達は何をするつもりですか? 」
「そのグロい見世物を終わらせてやるよ」
「ふ〜ん、コイツ一人に勝てなかった貴方達が出来るのですかねぇ」
今は真人とレイサッシュがいる。そんな状況で、何を余裕をかましてやがる── そう思い良雄が真人を見ると、真人は里美を解放して冷めた目を顔無しに向けていた。
「なっ! 」
「お兄ちゃん…… 」
「うふっ、当然の反応です。先輩は一度、情けをかけたんですよ。それを考えなしに反故したのはコイツです。
味方なら二度貰えるかもしれないけど、敵に与えるなんて発想、どんだけ緩い頭をしていれば出てくるんでしょうね」
勝ち誇る和奈に、良雄と瑞穂は唇を噛み締める。そんな中、
「私もソイツには辛酸を舐めさせられているから、助ける気は更々ないんだけどね。けど── 何かムカつくヤツを倒した結果、救う事になるのは仕方ない事じゃない」
ふっ、と表情を緩ませてレイサッシュが真人にそう問い掛ける。
「そりぁ、お前がムカついているから、俺にぶち倒せって命令か? 」
「どう取るかなんて知らない。でも、立派な理由にはなるんじゃなくて」
難しい事を考えないで思うがまま動けばいい── と、レイサッシュは思う。しかし、真人がそうしないのは、護るべき相手の事を考えているからなのだ。
将たる者が好き勝手に動けば、被害を被るのは下の者になる。真人が顔無しを助ければその分、良雄や瑞穂を護る壁は薄くなる。だからこそ、真人は譲歩出来るギリギリのラインで交渉していたのだ。
そして、そのラインを越えてしまった以上、真人を動かすには理由が必要だった。その理由をレイサッシュは真人に与えたという訳なのだ。
「ナイス提案と思う事にする」
ふむと頷き。吹っ切れたというより、吹っ切ったように真人は笑う。
「…… あっ」
「瑞穂ちゃん? 」
「ううん、何でもない…… って、説得力ないか」
「まあ、そうかな」
一年の月日は瑞穂と良雄にしても、この程度の意思疏通を可能とした。だが、レイサッシュと真人の繋がりはこんなものでは、比べるのも烏滸がましいと瑞穂に思わせる。
レイサッシュは真人が望む事を尊重しすぐに行動に移した。そして、真人は変なプライドを持たずに、レイサッシュの提案を受け入れた。互いが互いを尊重しあっているから、そこには迷いがない。
それに比べて自分はどうだ。
十年以上、寝食住を共にしながら真人とそこまでの関係を作れていない。信頼関係が無い訳ではないが、どちらかといえば瑞穂が真人に依存しているのだった。
「お兄ちゃんとあの女、たった三ヶ月であの関係を築いたのよ。全く、嫌になる」
「負けを認めちゃう気か? 」
「冗談じゃないわ。絶対に認めまない」
「ですよね〜。けどさ、認めないのは負けだけでしょ」
それは人として、好敵手としてはレイサッシュを認めているのだろ? と、いう意味を持っている。
少くとも、レイサッシュが咄嗟に効かせた機転は真人を助け人として正しい。それが分からない瑞穂ではない。
「そんなの答えるまでもないでしょ」
だからこそ悔しさが募る。相手に認めさせる前に、自分が認めてしまったからだ。
実際にはそんな事はなくても、瑞穂は敗者の気持ちを味わっていた。
「うん、ならいいんだ」
その気持ちを汲んで、良雄はそう云う。
「良雄君。私、決めた」
「思う通りにしたらいいさ」
何を? とは聞かなくても分かる。そして、そうなったという事は、ここから先、良雄の選択次第でお役御免も有り得る。
── 俺はどうしたいんだ?
