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時刻は16時半を回ったところだった。真人は一人、廊下を歩き図書館に向かっていた。
真人達が通う学園は、それほど大規模とはいえないまでも、その地域を代表する進学校である。それ故、学力向上に役立つ図書館には、規模に見合わないぐらいに力を入れていた。
校舎外の建物に専任の司書を二人雇い、休日は一般人にも開放している。だから、休日にはそれなりの入館者がいるのだが、学園側の思惑とは裏腹に平日の利用者は少なかった。
この時間なら、人もいないだろ――
人が少ないと云う事は、対応が減る分だけ司書に余裕があると云う事だ。それならば、秀明が昼頃に返却した本の整理も終わっている可能性が高くなる。そんな目算を真人は持っていた。
「── 待ってよ~ 。お兄ちゃん! 」
HRが終わった後、真人は時間潰しがてら、しばらく教室で待っていたのだが、生徒会役員である瑞穂は戻ってこなかった。
これだけ待ったのだから後で文句も云わないだろうと、真人は教室を出てきた。そのすぐ後に瑞穂は戻ってきた。そして、教室に真人がいない事を知ると、走って追いかけて来たのだった。
ハアハアと息を弾ませて、瑞穂は真人を呼び止める。
「生徒会役員が廊下を走るなよ」
「そんな事云ったって、お兄ちゃんが置いていくのが悪いんじゃん」
「お前な…… ま、もういいか」
瑞穂が何を云っても、真人の云い分が正しい。それは分かっているのだが、感情を優先させる傾向がある瑞穂に、理詰めでいくと面倒になると真人は知っていた。
「そっ、どーせ誰も見てないしね」
「その発言はどうかと思うがな…… 」
「いいの、いいの、私とお兄ちゃんの仲じゃない」
(それこそ関係ないじゃないか…… )
適度にツッコまなければスネる。だが、ツッコみ過ぎればキレる…… 何年も一緒に暮らして、真人が身に付けた塩梅だった。只の友人関係なら、面倒臭いと感じるかもしれないが、家族であるならそれも悪くない。真人は笑いながら図書館に向かって、再び歩を進めたのだった。
「── んっ! 」
図書館の目の前まで来た時、真人は違和感を覚える。
「どうしたの? 」
真人とは違い、瑞穂は何も感じていないようだった。
「否、何でもない…… 」
その違和感は凄く小さいものだった。
だから、真人も気のせいだと思う事にした。だが、もし瑞穂が真人と同じように違和感を感じていたなら、この先に起こる事は回避出来たかも知れなかった。
キィ…… 入り口のドアから金切り音が鳴る。
これは…… 図書館の中に入ると、真人が感じた違和感が強くなる。そしてこうなると、瑞穂も何か変だと感じ始めていた。
「―― お兄ちゃん。これ…… 」
「ああ、お前は外に出てろ」
「で、でも、お兄ちゃんは? 」
瑞穂の問いに真人は考える。
この雰囲気は一言で云えば『異質』なのだ。危険なのかどうなのか判断がつかない。君子危うきに近寄らずを考えれば、瑞穂と共に引き返すのが正解だが、間違いなく中には人がいる── その人達の確認をしない訳にはいかない…… そう真人の思考は至ったのだった。
「とりあえず様子だけは確認してくる」
「じゃあ私も…… 」
着いていくと云う前に真人は、瑞穂を手で制した。
「瑞穂、この状況をどう思う? 」
「どうって…… 変としか…… 」
「だろ、変なんだよ。危険かどうかも分からない。だから、残ってほしいんだ。
── 5分かな? それで戻らなかったら、誰でもいいから呼んできてくれ」
平然と云われれば、瑞穂に返す言葉がない。どうでも良い事なら、瑞穂の希望を優先させる真人だが、稀にそれ許さない時があった。そして、今の顔は折れないときの顔だった。
「もし危なかったら、首を突っ込まずに必ず戻ってきてよ」
「俺はそんな無茶しないと自負してるぞ」
確かに真人は、無茶を仕出かすような性格ではない。寧ろ、その危険性が高いのは瑞穂だ。
