12
「風精霊譲渡」
秀明が魔力弾を放ったと同時にその声は発声された。
酷くか細いその声は、秀明に集中して者には聞こえない。その声を聞いていたのはリズただ一人だった。しかし、
「レイ、土障壁だっ! 」
次の声は朗々と響き、時を止めていたレイサッシュを動かした。
「あ、土障壁っ! 」
瞬間、レイサッシュの頭の中から無理や無駄などのネガティブ思考はしかり、何故などの疑問すら浮かんでくる事もない。声の主がそう云うから、何も考えずに云われるがまま術を使った。ただし、攻撃対象になっているスティルではなく、自分を護り機動力の大半を失った信司に向けてだった。
何故なのかなどそれこそ疑問を挟む余地はない。恐らく最強の楯が、スティルを護っているのだから──
「── ったく、ダルいな」
全くやる気がない口調でスティルの前に立った真人は、迫る魔力弾をまるで目の前を飛ぶ虫を追い払うかのように手を振る。すると、恐ろしいものであったはずの魔力弾はシャボン玉の如くあっさりと弾け飛んだ。
「おおぉ~ 」
更に重ねてレイサッシュを驚かしたのは、その様に秀明が歓喜の吐息を洩らした事だった。
自分の力を然したる力も使わずにはね除けられたのだ。普通なら怒るか、驚き畏縮するかの反応をするはずが、その場面にそぐわない悦びの表情を浮かべている。
「我らの王が戻った── 」
「王? 誰の事だそりゃあ── 少なくとも俺はそんな地位に興味はねえな。これはお前にも云ったはずだよな、グラム」
「その名を思い出した以上、どんなに拒否してもお前は地の民の王、クライム・クラインなんだよ」
「全部思い出した訳じゃないからまだセーフだろ。
── しかし、なんだな、お前は邪魔だ」
ゆったりと左右に体を振る真人。そして、次の瞬間、秀明の顔が苦痛に歪んだ。
「ぐほっ! 」
体をくの字に折りそのまま前に倒れるが、それを真人が支えた。
「えっ…… 一体何が起こったの?」
「何て事はないよ。ただ真人が真っ直ぐに飛び込んで、一発殴っただけだ。── 多分な」
レイサッシュの疑問に信司は額に汗を浮かべながらそう答えた。
一応の答えは出したものの、実のところ信司の目にも真人の動きが見えた訳ではない。ただ今この場で起きた状況を見てそう結論せざるを得なかっただけなのだ。
速度に自信を持っている自分が捉えられない速度。それがどれほどの事なのか、一番理解しているのは信司だった。
── さて、これを見せられたアイツの心境は穏やかじゃないだろうな。
どう動くか見せてもらうぞ、精霊主使い。
四元素の精霊で、風は速度に特化している。
その精霊のトップと契約をしている者が、スピード負けをしたのなら自尊心が傷つかない訳がない。そして、信司の予想通り裕司は真人を秀明の横で睨みつけていた。
「悪魔喰いを使ってこの程度、そうなった理由は後で聞かせてもらうがな。
今は── アイツとの決着の為に少し大人しくしてくれや」
「かはっ、はっは、はっ…… 」
倒れる寸前の秀明の顔を肩で受け止めている為、ほぼゼロ距離での会話になっているが、肺の中の空気を吐き出して苦しむ秀明はそれ処ではない様子だった。
「それ処じゃねえか── なら」
トンっ! と秀明の体を離し、首筋へ手刀を叩き込む。
「がっ! 」
この一撃で呼吸困難という苦しみから、秀明は逃れる事は出来た。が、同時に意識と支えを無くし、地面に倒れ込んだ。
「これで5分は稼げたかな」
「何故、殺さねぇんだ? まさか、まだ友達とか殺すのは嫌だなんて甘い事ぬかすつもりじゃねえだろうな」
「── フッ」
裕司の問いを鼻で笑い飛ばす。
「馬鹿か、そんな淡い期待をしてんじゃねえぞ。コイツは俺の目の前でスティルを殺した。そんなヤツに掛ける情けなんぞ持ってねぇよ」
そう云い切る真人は、冷徹にして冷酷な表情をしている。
「嘘ではないみたいだな」
「当たり前だ。コイツを殺さない理由は、俺の相棒が残した負の遺産を回収しなきゃならねえからだ。それと── お前こそ甘い考えは捨てろよ。そうでないと5分保たないぜ」
