静かなる森へ
遠い昔。まだ人間が自然の機嫌を伺っていた頃。
美しい狼に姿を変える種族が生まれた。
人と狼とを自由に行き来し、風と共に生きる者たちは、畏怖を込めて人狼と呼ばれた。
人と自然と共に生きていた我々は、いつしか異端として人に追われるようになった。
彼らは人を見限り、小さな村を作って暮らすことにした。
その時、同じ毛色のものたちに分かれていった。
毛並みが黄金色のものは金狼と呼ばれ、白銀色のものは銀狼に。
だが人間達は我々を放っておいてはくれなかった。
我々の強い身体能力や不思議な力が脅威だったからだ。
数で勝る人族に、我々は屈してしまうかと思われた、その時。
美しい金の髪に金の瞳を持つ姫が現れて、我々を守り、導いた。
強い魔力と予言の力を持つ姫巫女たる金の姫は、追われて惑う人狼達を逃がし、人族には制裁を加えた。
金の姫の怒りを買うものは、必ずや
紅蓮の炎に焼かれるであろう…。
「このお話って、どうなんですか?本当にあったことなんですか?」
床が見えなくなるほど積み上げられた本を棚に戻しながら、佳奈がシイロに聞く。
シイロも同じく棚に戻しながら、
「さて、どうなんでしょうね?一応伝説というか、あったかもしれない話とは聞いていますが。」
分からないことの方が多いんですよ、と苦笑する。
「この通りだとしたら、金の姫は人間と戦ったってことなんですよね?」
「えぇ、そうなりますね。ですが、他の地域の話では同族同士の争いだったとする説もあるそうです。」
「えっ、それだとまた全然違う話になりますよね?」
「そうなんですよ、だからこそ調べがいがあるんですが…。」
ちょっと没頭し過ぎましたね、と頭をかく。
色々な文献を調べているうちに、床を埋め尽くすほど書物を積み上げて没頭し、食事の時間にも顔を出さない村長を心配して佳奈がやってきて今に至る。
本を読み出すとついつい止まらなくなって寝食を忘れ、よくスミにも怒られているらしい。
「あの、シイロ様ごめんなさい。ここまで調べなきゃならなくなったのって、私のせいですよね…。」
「気にすることはありませんよ、カナさん。
こういう文献や伝承を調べるのは私の役目でもあり趣味でもありますし、何より貴方を村に呼び寄せたのは私なのですから。」
責任は全て私にあります、と穏やかに微笑んで佳奈の肩をたたく。佳奈の表情は少し曇ったままだ。
「そういえば、聞きましたよ。最近ジーンと仲良くなったそうですね。」
この話題は終わり、とばかりに明るい口調でシイロが話を振る。
その優しさに感謝しつつ、佳奈はつい首をかしげる。
「えーっと、お昼は一緒に食べてますが、仲良くなったかどうかは、ちょっと…。ジーンさんあんまり喋る人じゃないし…。」
やっぱり迷惑に思ってるかも…と、また別の心配が芽生えた佳奈を見て、思わずシイロの口元が緩む。
「そんなことありませんよ。あのジーンが、誰かと食事を摂るなんて快挙ですよ。スミさんも感心してました。」
「えっ、そんな、特に変わったことは何も…。」
「ジーンはあの仏頂面だし腕も立つので、恐ろしいと思われがちですが、本当はとても仲間思いの優しい人なんです。どうかこれからもよろしくお願いしますね。」
「そんな、私の方こそ…!」
二人ともかしこまって頭を下げたところで、ふとおかしさがこみ上げて来て笑いだした。
当事者不在でこれは変だろう。
「さて、片付けは一先ずこのぐらいにして、朝ご飯を食べに行きましょうか。これ以上遅くなると、本格的にスミさんに怒られてしまいそうですから。」
「そうですね、スミさん怒るとものすごく怖いですから。」
そうして、笑いながら佳奈とシイロは村の中心へと歩きだした。
銀狼の村の朝は早い。
まだ夜も明けきらないうちから起き出して動き始める。
男達は森へ狩りや食料採集に。
女性陣は食事の支度や家事を引き受ける。
ただ最近は金の王を警戒して、出来るだけ男手を村にも残すようにしているらしい。
夜の見張りも増やし、女性陣や子供は外に出ないように、と言われている。
もちろん、佳奈も村へ来てからは外へ出たことはない。
今最も危険なのは佳奈だ。
本来なら女性も森へ出て、果物や薬に使える植物を採ってきたりしていたらしい。
それらも今は男性が採ってきてくれているらしいが、あいつらは扱いが雑で困るよ、とスミがこぼしていた。
佳奈もスミの手伝いをして食事の準備をしたり、鶏の世話をしたりして割と忙しくしている。