それぞれのタイプを簡単に表せば── 緊急時でも、真人は『石橋を叩いて渡る』が、瑞穂に関しては『石橋を叩くのを忘れて渡る』一般人タイプといえる。
「そりぁ、分かってるけど…… 」
「大丈夫、様子を見るだけだよ。待機は飽くまでも保健だ」
瑞穂の頭をクシャと撫でて、真人は体の向きを変える。そして、そのまま真っ直ぐ歩き出した。
傍目で見れば不自然なところは何もない。だが、真人は必死に動揺を隠していた。
図書館に入る前から気付いていたように、真人の感性は鋭い。そして、その鋭い感性はこの異様な雰囲気の中にある悪意を確かに感じていた。
問題は、この悪意が誰に向けられたものなのかって事と、この異質の正体だな……
真人はなるべく音をたてないように、それでいて素早く移動した。
真人が自分で決めた猶予は5分なのだ。この図書館全部を見て回る必要があれば、簡単に過ぎてしまう。もっと余裕をもった時間設定をすれば良いと思われるが、予期せぬ事態が起こってしまっている場合、時間との闘いになる。それを見越しての時間設定だったのだ。
─── チッ! しまった。
書庫に繋がるドアの前まで来た時、真人は自分でミスをしていた事に気付く。
様子を見るなら、まず窓から確認すべきだろ。何やってんだ俺は……
いつもの真人なら、まず間違いなくその行動を取っていただろう。だが、悪意にあてられたのか、冷静ではいられなかったのだった。
(── 戻るか……。否、その時間で取り返しがつかなくなったら元もない)
歯車というものは、一旦外れると中々戻らない。これを負のスパイラルと云うのだが、今の真人に吹く風は向かい風であった。
意を決してドアをそっと開ける。そして中を覗き込むが、そこからでは何も見付ける事が出来ない。
(── 人の気配はない)
どんなに少なく見積もっても、司書が一人いるはずである。そして真人は、幼い頃から剣術の修業を積んできている分、気配を読む事に長けている。多少広い空間だとしても、気配を感じられないなんて有り得ない事だった。
(── と、いう事は気絶しているか。そうなると…… )
入り口付近で立っているだけでは、埒があかないと真人はカウンターに向かって行った。
人の気配がない事で、真人は少し落ちつきを取り戻していた。
真人にとって、最も怖いのは人の悪意だった。人の悪意がこの異質を創り出していたとすれば、それは現実の力だ。だから怖い…… しかし、超常現象であるなら、この異質を創り出してもおかしくない。理解出来ない恐怖はあったとしても、理解出来るようになればそれは恐くなくなる。
そして理解が出来た時、その悪意が自分に向けられたものなら、その時改めて怯えれば良い── 真人はそう考えていた。
原因究明をしている時間はない。だから、一人でも安否確認出来れば、真人はすぐに瑞穂の元に戻り助けを求めに行くつもりだった。
だが、あっさりとその計算は崩れる。
「─── っ! 」
気配はおろか、何もないところから手が伸びてきて、真人は足を掴まれる。
掴まれたのは足だが、その驚きに真人は心臓を鷲掴みにされたような気がした。
何だ、これ……
それは紛れもなく人の手だった。だが、真人はそれが何だか分からない。なまじ気配を探る事が出来る事で、その目に映る真実が信じられなくなっているのだ。
ただ、その足に掛かる圧力は現実にある。真人は混乱による恐怖で、生まれて初めて金縛りを体験したのだった。
冷静に、まず指一本動かせっ!
恐怖で身が竦むなら、元凶を忘れてしまえばいい―― 真人は指を動かす事だけに、全てを集中させた。
そして、その人指し指に神経が戻るとき、呪縛は解かれたのだった。
「よしっ! 」
人指し指が意志に応えて曲がる。
そんな当たり前の事に思わず声をあげる真人。すると、体の隅々まで血が届いたような感じがしたのだった。
何があるとしても、一度は確認しなければならない。恐怖に負けて逃げ出せば、この先も分からないという不安に苛まされるのだ。
真人は、指揮を取り戻した足にその場でしゃがむ様に指示を出した。そして、自分を掴んでいる手を掴み返した。
── 引っ張り出してやるっ!
