【四】
これでほぼ完結。
黎明が長々と語っている間、常葉さんはぐったりしているだけっていうね。寒いのに。しかし春が存在感なさすぎダルルォ?
年が明けた。
◆
「何ィー!? 春っちがあッ!?」
朝のホームルーム前の教室に、千歳さんの大声が木霊した。
千歳さんは春の両肩をがくがくと揺する。
「どんな手を使った!」
教室の後ろにある掲示板には、冬休みが明けてすぐに行われた実力試験の結果が貼り出されていた。A4判のプリントに成績上位十名の名前と点数が載っている。
そこに載っていた名前に――いや、正確には名前の並び順に、皆が驚いた。
「すごいですねー。春ちゃんって頭よかったんですかあ」
深川さんが至極感動したような面持ちで呟いた。年が明けてもジャージ姿は健在である。
私もこの結果には少なからず驚いた。
プリントの一位の欄には、『荒野春日子』の文字が躍っていた。
春、そんなに頭がよかったのか。千歳さんが取り乱すのも頷ける。
「目が回る」
「陰で隠れて勉強するタイプか! うわっ、しかもわたしの名前載ってねー!」
「和歌ちゃんは冬休み遊びすぎたんですよー」
「うるせー、お前は自分の心配をしてろ!」
ちなみに今回の試験、私の順位は七位。あまり集中して勉強できなかった冬休みを振り返れば、善戦したと思う。
――みんなが驚いたのは春が一位という事実で間違いではないのだけれども。
春が一位だったということは誰かが一位ではなくなったわけで。
私達の学年には入学以来一位を堅守してきた人物がいたわけで。
だから春が一位だったことよりも、彼女が一位ではなかったことに、みんなびっくりしたわけで。
別に春が悪いことをしたわけではないのだけれども。
その人の反応が気になるというか、気を遣うような空気が教室に蔓延していた。
少し可哀想で、みんな声をかけづらいみたいだった。
常葉さんは――席に着き、姫カットの長い黒髪を丁寧に指で梳いていた。
確か入学当初は肩にかかるくらいのミディアムだったはずだけれど、今は胸に届くほどの長さだ。
私は相変わらずのショートの髪を掻き上げながら、努めて明るく話しかけた。
「あ――砂原さん」
隣の自分の席に座る。
「試験、難しかったね」
常葉さんに嫌な思いをさせないよう、さり気なさを装わなければならない。
「ふふ、ありがとう砂原さん。別に落ち込んだりしてないから、変に気を遣わなくて大丈夫よ」
「え、いや、あの……」
「すごいのね、荒野さんって――わたしもまだまだ頑張らないといけないわ」
ほっと、胸を撫で下ろす。
よかった、気落ちしているわけではなさそうだ。
「きっと陰で相当な努力をしているのね。二人で勉強したりするの? 砂原さんと荒野さんって、一緒に住んでいるんでしょう」
「たまにやるけど――集中できないからいつもは一人でしてる」
「そう……」
やっぱり、ショックだったのかもしれない。
いつものしゃきっと引き締まった声のトーンが、いくらか沈んでいる。だが、こればかりはどうしようもない。春に次回のテストは手を抜いてなんて言えないし、たとえ春が了承したとしても、それは常葉さんにあまりにも失礼だ。
「あの、砂原さん」
これは常葉さん自身の問題。
成績優秀なのも大変だ――なんて暢気に考えていると、「来月の――二月十四日って、砂原さんの誕生日、よね」と、か細い声で尋ねられた。
来月で私も十六歳だ。
「あの、ね――」
そういえば――
以前互いに誕生日を教え合ったのだけれど、その時既に常葉さんの誕生日は過ぎていたことが発覚したのだった。だからその日の放課後、遠慮する常葉さんを半ば強引に連れて、駅前のケーキ屋さんで手持ちのお金で買える最も高価なカットケーキを奢ったのだ。些細なプレゼントだけれど、悩むのも面倒だしプレゼントは形に残らないもののほうがいいと思っているので、無難にケーキにしたのだった。問題はなかったはず――常葉さんも(おそらく)喜んでくれていたし。
――ありがとう。絶対、お返しするから。砂原さんの誕生日に、絶対――
あの時、常葉さんは確かそう言っていた。
すっかり忘れていた。
私はケーキの件は気にしなくていいと伝え、むしろ安物のケーキで済ませたことを謝る。
常葉さんは俯き、消え入りそうな声で呟く。
