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穏やかな風が神城 真人の顔を凪いでいく。
――気持ちいい風だ。
その優しい風は、懐かさを含んでいるようで真人の心を癒してくれる。だが、
――ここは一体?
辺りは森の中の様で、見えるものは様々な種類の木だけだった。
――何か見たことあるような場所だな。
確かにそう思うのだが、では「何処だ? 」と問われると、真人に答える事は出来ない。そして、これが一番の問題なのだが、何故ここに居るのかすら、真人には分からないでいた。
これは夢ではないのかとも思ったのだか、肌に感じる風がやたらリアル過ぎた所為で、真人からその説は排除された。また、記憶喪失説も考えたのだか、
(名前、性別、年齢、家族構成…… 問題なしだな。それに昨日の記憶もある。もっとも本当に昨日なのかは証明出来ないけどな)
つまり、分からないのは、いつここに来て、ここは何処かと云う2点だけなのだから、記憶喪失説も薄いと判断出来た。
明らかに不自然なこの状況だが、真人には焦りの色はあまりない。と、云うより全く焦っていない。もっとも、普段の真人を知る者なら格別おかしい事ではなく、口を揃えてこう云うだろう「神城 真人が焦る事なんてあるの? 」と。
だからと云って、神城 真人が笑わない無表情男であるとか、感情の一切をなくした人形の様だと云う訳でもない。彼はにこやかに笑うし、怒りもする人間だ。それでも彼が焦ったところを、皆見たことがないのだ。
「── ふむ、どうするべきだろう? 」
真人は一人呟き思案する。論点は二つ…… この場に留まり救助を待つか、詳しい情報を求めて散策するかである。
――当然、後者だな。
真人は迷わず選択する。通常の遭難であれば、その場を動かずに、救助を待つのが定石であるのだが、今回は通常の遭難とは思えなく、救助が来る可能性は低いと考えたのだ。
(こっちへ…… )
先へ進むと決めた時に、真人の耳に声が聞こえたような気がした。それは、風の音だったのかもしれない。だが、進むべき道が見えない以上、進んでみるべきだろうと真人は考えたのだった。
獣道を5分程度歩いただろうか、真人の視界がひらける。見える先にまだ森が続いているところを見ると、ドーナツの真ん中のようにポツンと拓けた場所の様だった。そして、そこには人が3人ぐらいなら座れるような岩がある。
あの岩── やっぱり……
真人の中に、やはりこの場所を知っていると云う思いが強くなる。それはデジャヴュかも知れない。だが、確信に近いものを感じていた。
もっと近くで見てみよう。
ゆっくりと岩に向かって、真人は歩みを進める。もしかしたら、自分のいる場所が分かるかも知れない状況なのだ。普通なら走り寄って行きそうなものだが、こんな時でもゆっくり歩くのも真人らしいと云えるのだった。
「ライズ…… お久しぶりね」
岩に辿り着くと、そこには一人の少女が腰を下ろしていた。
その少女は真人が見惚れる程、美しかった。金色のストレートヘアは、腰までの長さがあり風に揺れている。そして、大きな瞳は碧眼で神秘的な美しさをもっている。その他、一つ一つのパーツもバランスがとれていて、それがその少女の魅力を引き出していた。
――この子、美沙さんにそっくりだ。
真人はその少女を見て、自分の母親代わりの女性を思い浮かべた。髪の色や年齢など違いはあるが、自分が憧れる女性とそっくりの少女から、目を離す事が出来なくなっている。
「ライズ…… ? 」
少女は自分の事を見て動かなくなっている、真人に向かって再度呼び掛けた。
「あ、それ人違いですよ。俺は神城真人」
「かみしろまさと? 」
「そ、でも奇遇ですね。俺もアナタにそっくりな人知ってるんで、互いの知り合いがそっくりなんて…… 」
偶然も重なれば必然になる。真人はこの出会いを、偶然で片付けて良いものなのか判断に迷っていた。
「そっか、まだ時は満ちてないのね」
少女は納得したように微笑むと、その姿を霞のように四散させていく。