「── ! 俺に── 俺に向かって云ってやかるのかっ! 」
無限軌道から変わった力関係が、現時点を以てまた変わった。
あの時、真人が味わった感覚を今度は裕司が味わおうとしている。
「目を見て話してるだろ。お前以外に誰がいるっていうんだ? 」
「ふざけるなよっ! 魔導師風情がっ! 」
「ふざけてないさ。俺がこんな冗談を云うタイプか知らない仲じゃないだろ。
もう今のお前じゃ、俺には勝てない。だから、碌に意思疏通出来ない精霊を呼び出して力の垂れ流しをしてんじゃねーよって、忠告してるだけだ」
精霊を召喚する為に必要なものは、精霊自身が持つ能力が具現化出来るレベルにあるかどうかになる。つまり、そこに術者との同調率は関係ない。高い能力を持つ精霊であれば、術者の意思一つで顕現するのだった。
嘗てスティルに召喚されたフレイヤのように、そこに精霊の意思はなく「還れ」と命じられるまで戻る事も出来ない。だからこそ、精霊の本音を術者が汲み取る意思疏通が必須になるのだ。
「お前も分かってるんだろう。どれだけ自分が弱くなったのか、今のお前は純粋な精霊術士としては並程度。それで、力の半分取り戻した俺にどう対抗するつもりだ? 」
「どうするだと…… そんなのは」
体を震わしながら、裕司は拳をぐっと握り締めるが、その悔しさを呑み込み口を開いた。
「ジン、戻れ」
「良いのかライズ? 」
「今は攻撃力より速度を上げるべきだ。ムカつくがあの速度についていくにはアレしかない」
「── 分かった」
裕司の意図を悟り、ジンは素直にその姿を消す。そして、
『風精霊譲渡』
真人と裕司の声がハモった。
全く同じの高位精霊術── 低級精霊なら決して使う事の出来ない、術者に神速を与える術である。
風使いにとって、この術を使う事はステータスになる。それほどの術だけに、裕司にとって真人がこの術を使う事を気分良く受け入れる事が出来ない。
「お前如きがこの術を使うな」
「知るかボケっ! だが、これでどっちが強いか分かり易くなっただろ」
同じ術で現れる差は、そのまま力量差になる。どれだけその術に精通しているのか、一目瞭然になるからだ。
「俺が精霊術で負けるはずがないっ! 」
裕司は声を荒らげ、小細工なしの真っ向勝負に打って出る。しかし、真っ向勝負に出た時点で裕司の負けは確定した。
「ばーか」
裕司が放った拳を掴み、捻りながら投げる。すると、裕司の体は宙を舞い、受け身もなしで地面に叩き付けられた。
「ぐはっ! 」
嗚咽を洩らしながらも裕司は体を起こし、真人の姿を確認する為に視線を走らせるのだが……
── 居ないっ! 何処だっ!
風精霊譲渡は、術の恩恵が高過ぎるのが欠点であり、その為、直線的な動きしか出来ないというのが、裕司の知る常識だった。故に真人の姿が見えないのは上に飛んだか、左右に大きく跳んだかの何れかだと思い込んでしまった。だから、どんなに視線を走らせても真人の姿は見つける事は出来ない。
「自分に出来ないからって、他人も出来ないと考えるのは怠慢だぜ」
真人の声は裕司の背中から発せられた。
「ばか── なっ! 」
叫びをあげながら振り向こうとした瞬間、裕司の視界に真人の脚が見えた。そのまま、激しい衝撃が顔を貫き、裕司の体は横に吹き飛んだのだった。
「ぐはっ! 」
真人の蹴りをまともに受けて、裕司は放物線を描く事なくその体を地面に叩き付けられた。
「俺の全てを乗せた蹴りだ。重い一撃だろ裕司」
そう云う真人の台詞は、白眼を剥いて動かなくなっている裕司の耳には届いていない。それを確認した事によって、真人は自分の勝ちを認識した。
「ふぅ~ 、取り敢えず終わりでいいか? 」
真人が一息入れながらそう云うが、説いた相手はレイサッシュでも、信司でも、リズでもない。ましてや、まだ意識か戻っていないスティルでもなく、秀明に対してだった。
「裕司に止めを刺そうとするなら、一撃入れようと思ってたんだがな── 少し残念だよ」
「一撃入れて、そのまま一人でとんずらか? 相も変わらず下衆な思考だな」
「今の俺らでは勝ち目がない。── そう考えれば、戦略的撤退としては良策だと思うのだがな。