「そんなこと、ない――わたし、嬉しかったわ。砂原さんと一緒にケーキを食べたこと」
表情は長い髪に隠れて窺えない。
「気持ちだけで十分だよ。ありがとう、常葉さん」
ガラッと戸を開けて、先生が教室に入ってきた。
私達は話を中断する。ホームルームが始まった。
いつもと同じ朝。
年が明けたと思ったら、もう一月も半ばだ。
けれどその日の天気は、いつもと少し様子が違った。
何気なく窓の外を見遣ると、灰色の空から真っ白な綿雪が落ちてきていた。
狂ったように踊りながら、雪片が地面へと落下してゆく。
雪だ――という誰かの声が耳に入った。教室が少しざわついて、先生がそれを注意する。
ゆっくり、ゆっくり堕ちてゆく白。
無言のまま、窓の外を眺める。
――雪。
空から降ってくる、細かい氷の結晶。
また、この季節がやってきた。
◆
細雪が降って。
晴れの日が続いて。
小雨が降って。
雨が上がって。
空が曇って。
何日も大雨が降って。
また晴れて。
空が曇って。
朝風が吹いて。
夜風が吹いて。
また陽が昇って。
時は流れた。
黎さんはクリスマス以来、一度も家に帰ってきていない。
もう一か月以上顔を合わせていなかった。
こちらから連絡してみても「そのうち帰るわ」の一点張りで、取りつく島もなかった。
春は何も言わなかったけれど、やっぱり寂しかったと思う。私だって、黎さんがこのまま帰ってこないのではないかと不安になったから。
私の中で、荒野春日子という存在はどんどん大きくなって、容量を増していた。
春と出会う以前なら、家で一人過ごすのなんて平気だった。けれど今は、春がいなかったら、きっと、一人で黎さんの帰りを待つのはとてもつらく感じるはずだ。
黎さんは今どこで、何をしているのだろうか。
センター試験も終わり、受験で忙しい三年生はあまり登校してこなくなった。そのためか、校舎が広くなったように感じられた。
最近、常葉さんはたびたび学校を休んでいた。
頭痛が酷く、なかなか治らないらしい、ぼうっとしてしまうことが多い気もする――と、萎れた花のような力ない顔つきで言っていた。
そして――二月十三日。
今日も、常葉さんは学校を休んだ。
時刻は午後八時前。
放課後に図書室で、春と勉強していたので遅くなってしまった。
街灯に照らされた道を往く。
骨の髄まで凍るような風が吹きつける。空には星一つ見当たらない厚い雲。足下には昨日降った雪が積もり、あちこちで雪掻きの跡が見られる。
「ユキは寒がりだな」
左隣を歩く春が、呆れたというふうに私を一瞥した。
暖房の効いた図書室での勉強を終え、一歩外へ出ればそこは寒風吹き荒ぶ冬の夜。顔が痛いほどの冷気を浴びて、寒くないほうがおかしい。
「君はなんで平気そうなの」
冷えた指先に息を吐きかける。
「あたしは夏より冬のほうが好き。これから少しずつあったかくなって、ゆっくり春になる――それを感じるのが好きなの。だから寒いのは平気」
なるほど、意味がわからない。
好きだと平気なのか――こんなにつらいのに。
他愛ないお喋りをしながら、私達は早足で帰りを急ぐ。
マンション前に敷かれた道路。
車も人も通る気配はなく、辺りは静かだ。
「ん……?」
正面玄関前に、何をするでもなくぼうっと立ち尽くしている人がいた。
髪の長さと服装からして、女の人だ。
携帯電話を操作しているのかと思ったけれど、そんなことはなく、本当にただ突っ立っているだけのようだった。
なんだか気味が悪い。
目を合わせないよう避けて通ろうとした――その時。
こんばんは、砂原さん――と、声をかけられた。
聞き覚えのある声だった。
反射的に振り返ると、その人物もこちらを見た。
立っていたのは常葉さんだった。
私は戸惑った。
どうしてここに常葉さんがいるのだろう。
しかも、こんな時間に。
そもそも私、常葉さんに住所を教えたことなんて――
「ずっと待っていたの。貴女に会いたくて」
「どうしたの、こんなところ、で――」
息を呑む。
常葉さんは――虚ろな表情をしていた。
血の通っていない死人のような青白さは、街灯に照らされることで不気味さを増している。
全身に、不安が波となって急速に押し寄せた。
「ねえ、砂原さん。――どうして」
「え――」
「どうしてなの」
え?