「えっ? 一寸…… 」
その時の真人の思考は、『少女だけ納得してずるい』だった。元々、居なかった様に存在を薄くしていく事には、そんなものだと受け入れていた。
「消える前に名前だけでもいいかな? 」
「── シリア…… また会いましょうライズ…… 」
最後までシリアにとって、真人はライズのままだった。だが、また会いましょうと云ったのだから、また会えた時に訂正すればいい。真人はそんな風に考えた。
「てか、そんな事より、ここは何処なんだ……? 」
最も重要な事を聞き忘れていた事に、気付いた真人は誰も居ない森の中で呆然と呟いたのだった。
急に体が重くなり、真人は息苦しさを感じていた。
「お兄ちゃん、起きろ~ 」
不自然さを感じていた真人に、共に暮らす〈結城 瑞穂 〉の声が聞こえてくる。
あ、そう云う事か……
そうして、思考がクリアになっていくと、真人は自分が寝ていた事をはっきりと自覚した。
考えてみれば当然の事だった。
前日の夜に、ベットに入るところまでしっかり記憶があり、何を忘れているのかすら分からない。そんな状況で見知らぬ場所へいきなりいるのだから、考えられるのは夢しかない。
肌に感じる風が余りにもリアル感が有りすぎて、夢ではないと思い込んでしまった。
――うむ、これは何だか恥ずかしいな……
一番有り得る結論をさっさと、排除して劇的な状況を考えていたのは、自分にそう云う願望があったからだと真人は思う。別段、現実主義者とは思ってなかったが、夢で空想世界をみるようなタイプでもないと思っていただけに、人には話せる事じゃないなと、心の底から思っていた。
「── ぐふっ! 」
突然強まる息苦しさ……。 否、寧ろ体内の酸素を全て絞り出されているような感じがした。
意識はだいぶ戻っていたが、まだ目を開けるまで覚醒していなかった真人は、その衝撃に痛恨のミスをしていたと思い知ったのだ。
「いつまで、寝てるのかな~」
体に感じていた重みは、瑞穂が真人の上に乗っていたからである。それを真人が無視していたものだから、痺れを切らした瑞穂は、そのまま上へ跳び跳ねた。
幾ら瑞穂が十代の女の子で、それなりに美に気を使っているとしても、それなりの体重がある。
その体重が全て、無防備な真人の腹部を直撃したのだから、その衝撃は計り知れない。
「── げふ、げふ、げふっ! 」
「起きた? おはよう」
「ごふっ、にこやかに云ってる場合か…… 」
肩の辺りで切り揃えられた髪を揺らし、大きな瞳を輝かせている瑞穂。だが流石にこの目覚めは気分が悪い。真人はムッとして睨みつけた。
「だって、起きないお兄ちゃんが悪いんだよ」
「瑞穂── 」
悪びれない瑞穂に向かって真人は、時計を指差した。
「後30分は余裕あるよな。何故に緊急対策用の起し方をここで使う」
「だって朝ごはん…… 」
「朝からこんなダメージ食らったら、どっちにしても食えん」
微妙に吐き気すら覚えていたので、真人の言葉に偽りはない。激怒まではいかないが、本気で不機嫌になっている様子を見て、瑞穂は少し気後れしていたが、ここで素直に謝れるほど大人ではなかった。
「ふ、ふん、いつも起きてる時間に起きて来ない方が悪いんだよ」
「── ったく、ガキだな」
「何よ、同い年じゃない」
瑞穂は真人の事を兄と呼ぶ。だから、真人は年下のように扱ってしまう。子供扱いされたくなければ、そのようにすればいいのに、子供の頃から瑞穂の態度は変わる事がなかった。
「一寸、仲が良いのはいいけど、いい加減にしないと、遅刻するわよ」
瑞穂の実母である〈結城 美沙〉が、いつまで経っても降りてこない二人を迎えにやってきた。
「お母さん、お兄ちゃんが…… 」
「分かったから、ホラ早くね」
にこやかに優しく瑞穂を諭す美沙。瑞穂も美沙の云う事には逆らわず、本当に仲が良い母娘だった。
外見こそ、似てなくもないと云う二人だが、二人共美人に分類される事は間違いない容姿をもっている。
「うん、分かった」