なし崩しに付き合ってきた今までとは違う。自分の意思一つで文字通り人生が大きく変わる決断…… すぐに決める事など出来やしない。それでも、決断しなければならないリミットは迫っている。
「けどさ、俺はすぐに答えられないよ」
「そんなの当然ね。だけど、忘れないでどんな決断をしても、私達は恨んだりしない。
それこそ、好きにすればいいよ── よ」
「そっか、じゃあ今は真人の本気を見てるとしょう」
やっていける自信に繋がるのか、はたまた自信喪失するのか…… 瑞穂と良雄は、和奈と睨み合う真人の邪魔にならないよう少し距離を開けたのだった。
「── そういう訳だ。そろそろ解放出来るんだろ? 」
「んっ、センパーイ。やっぱりアナタ詰まらない人ですね。ここからが面白いんじゃないですか」
嬉々としてそう云う和奈に賛同する者はいない。だが、
「神城、東雲の邪魔はさせないよ」
本意であるかなんて関係ないと、やっと呼吸が落ち着いた里美がそう放ち、その後ブツブツと呟く。
── 呪か。
里美の呟きが呪である事を理解して尚、真人はあっさり「無理だよ」と云う。
里美との戦闘力の差は、明白なだけに歯牙にも掛けない。真人は足に力を込めて跳んだ。だが、
「犬獣擬態」
「なっ! 」
先に跳んだ真人にあっさりと追い付き、お土産とばかりに里美は腹部に強烈な蹴りをぶち込んだ。
「ぐっ! 」
まさかの一撃だった。
真人のスピードを超える事も意外だが、たった一発の蹴りで動きを止められ、すぐに回復出来ないダメージを受けた。
── チッ、コイツは……
その場に踞り、脇腹に残るダメージを確認するが最悪と思っていたダメージを大きく超えているという真実だけがそこにある。
「うそっ! 」
最速の精霊である風精霊の精霊主を有する裕司を凌駕した真人のスピードを知るレイサッシュも驚きを隠せない。
真人が膝をつき見下ろされるという、有り得ないその光景を真っ白な頭でただ呆然と見ていた。
「神城、アンタらしくないミスだね」
「してやられたな…… まさか、藤さんが隠形系の使い手だったとはね」
「隠形系唯一の直接攻撃だよ。広範囲に撒き散らす派手さはなくても、使い処を間違わなければ見ての通り、アンタを超える事も可能。尤も、それは刹那な間だけどね」
その僅な時間を存分に活かした結果がこれだった。
顔無しに代表されるように、隠形系の基本はその身を隠す術にある。しかし、それは基本であって本質ではない。
隠形系の本質は操る事にある。そう真人に教えたのは、ライズ・クラインだ。
魔導を存分に扱う為に魔法の知識はなければならない。そう云って、基礎知識を真人に伝えたのだった。
── ったく、間抜けな話だ。
敵を舐めるという行為の愚かさを熟知して、この失態は頂けない。折角のレクチャーが産毛程にも役に立ってない。
「多少の手心はアンタの実力からいえば有りだと思う。けどね、敵の行動力を奪いきらずに標的を変えるのは、どうかと思うよ」
「返す言葉もねぇな」
「何度でも作れるであろう好機が仇になる典型。そして、私はもう二度とこんな好機は作れない。だからもう結果は変わらないのよ。
分かるでしょ? 」
それは100回の挑戦の内、10回チャンスが貰える者と1回しかチャンスを貰えない者との差だった。
当然10回チャンスを貰える者が実力上位となる。しかし、一回のチャンスに対する執着心は、1回しか貰えない者の方が遥かに大きい。そして、何より大きいのはチャンスの差など一回の成功で無いと同じという事なのだ。
アドバンテージが存在するのは、互いが失敗している時だけの仮初め、どちらかが成功した時点でアドバンテージ諸とも実力差もぶっ飛んでしまう。
先程までの真人は、成功をその手に掴みながら自ら放棄したのだが、チャンスが一度しかない里美が放棄する理由はない。
「つまり、必ず仕留めるって訳だ」
「ええ、その通りよ。サヨナラ神城」
里美が右腕を天に向けて掲げると、その腕の回りを六つ宝珠が飛び回る。
「熊獣擬態」
里美の言霊に赤の宝珠が輝きを以て応える。そして、その腕が降り下ろされたのだった。