掴んだ手を力一杯引っ張ると、その手には女性一人分程度の重みがあった。だが、相変わらずその手しか見えない。
真人の目に映っているのは、手だけが空中にプカプカ浮いているシュールな映像だった。
…… どういう事だ。
そこに体があると仮定して、手を空間に伸ばしてみると、見えないがそこには確かに体がある感触があった。
体が何かに包まれている── 光学迷彩か?
光学迷彩は体を透明にする技術だ。メタマテリアルを使う事によって、その技術は完成に近付いているとされているが、実用化されたという話は真人の耳に届いていなかった。否、それ以前の問題として、そんな最先端の技術がこんな高校で使われる訳がないのだ。そしてそれでは気配をまるで感じない説明にもならない。
真人は頭の中にある知識を総動員させるが、この現象を説明する知識を呼び出す事は出来なかった。ただ、記憶の根幹では引っ掛かるものがある。何かきっかけがあれば、その扉の鍵は開くような予感があった。
―― ダメだ。出てこない。
予感があっても、何が鍵になるのか分からない。そうなると、ここで立ち止まっていても仕方がないといえた。真人はさっと思考を切り替える。そして、姿が見えないその人間を抱き抱えると、出口に向かって行った。
ガチっ!
ついさっき大した力も掛けず開いたドアが開かない。
── 閉じ込められたっ!
この状態になって、ここにある悪意が自分に向けられたものだと真人は理解した。
もし真人もただ巻き込まれただけなら、既にこの手と同じ状態になっているだろう。更に真人が入った後にドアが開かなくなったという事は、間違いなく目的が達成されたからに他ならない。
「誰だか知らないが巻き込んじまった。すまないな…… 」
厳密に云えば、巻き込まれたのは真人も同じだ。謝る必要などないのかも知れないが、何となく謝らないといけない気がしたのだ。
そして、真人の謝罪がキーワードになったのか、その手が喋り出した。
「── ライズ=クライン…… 偽りの英雄」
その声は女性のものであったが、受ける印象は同年代の男のように感じていた。だがそれ以上に気になる事を手は云った。
「また、その名前かよ。── 人違いなんだがな」
「いいや、人違いじゃないぞ。その証拠に、お前はこの状況に何か心当りがある── 違うか? 」
「── 何者だ、お前」
真人はその手の中にある体が酷く不気味なものに思えて放り出したくなった。
─── だが、この声の主は別人のものだ。
「クックク…… いいぞ、その判断力。褒美に一つ教えてやるよ。この女を取り巻いているものの名前は〈魔香〉、魔族の魂だよ。
その昔、お前が飼っていたペットだ── 」
「訳分からん事をごちゃごちゃぬかすなよ── 俺は神城真人だ。魔香だかなんだかしらんが、んなもん飼っていた記憶なんかないな」
真人は精一杯の虚勢を張って云った。
声の主は真人の心を読めるようなので、無駄な抵抗ではあるのだが、それでも虚勢を張らなければ心が折れる気がしていたのだ。
「では、思い出せるように協力してやるよ」
その言葉が発せられると同時に、見えない体との接着点である両腕から不快感が沸き上がってきた。
それはじわじわと真人の体に侵入してくる。そして囁くのだ「体をよこせ」と…… 。
真人を襲う不快感が増すほど、見えない体がまるで霧が晴れるかのように見えるものとなる。
魔香が完全に真人に移り、視認出来るようになると制服に付いている一年の学年証が見えた。その娘はショートヘアで可愛らしい普通の女の子だったのだが、そこに深い追究できるほど真人に余裕はなかった。
―― この倦怠感は厄介だな。
気を抜くと女の子を落としそうになる。それだけは避けなければと思い、真人はゆっくりと床に寝かせた。魔香と呼ばれたものは、取り憑いた人間の精神力を喰らうらしく、長時間このままでは保ちそうもなかったからだ。