空いている時間には、カイに教わって狼の姿になる練習をしたり、シイロに銀狼の歴史を教わったり、先ほどのように簡単な手伝いもしたりする。
ただ、狼になる練習の成果はあまり芳しくない。その証拠に、初めて村へ来た日以来、一度も銀狼にはなれていない。
一生懸命その感覚を思い出してみるのだが、佳奈の姿は相変わらず人間のままだ。
それがなんとも情けない。
自然と共に生きるこの村には時計も暦もない。
気づけば、佳奈が銀狼の村に来てからひと月ほどの時間が経っていた。
「うまく銀狼の姿になるコツって、ないんですかね…。」
落ち込む佳奈を見兼ねて、スミがおやつにと持たせてくれた木の実のクッキーをかじりながら思わずこぼす。
今日も佳奈はジーンのところに昼食を持って来ていた。ただし、佳奈も一緒に食事を摂っている。
ジーンからのお墨付きを得てから、これはすっかり変わらない村の風景の一部になった。
「そうだな…。」
思案げに空を眺めるジーンの手元は既に空だ。最近は佳奈が食べ終わるのをじっと待ってくれる。
「初心者は夜の方がうまくいきやすいと聞いたことがあるな。」
「そうなんですか!?昼間だからうまくいかないのかなぁ…。」
「その可能性もある、ということだ。こういうことは村長のほうが詳しいだろう。」
「そうですね、後で聞いてみます…。でも今は忙しいかな…。」
朝食を摂り終えた後も村長の家の書物整理を少し手伝っていたが、見事に雪崩が起きそうな惨状だった。
夜寝る前までに片付くといいが。
気分を変えるべく、またクッキーを口に運ぶ。スミの自信作というだけあって、とても美味しい。
ざっくりと刻んだ数種類の木の実がふんだんに入っていて、甘過ぎず香ばしい。
おやつまでとっておくはずが、あまりにいい香りでつい手を伸ばしてしまった。
「昼食を食べたばかりで、よく入るな。」
「甘いものは別腹なんです。スミさんのクッキーすごく美味しいし。」
「確かに、子供は好きそうだな。」
「そんなに子供じゃないです!もう立派に大人ですー。」
むくれる佳奈をからかうようなジーンの表情は穏やかだ。
最近はだいぶ軽口も叩けるようになってきた。
村の人達も、ジーンの表情が少し柔らかくなった、などと噂していた。
佳奈は以前のジーンを知らない。強いて言うなら、初めて村へ来た日の印象ぐらいだ。
他者を拒絶するようなぴりぴりした空気を纏いながら、どこか悲しい目だったのを覚えている。
佳奈は昔から、その目に似たものを沢山見たことがあった。
初めて施設にやってくる子供が、大体似たような目をしていたからだ。人間不信と深い悲しみを内包したような瞳。
そういう子が入ると、佳奈は相手にどれだけ拒絶されようが構い倒した。構ってかまって、やがて相手がどれだけひどいことを言っても佳奈は離れていかないと諦めると、ようやく心の内を見せてくれるようになる。そうなれば、佳奈以外の人間と馴染むのも時間の問題だ。
ジーンのことが気になったのも、あの目を放っておけなかったからかもしれない。
佳奈がぼんやり昔を思い出していると、突然黙った佳奈を心配してか、どうした、と問われた。
「なんでもないです、ちょっとぼーっとしちゃって。」
「お前はまだ不慣れなんだ。根を詰め過ぎて無理をするなよ。」
「大丈夫です!こう見えて割と頑丈なんですよ、私。」
ジーンの表情に気遣わしげなものが混ざっているのを見て、胸を叩いてみる。少しむせた。
最近はジーンの表情から感情を読み取れる様になったのが嬉しい。
「それじゃ、私そろそろ戻りますね!」
「あぁ。」
また眉間に皺が寄ってしまったジーンに、大丈夫だという意思をこめて笑ってみせる。
佳奈の願いとは裏腹に、ジーンの眉間の皺はしばらく取れなかった。
見張りの交代が来て、ジーンは村へと一時戻った。と言っても、最も危険な夜の見張りは大体ジーンの受け持ちだ。
それまでどう時間を潰そうか、一旦仮眠を取るか思案しながら歩いていたジーンを呼び止める人物が。
「ジーン!ちょうど良かった!」
スミだ。しかもこの呼び止め方は面倒ごとを押し付けられる可能性が高い。
かといって、スミの機嫌を損ねると後が怖い。
村の男性陣は、ジーンやシイロをはじめ、誰一人としてスミに頭が上がらないのだ。
気乗りはしないが、一応足を止めて振り返る。
「…なんだ。」
「ちょっと頼まれて欲しいんだけどさ。」
来た。
「森へ行ってきてくれないかい?カナも連れてさ。」
「…なんだと?」
想像以上に厄介なことになりそうだ。
ジーンの眉間には、またしっかりと皺が出来ていた。