第百八十四話 記憶 side榊龍矢
パニックを起こした華からの電話に、何か良くない事が起こったのだとわかったが、それが誰に起こったことなのかが分からなかった。
華が電話をしてきているのだから、学か陽向か。
シフト表を確認して同僚に電話をかけた。
運良く家にいて、交代してくれることになったが、後で酒でも買って贈ることにしよう。
上司に事情を話し、交代の事を告げて急いで外へと出ようとした。
「こういう時は自分で運転して行かない方がいい」
玄関で上着をきた上司が、車のキーを持って言う。
「ご迷惑をかけられません」
「休憩時間だ、俺の好きに使わせろ」
ふっと笑って俺の肩を叩いた上司に頭を下げて、上司の車の助手席に乗り込んだ。
何を考えても空回りするだけなので、平常心平常心と唱えつつ前を進む車の遅さに思わず舌打ちをしてしまう。
「お前が取り乱したら奥さんはもっと取り乱すぞ」
「分かっています」
「深呼吸してから病院に入れ」
「はい」
「大きな声をあげるなよ」
「…分かっています」
少し震えた手をぎゅっと握って誤魔化し、有馬総合病院という文字が見え始めると深呼吸を繰り返した。
病院入り口で止まった車から降りた俺に、上司が声をかけてきた。
「詳細がわかったら連絡しろ。シフト移動を考える」
「ありがとうございます」
深く頭をさげて、俺は病院へと入った。
華から病棟の番号がメールで届いていたので、そちらへ向かうと病室前に華が立っていた。
「華」
「りゅ、龍矢」
駆け寄ってきた華を抱きしめて、震える背中をさすると堪えていたのか、嗚咽を漏らす。
「何があった?」
「ひ、ひな、陽向が」
「陽向?」
その時、病室から学と医師が一緒に出てきた。
「学」
「龍矢…すまない」
憔悴した顔で深い息を吐いた。
「水崎さん、違う場所でお話します、ご家族の方もこちらへどうぞ」
医師につれて来られたのは、その階のナースステーション横だった。
何か家族に話がある時に使われる場所らしい。
扉を閉めて、椅子を勧められる。
全員が座ると、医師が話し出した。
「脳も調べましたが、特に異常はありませんでした。一緒にいた子の話しでも頭を打ったわけではないようですので」
脳?
驚いて学を見ると、頷いて話してくれた。
急に倒れた…って。それは。
「検査の結果によりますが、入院していただくことになると思います」
俺たち家族が頷く中、看護師が慌てたように入ってきた。
「先生! 目が覚めました」
全員で病室に戻り、中へ入ると陽向が体を起こしていた。
看護師にまだ横になるように言われて、体をベッドに横たえる。
ベッドの背中部分の角度を上げて、もたれ掛かるようにさせた。
「どこか痛いところはある?」
「ううん、ないです」
答えもしっかりしている。
少しほっとしたが、華の様子が少しおかしい。
「華?」
華が俺を見上げた。唇が震えている。
「お名前言えますか?」
医師の言葉に華はそちらを向いたが、何かにおびえているようだった。
「みなさき、ひなたです」
陽向が淀みなく名前を言う。
「うん、そうだね。年はいくつですか?」
「えーとね、七歳」
病室がシーンと静まりかえる。
取り付けられている機械の音だけがしばらく響いた。
「何年生?」
「一年生です」
「あちらにいる人わかりますか?」
医師が俺たちの方を見る。
陽向がそれを追う様にこちらを見た。
「お父さんと華さん」
「…華さんの隣の人わかりますか?」
「華さんの…」
何故か頬を赤らめて恥ずかしそうに医師を見る。
「言いづらい? 先生の耳にこっそり教えてくれますか?」
「あのね…」
陽向が医師の耳に内緒話をするように手を添えて小声で何か言っている。
「なるほどなるほど」
医師がそう言うと、陽向がにこっと笑う。
その笑顔はとても無邪気で。
俺の胸を締め付けた。