何が――
「常葉。お前、何か用が――」
「貴女は黙ってて!」
春に向かって放った突然の怒声に、体がびくっと震えた。
「お前――」
常葉さんは笑みを――冷たい笑みを浮かべて、言った。
「どうしてわたしじゃだめなの。どうしてわたしを無視するの。わたしをまた一人にするの。どうしてどうしてどうしてどうしてどうしてどうして」
「…………!?」
「わたシはたダ――」
意味がわからない。
言っていることが支離滅裂だ。
「――貴女ヲ ソうト思ッたダ ノニ」
どくん、どくん。
心臓が跳ね回る。
痛いくらいに暴れ回る。
予感がする。
不吉な予感。
いや――既視感だ。
この感覚を、私は知っている。
いや――違う。
大丈夫だ。
そんなはずはない。
そんなはずがない。
祈りながら。
私は彼女を視た。
ゆらり。
ゆらり。
揺れながら彼女の肢体に纏わりつく――
――赤。
それは――絶望の色。
「――なんで」
なんで。
どうして。
常葉さんが。
なんで。
常葉さん。
赤。
赤い。
常葉さんが。
私は――
私は。
「ユキ……?」
頭が真っ白になって、目の前の現実が砕けて散る。
動くことすらできず、常葉さんから目が離せなかった。
「――動くな」
「――――!?」
声。
十メートルほど離れたところに――いつの間にか黎さんがいた。
「〈生まれたて〉の汚染体かしら。――雪花、そこを動いてはだめよ」
常葉さんは黎さんに目もくれず呟く。
「チ、ガウ――コんなノ……、ウウウううう……、イや……やめて――」
低く唸りながら、両手で頭を抱える常葉さん。
私はただ、それを呆然と眺めるしかなかった。
「マた、アノ声――クロい、カゲ――誰なノ……! ヤメテ……もう、イヤ――」
「常葉――さん」
そして。
それが姿を現した。
――ああ。
やっぱりね。
私はこいつから逃げられないんだ。
逃げられるはずがなかったんだ。
心のどこか冷たい部分で、妙に得心がいった。
こいつはきっと、私が死ぬまで永遠に追いかけてくる――
「――――――――――――――――!」
鬼が、咆哮した。
普通の人間には聞こえない、心臓が直接握り潰されるような重低音。
それは歓喜の叫びか、悲哀の唸りか。
――目の前に、赤い鬼が現れた。
真っ赤な、血の色をした鬼が。
鬼が太い右腕を夜空へと伸ばす。
私を殺すために。
そして実際、あれが振り下ろされたら確実に死ぬのだろう。
死ぬ。
お母さんを殺した鬼が、私を殺そうとしている。
私は死んだら――お母さんと同じところに行けるのだろうか。
――お母さんに、会いたい。
「…………?」
不意に、鬼の体が点滅するようにぼやけた。
内部に取り込まれた常葉さんが、頭を抱え必死に抗っている姿が覗いた。
そうか――
常葉さんはまだ、完全に意識を喰われたわけではないのだ。
振り上げたまま動きを止めた腕を、黎黒の霧を纏った影が一瞬で消滅させた。
黎さんはそのまま、鬼に飛びかかろうとした。
「――待って!」
黎さんが動きを止める。
そのわずかな隙に、常葉さんは弾け飛ぶように、建物の屋根や屋上を伝ってあっという間に姿を消した。人外の動きだった。
追おうとする黎さんをもう一度呼び止め、その背に懇願する。
「待ってください――こ、殺さないで。友達なんです、私の――」
黎さんは何も語らず、常葉さんが去った方向をじっと見据えていた。
游泳する悪意。
害意を貪り、殺意を吐き出す溟海の流民。
まさか――友達がキラーに憑かれてしまうなんて、考えたこともなかった。
キラーや超能力なんてものは別の世界の話で、日常を壊すことは決してないのだと、無意識のうちにそう思い込んでいた。
そんなはずないのに。
四年前に、思い知らされたはずなのに。
けれど、よりによって、どうして常葉さんが――
「今アマツカミが追っているから、きっとすぐに捕まるわ……」
リビングのソファーで、黎さんが険しい目つきで言った。
「常葉さんが――人殺しになってしまう前に、なんとかしないと……」
「さっきの子、かなり不安定な状態だったわね……。意識を喰われる寸前、キラーと自分の意識が共存している状態――誰か一人でも殺してしまえば、一気にキラーに侵食されるでしょうね」