ま、ただお前が限界というなら話は別だ。態々、使える手駒を減らす必要はない。
脚、震えてるぞクライム」
秀明は目敏く、真人の脚が微妙に痙攣しているのを見逃さなかった。
「ケッ、よく見てやがるもんだな」
「お前が俺を殺らなかった時点で、この結果は見えてたけどな。俺が持つ魔石〈悪魔喰い〉の回収なんて態のいい建前なんだろ? 」
「…… 」
「沈黙は肯定と同じだぞ」
真人のお株を奪う発言だった。
だが、それでも真人は口を開かずに、ただ秀明の顔を睨みつけている。
「まあ安心しろよ。お前が俺を殺せないとか甘くみている訳じゃない。ただ── 」
「ただ、何だって云う気だ? 」
「あの時、俺を本気で殺す事は出来なかっただけだよな」
全てを読み切ったとばかりに、秀明は嘲笑を浮かべながら言葉を続ける。
「もしあの時、本気でお前が殺気を向けていたら、俺は裕司と共闘を選んでいた。だがそれじゃあ、困った事になる。
それは、負けないまでも共倒れになる可能性があるからだ。それくらい余裕がなかったんだよな? だから、お前は本気で俺を殺さないように殺気を抑えていた。そうすれば、それに気付いた俺が様子をみる事が分かっていたからだ。
── なあなあなあ、そうだろ」
「その喋り方だと馬鹿に見えるぜ。それに見抜いてましたと自慢気にしているが、俺にしてみれば下衆なお前なら、自分が助かる為なら乗ってくると悪い意味で信じてたからだ。
信用に応えてくれた事だけは感謝してやるよ」
「その報酬が今回はこれまでという事か」
「お前が欲張らないのならな」
真人は、薄ら笑いを浮かべ続ける秀明に、分かりきった答えを求めた。
もし、秀明が知性の欠片もなく、この状況だけで勝てると続行を望めば、それは泥沼化するだけなのだ。
秀明の攻撃は真人には効かず、今の真人は自在に動けるほど余力はない。互いに決め手のないまま不毛な削り合いを続けるだけになる。そんな争いの先にあるのは共倒れだけなのだから、秀明がそれを選択する事など有り得ない話だった。
「珍しいものを見て、使える手駒を失わず、何よりお前が我が元へ戻ってくるに相応しい力を取り戻した。── これ以上ない報酬だね」
「否、俺がお前の元へ行く事はねえさ。
俺はお前が大嫌いだ。次に会う事があれば、確実にその首の骨を叩き折ってやる。だから、先に云っておくぞ、何を考えてバラしたのかは知らんが、今度までに悪魔喰いを集めておけよ。
次は別に揃ってなくても遠慮はしねえ」
次は殺す──
その意を籠めた視線が秀明を貫いた。だが、秀明は笑って受け流す。
「お前は必ず手に入れる。どんな手を使っても、な」
全く警戒する事なく、秀明は真人に背中を見せて裕司の元へ向かった。
「一度の裏切りじゃ、懲りないようだなお前は」
「裏切りを視野に入れない参謀に価値はない。その裏切りすら意のままにする。それが俺だ」
「目的を達成する為の経緯は問題じゃない。達成したか否かが問題、か」
「お前がそう俺に教えた事だよ」
云いながら、秀明は裕司を担ぎ上げ東の終焉へ向かう。
そして、その過程で一度だけ振り向くと、
「次に俺達が会うとしたら一年後だ。それまでにお前の考えが変わっていれば良し、変わっていなければ宣言を行使する」
「一年? 」
その期間が何を意味するのか真人は考える。しかし、その答えは出ない。
「風の道だよ、マサト」
「! 」
求めた答えを出したのは、何とか復活をしたスティルだった。
スティルは上半身だけを起こし真人を見ている。
「それじゃあ、またな」
視線をスティルに向けた時に、秀明はそのまま下へ身を預け姿を消したのだった。
「ま、待て── よ…… 」
手を伸ばしかけ走り寄ろうとするが、既に一切の気配はなく意味のない行動をする事は止めた。そして、
「帰るか」
と、振り向きながら笑った。
「だな。ただ── 」
真人の顔を見て、その緊張を解いた信司が云う。
「真人、おぶれーっ! 俺は一歩も動けん」
「いや、まてまて…… 俺もムリ…… 」