(中々、キツいだろう── )
今までは少女の口を借りていた声が、直接真人の頭に響いた。それは、その声が魔香を通じて発せられていた事を意味していた。
そして、魔香は真人の中にある。だから、その聞き慣れた声は真人にだけ聞こえたのだった。
「どんな冗談や手品── じゃないよな。何を考えて、何をしたのか…… 話してもらうぞ」
「随分余裕だな── 神城」
今度は頭の中だけに聞こえる声ではなかった。声はカウンターから聞こえる。
「何がしたいのかも、善意の欠片も感じない── でもまだ殺されるような事はないのだろ? 秀明」
カウンターを覆っていたカーテンが開かれる。すると、そこには秀明が椅子ではなく机に腰を下ろしている。
「温くないかその考え」
「お前を評価してるから至った考えさ。もし、お前が本気で人を殺そうとするなら、こんな簡単に尻尾を掴ませたりしないだろ。
だから今回の目的は、何かしらの宣戦布告といったところかな」
額に玉の汗を溜めながら真人が云うと、秀明は「クククッ」と笑う。そして、机から飛び降り真人に近寄り、頬に手を当てた。
「幾らお前でも、流石にキツいか」
「勝手に触るなよ…… 気色悪い」
「嫌なら逃げればいい── ま、もう動けないか」
秀明は、強者が弱者に向ける顔をしている。
「だが実際、良くまだ立っていられるものだ。魔香を体内に入れて自我を保てる人間は少ないんだぞ」
ペタペタと軽く頬を叩く。
「── 触るなよ」
「怖い顔するなよ。俺達は友達だろ」
「そりゃ、これからの返答次第だ。ここに居た人は全員無事なんだよな」
真人の顔色はどんどん悪くなっていく。だがそれに比例して、目付きは鋭さを増していった。
「そんな事か── つまらん心配をするなよ。お前は自分の事だけ考えていればいいんだ」
「へぇ、ツマラナイ事ねぇ…… 」
「そうさ、そこに寝ている女とお前の違いが分からないのか? 」
真人は秀明の云う意味を考える。
すぐに分かる違いは二つあった。
まず一つ目は── 気絶しているか否かという事だ。しかし、これは真人の精神力が一年の女子とは大きく違うという事。それが秀明の云う答えにはならないと思われた。
では二つ目はどうだろう── その違いは魔香が取り憑いていたとき、一年女子を視認出来なかった。だが、今取り憑かれている真人の目には自分の手足がはっきりと見えている。もしかすると、第三者には見えないのかもしれないが、真人にはそうは思えなかった。
気配すら完全に消す魔香だ。もし見えてないのであれば、俺の目にも映らないはずだ。
そして見えているなら、それは秀明の云う違いになる…… そこから導ける答えは──
「そうさ、魔香を体内に入れれば普通の人間ならすぐ壊れる。ただそれをすると、餌としては活きが悪くなるからな」
「それに生かしておけば、人質になる── か」
「否、もう大物は網に収まっている。人質なんていらないさ」
それは、後まな板に乗せれば全てが終わるという意味だった。そして、真人はそれが過言ではない事を理解している。
既に逃げるだけの力もない。それどころか一歩でも動けば、その膝は折れて立ち上がる事は出来なくなる。
参った── こうなると瑞穂に頼るしかないが、そこまで保たないかもしれない。
考えは秀明に筒抜けなのは分かっていたが、この程度の事は計算しているだろう。そんなに長い付き合いではなかったが、秀明の黎明さは真人も充分に理解していた。
「さて神城。ここからお前の選択肢は二つだ。何とかして魔香の呪縛から逃れるか、そのまま喰われるか── 選べよ」
「くっ! 」
呪縛から逃れる方法など、何も思い付かない。だが、真人は考える事を止めない。秀明が本気だと云う事が分かっていただけに、諦めたら本当の終わりが来る。
俺はまだ死ねない―― その一心で真人は考え続けたのだった。