「助ける方法は……、何か――何かないんですか」
「お前もわかっていると思うけれど――もし仮に、殺人に走る前にあの子を見つけられたとしても、相手はあの鬼。捕縛は並大抵のことじゃないでしょうね。捕縛に成功したとしても、待っているのは薬漬けの日々。どっちにしろ、もう……」
私は口を閉ざし、俯く。
キラーは宿主を破壊しただけでは滅ぼせない。
異なる宿主に憑いて何度も現れたりする場合もあれば、二度と現れない場合もある。常葉さんに憑いていたのはあの鬼だった。クリスマス・イブに黎さんが仕留めた男に憑いていたキラーであり、そして――
母を殺した鬼だ。
あの鬼は、女性を狙う悪意の塊。
あの男から遊離した悪意がもう一度現れるとしたら、次もまた、女性に怨みを持つ者に憑く可能性が高かった。
そして、常葉さんが狙われた。
常葉さんは最近、学校を欠席がちだった。頭痛が酷いとも言っていた。
もしかして、あれは兆候だったのか。
だとしても、いつからだろう。
いつから、常葉さんは――
考えたくなかったし、信じたくもなかった。
けれど、状況から見てそう結論づけざるをえなかった。
常葉さんは、私を――
何が原因なのだろう。
それがわからない。
情けない――これでは友達失格だ。
それとも――友達だと思っていたのは、私だけだったのだろうか。
常葉さんは私のことを、ずっと嫌っていたのだろうか。
殺したいほど、憎むくらいに。
どうすればいい。
どうすれば。
常葉さんを助けるには――
いや。
自分でもわかっているのだ、本当は。
「救う方法があるとすれば、お前の力に懸けるしかないんじゃないのかしら……。あの子をアマツカミの連中より先に見つけて、お前が鬼を――殺す」
私が、あの鬼を――
私が。
「もし事がうまく運んで、先にその子を発見できたとしても――お前が失敗した場合は、アタシがあの鬼と戦うわ。けれど、そうすればあの子は――死ぬでしょうね」
「…………」
「どうする……? ここで大人しく待っている? それとも――」
あの鬼を。
私が。
失敗すれば、また――
動悸の激しさに血管が破裂してしまいそうだ。
目が回る。
視界が歪む。
大丈夫だ――と、隣で何も言わず話を聞いていた春が、口を開いた。
「ユキにどんな力があるのか、何があったのか、あたしは知らない。けれどお前なら、常葉を助けられるんだろう? だったら悩む必要なんてない。自分に力があるのに――友達を救える力があるのに何もしないのは――だめだ。もしユキが助けを待っていて、あたしにユキを救える力があるなら――あたしは、絶対にユキを助ける」
友達だからな――春は付け加えた。
「春――」
そうだ。
また私は逃げるのか。
あの時春を見捨てたように、常葉さんも見捨てるのか。
いや――そんなことは絶対に嫌だ。
これは、避けて通れない運命なのだ。
常葉さんに襲われかけた時、ここで死んでもいいと思った。バカだった。危うく常葉さんを人殺しにしてしまうところだった。何をやっているのだろう、私は。本当に――全然変わっていない。あの冬の日、私の人生は大きく捩れた。やり直したかった。死にたいのではなく、また昔に戻ってやり直したかった。けれどきっと、もう一度始め直したとしても、あの鬼は私の前に現れるのだろう。立ちはだかるのだろう。まるでゲームだ。敵は主人公を倒すため、ずっと同じ場所で待っている。そいつを倒さない限り先へ進むことはできないし、クリアすることもできないのだ。
道を阻む鬼。
私にとっての敵。
あの鬼も、あの時殺し損ねた私をずっと待っているのかもしれない。
あいつがまだ奪っていない――私の命、ただそれだけを手に入れるために。
逃げるな。
覚悟を決めろ。
戦え。
何もできなかったあの時とは違う。
ここで決着をつけよう。
――避けて通れぬ運命なら。
あいつを倒して、私は前へ進む――
二月十三日、午後十時――自室。
ライティングビューローの引き出しを開け、布に包まれた三十センチ強の細長い物体を取り出す。