へろへろとその場にヘタリ込む信司に、自分も限界なのを思い出した真人もバランスを崩して、背中から大地に倒れる。
「ま、マサトっ! 」
受け身も取らず倒れた真人に、走り寄るレイサッシュ。そして、倒れたままの真人の顔を見ると、呆れた顔をして「寝てる」と呟いた。
◆
「よく戻ってきたな」
全てが闇で包まれている夢の空間で、ルゼルの声だけが響いてきた。
「本気でヤバかったぞ。あの悪意の塊みたいな思考はお前か? 」
「馬鹿云え、そんな小さな魔王がいると思ってるのか」
「だよな…… 」
意識が戻った時、真人を待っていたものは、体の痛みと不快な映像を脳裏に映した幻覚。そして、委ねれば楽になるという甘美な幻聴による誘惑だった。
「とすると、あそこで踏ん張れなかったら── 」
「欲望だけで動く本能が主人格になっていた。そして、そうなればあそこで見た幻覚は現実になっていただろうな」
笑いながら、目に映る生ある者を次々と殺していく自分── あの時、見た幻覚を思い出すと身震いする。
「恐ろしい賭けだったんだな」
「リスクが大きければその分見返りも大きい、賭け事の大原則だろ。
── そのリスクに見合う配当はあったはずさ」
「もう身の丈合わない賭けはこりごりだよ」
だから、賭けに身を投じないでもよい力を手に入れなくてはならない── 今のままでは、到底足りない事は真人にも分かっている。
「なあ、ルゼル」
「んっ 」
「俺はどの位強くなれば、秀明を止められるんだ? 」
「さあ? ただ〈悪魔喰い〉が完全なものなら、今回の勝ちはなかっただろうな。
アレも一応、魔王の欠片だ。出涸らしの上、更にそこからはみ出した力じゃ、太刀打ちは出来ない」
「だよな。やっぱ、あと半分手に入れなきゃならないか」
それこそ賭けになるんだがな── と、真人は苦笑せざるを得なかった。そして、戻った記憶の一部で知った力が眠る場所…… それが戻るべき場所な事に運命を感じていた。
「思ったより早い帰還になったな。ところで── お前は一体何者になる気だ? 」
「は? 」
ルゼルの言葉の意味を把握出来ずに、真人は間抜けな声を上げる。
「ライズ・クラインとクライム・クライン── どちらもお前だ。お前は何になりたいと聞いている」
「── そう云う事か…… 」
実のところ、真人にとってそんな名前などどうでも良い事だった。だが、そうではない者が多数存在するのだ。ラフィオンに住む者ならライズの名前に個人差はあれ期待を抱く、そして裕司にとっては奪われた忌むべき名前になる。
そんな名前を仮の名前だからといって、気軽に使い続ける気にはなれない。
だったらクライムとすれば、今度はラフィオンの民にとって忌むべきものになり、秀明を喜ばせる名前となり使いたいとは思わない。
「真人でいいなら気が楽なんだが…… 」
「俺やこちらの人間が、真人なる人間に期待する事はない」
「だよな」
真人という人間を知るスティルやレイサッシュなら、名前など然したる問題ではないのだろうが全体をみればルゼルの云う通りなのだ。そして、誰よりルゼル自身が真人の名に期待をしていない。否、というよりルゼルが望む名前がライズかクライムなのだろう。
「だったら── クラインでいいよ」
「んっ? どういう事だ? 」
「ライズもクライムも面倒くせぇ、だったら共通してるラストネームだけでいい。
なんなら二つ重ねてもいい」
「クライン・クラインか、あまり語呂は良くないな」
悪態をつくルゼルに、真人は「五月蝿ぇ、だからクラインだけでいいんだよ」と、笑って云った。
「ま、そんな所で手を打つとするか」
「そうしとけ── 宜しく頼むわ、ルゼル」
「見捨てるられる可能性だけは取り敢えず回避したな、クライン」
何処と無く回りの空気が緩む。そんな雰囲気に充てられたのか真人は眠気を感じた。
「悪ぃ、なんか…… ねむ、く── 」
抵抗を許さない眠気に負け、遠退く意識。僅に残った視界には信じられないほど優しい瞳で真人を見守るルゼルが映った。
── 夢だな、こりゃ……
そうして、真人の意識は完全に無の世界に落ちていったのだった。