瑞穂はそう云って階段を降りて行く。残った美沙は、ゆっくりと真人に近付いて額に手を当てた。
「真人君が起きて来ないなんて珍しいわね。体調でも悪いの? 」
「あっ…… !」
さっきまで見ていた夢に、美沙の若い頃を彷彿させる女の子を見ていた真人は、顔を近付けられると心臓が跳ね上がる思いだった。
「い、否、平気です。一寸、夢見が良かったもので、寝坊してしまいました」
普段取り乱す事がない真人も、美沙の前だけは普通の高校生になってしまう。一方、美沙はこう云う真人を何度も見ているので、珍しい事だと思わない。
「そ、なら良かったわ。じゃ早く降りてきて、今日の朝ごはんはあの娘が作ったのよ。食べてあげてね」
(なるほど、そう云う事か)
瑞穂が必用に起こそうとしていた理由を知り、真人は笑みを浮かべる。そうならそうだと云えば良いのに、それを云えないのが瑞穂らしいと思ったのだ。
瑞穂と美沙が、この家に来たのは10年前、真人が8歳の時だった。6歳の時に母親を亡くし、その後2年間は父親と二人暮らしだったが、家を空ける事の多い父親は、真人との二人暮らしに限界を感じ始めていた。そこで、やはり事故で旦那を亡くし瑞穂と二人暮らしをしていた美沙に声を掛けたのが、きっかけだった。
元々、美沙と真人の両親は知り合いだった為、この話はすんなり纏まり現在に至る。そして以降、真人の父親は美沙に全てを任せて、家に殆ど戻らなくなった。だが、それからの真人の生活は充実したものになった。
10年の時を経た今、父親に一番感謝しているのは、この時の決断だったと云う事は、真人の中だけの秘密であった。
「分かりました。用意したらすぐに行きますね」
「お願いね」
美沙が部屋を出ていくと、真人はベットから出て着替える。男の準備など、よほどお洒落に気を使っている者でなければ、数分で終わるのだ。
階段を降りて、顔を洗い、寝癖を直して終了。そのままリビングへ向かう。
「あ、お兄ちゃん! 」
先程の事など無かったかの様に、楽しそうに朝食の準備をしている瑞穂。美沙は自分の席に座り、瑞穂の様子を眺めていた。
「よっ、飯の準備してくれてたんだってな」
「うん、たまたま早起き出来たからね」
会話を聞いていた美沙はクスクス笑っている。その様子から、前日から瑞穂が意気揚々と準備していた事が分かる。
「そっか、ありがとな」
「う、うん。お兄ちゃんゴメンね。朝ごはん食べてもらえるかな? 」
「ばぁーか、食べるからこうして、降りてきたんだろ」
さっき受けたダメージなど、すでに何処かに飛んでいた。真人は瑞穂の頭をクシャと撫でると、自分の席についた。
「美沙さん、改めておはようございます」
「あら、そう云えば…… うふふ、おはよう」
コーヒーを啜りながら、美沙はいつものように楽しそうにしている。美沙の笑顔は、真人が10年間見続けてきたもので、これ以外の顔を真人は知らない。
(やっぱり癒されるわ)
真人がそんな風に和んでいると、準備を逐えた瑞穂が戻ってくる。
「お待たせ~」
メニューは和食だった。
白飯、味噌汁、目玉焼きに納豆。ごく一般的な朝食だが、瑞穂が一生懸命作ったものだ。
美沙と真人は、何も云わずに箸を手に持った。
「うん、上手に出来てるわね」
美沙が味噌汁を啜って一言云うと、真人がそれに続く、
「お、旨いな」
「えへへ、やった~」
二人からお褒めの言葉を貰い、満面の笑みを瑞穂は見せる。
何処にでもある普通の団欒、真人が6歳の時に失った幸せを、瑞穂と美沙は再び運んでくれた。少々酷い話になるが、真人にとって滅多に姿を現さない父親より、この二人の方が家族だった。
いつまでもこの様な暮らしは続かない。それは理解していた真人だが、少しでも長くと願ってしまう。
だが、真人の幸せは終わろとしていた。
真人が見た夢…… あれは事の始まりだった。巻き込まれるべくして、真人は渦中に足を踏み入れたのだ。しかし、真人も瑞穂もまだその事に気づいていない。そして、幸せそうな二人の子供を見ながら、美沙の笑顔に陰が射していた事にも気付けなかったのだった。