ずっしりと重く、硬い。
布の中から現れたのは、全体的に黒く厳つい、仰々しい見た目のサバイバルナイフ。戦闘用のファイティングナイフというより、デザイン重視のアートナイフといった趣がある。
淡い輝きを放っているのは、柄に埋め込まれた白いスノークォーツ。
刃は錆びついており、武器として使用するのは困難だろう。
ナイフをもう一度布にくるんでバッグにしまい、パーカを羽織って部屋から出る。
――常葉さんを捜す。
常葉さんが何か行動を起こす前に。
アマツカミの人達よりも早く、なんとしても。
「それで、心当たりはあるのかしら」
黎さんがエンジンをかけながら訊いた。
微かに震える手で、助手席のシートベルトを締める。春は後部座席に乗っている。
「常葉さんの行きそうな場所で、彼女が来るのを待ちます。闇雲に捜し回るよりずっと効率的なはずです」
ただし、常葉さんが既に意識を喰われ私のことを忘れていたとしたら、何の意味もない。
だが今は、これに懸けるしかないのだ。
私と常葉さんの関係は、本人達からしても不思議なものだった。学校ではいつも一緒なのに、休日に遊んだこともなければ互いの家の住所すら知らない。落ち着くし、何より教室で一人になることがないから、一緒にいる。初めて知り合った時から、私達は短い時間で親しくなった。私と常葉さんは似ている――同類だ。他人との距離を取って、深く踏み込まない、踏み込ませないタイプ。だからこそ仲良くなれたのだと、私はそう思っていた。常葉さんもこの関係を維持することを望んでいるのだと思っていた。
けれどそれは、私の勝手な思い込みだったのだろうか。
この数か月の間、私と春が笑っている隣で、彼女はどんな気持ちでいたのだろう。
黎さんに、その場所を告げる。
考えるまでもなく、私と常葉さんの思い出はそこに集約されているのだから。
車はすぐに目的地に到着した。
それは凍てついた闇の中、夜に溶け込むように不気味に存在している。
つい数時間前までいた場所に、私は戻ってきた。
柴白高校。
私と常葉さんが出逢った場所。
裏門前に停めた車から降りる。黎さんは剣を携えている。しかしその剣を使わせるわけにはいかない。
空から灰色の雪が落ちてきた。寒さはあまり感じず、むしろ胸の辺りがじりじりと熱い。
心臓が燃えている。血液の温度が上がった気がした。
大丈夫。
私は落ち着いている。
閉ざされた門を乗り越え、ひとまず校庭に出ることにした。ところどころに備えつけられた常夜灯の明かりだけが頼りだ。
電気の点いていない校舎を裏側から眺めながら、校庭へと向かう。
「あの子、ほんとにここにいるのかしらね」
黎さんが疑問を口にした。
けれど私には、もうわかっていた。
ああ、待つ必要なんてなかったのだ。
彼女はずっと私を待っていた。
毎日、ずっと学校で待っていたのだ。
ごめんなさい、待たせて。
心臓が燃え盛り、熱い血液を送っている。
じりじりと。
じりじりと胸を焼くその火は赤い――
赤い、鬼。
背の高い照明から零れる光を浴びた校庭は、夜空から届く雪と相まって幻想的な雰囲気を生み出していた。
その真ん中に――彼女はいた。
ゆっくりと、私は彼女に近づいてゆく。
黎さんと春が足を止めた。
私は構わず彼女との距離を詰める。
ゆっくりと、彼女の心に近づいてゆく。
もうすぐそこに、彼女がいる。
私達は向かい合って、互いの顔を見つめた。
綺麗な長い黒髪の姫カットに、縁なし眼鏡。控えめなデザインのコートを身につけた、同じクラスで隣の席の女の子。
その子の名前を呼ぶ。
「――遅いわ、砂原さん」
にっこりと、蝋人形のような顔色で微笑む常葉さん。
「ずっと待っていたわ。わたし、ずっと……」
「…………」
「初めて話した時のこと、憶えてる? ――わたし、嬉しかった。砂原さんに話しかけてもらって、とても――とても、嬉しかった。わたしは砂原さんと二人がよかったのに――それなのに」
「常葉さん――」
「もうだめ。耐えられない。苦しい。痛い。もう何もかも嫌なの。もう、わたしは――」
ミンナ――
ミ・ン・ナ・死・ン・デ・シ・マ・エ!
常葉さんの体から、勢いよく赤い霧が噴き出した。
濃い霧に包まれた彼女の体が見えなくなってゆく。
常葉さんの言葉は弾丸となって私の胸を撃ち抜いた。
わかっている――常葉さんが意図した言葉ではない。
常葉さんは今、キラーに悪意を増幅されている。
だが――元が零では増幅しようがないのもまた、事実だった。
「常葉さん――」
返事の代わりとばかりに、姿を現した鬼が咆哮した。
「目を覚まして」
いくら懇願しても、きっと意味はない。
鮮血の異形。
血の色をした鬼。
お母さんの仇。
私の――敵だ。
私は、私の力で――常葉さんを助けてみせる。
震える腕を動かし、バッグから布に包まれたナイフを取り出す。
布を取り、切っ先を常葉さんに――鬼に向ける。
「待ってて、常葉さん」
額に意識を集中、常葉さんの内側へと自分の意識を潜り込ませる。ナイフで鬼を切り裂き、常葉さんを助け出すイメージを描く。途端、頭の中に様々な映像が流れ込んできた。教室。授業風景。校庭。帰り道。体育館。食堂。夏のプール。秋の球技大会。冬の。冬。寒い。雪。冷たい雪が降っている。空から雪が落ちてくる。真っ赤な雪が落ちてくる。空一面が真っ赤だ。まるでこの世の終わりを告げるかのように、血の色をした玉が空を覆い尽くしている。赤い。赤い鬼が嗤っている。誰かが倒れている。近くにナイフが転がっている。このナイフはお母さんのものだ。お母さんのナイフ。けれど今、血に塗れたナイフを握り締めているのは私。鬼が嗤う。次は私の番。私をお母さんみたいに殺すつもりだ。足ががくがくと震える。怖い。力が入らない。またあの時と同じ? もし失敗したら――力が暴走したら、また多くの人が死ぬかもしれない。そんなことになったらどうしよう。耐えられない。やめたい。逃げたい。常葉さん。ごめんなさい。私は。私は――
――あれ。
なんだろう。
不意に、左手に温かいものが触れた。
それに触れた瞬間、目の前の鬼が小さくしぼんだ気がした。
心に火が灯ったように、体が熱くなる。
集中し直して、鬼を――赤き鬼面を視る。
この世の恐怖を体現した、醜悪な容貌。
けれどその顔は、どこか哀しげな―――寂しげな表情にも見えた。
鬼が唸る。
自分の弱い心を深淵に追いやり、もう一度、鬼に臨む。
右手には――復讐を象る小刀。
左手には――陽春へ誘う暁光。
――お母さん、ごめんなさい。
お母さんの仇を討つよりも、今はただ――常葉さんを助けたい。
ここで終わらせよう。
今度こそ――私の手で。
前へ。
――前へ進め、砂原雪花。
黎さんの声が、どこか遠くの世界から聞こえたような気がした。
けれど、私の耳にはもう何も入らない。
誰も私の意識を侵せない。
雪が舞う。
右手のナイフを鬼に、そしてその向こうにいる常葉さんに突きつける。意識を集中。たちまち流れ込んできた映像が、閃光のように頭の中で炸裂する。思考の奔流に押し流されそうだ。頭をぐちゃぐちゃに掻き回され、意識が混濁してゆく。頭の中で何かが暴れ、外へ飛び出そうとしている。化物だ。得体の知れない化物が、内側から檻を突き破ろうと暴れている。この化物を制御しなければならないのに、解放したいという衝動が沸々と湧いてきた。出したい。解き放ちたい。そうすればきっと楽になれるだろう。すっきりするだろう。けれどだめだ。もしこれを外へ出したら、大変なことになる。もう私は、あの頃の私とは違う。この化物を飼い馴らしてみせる。私は、勝ってみせる――
雪。
輝ける雪の如き、白銀の刃。
私は自分の全存在を懸けて、その刃を振るう。
雪白の光で包まれた刃は、鬼を――そして常葉さんを貫いた。
入学式の翌日の朝、教室に入ると一人の女の子が誰よりも早く席に着いていた。クラスで二番目に登校した私は出席番号で決められている自分の席に座ると、左前方の席のその子の後ろ姿をぼんやりと眺めた。肩にかかるくらいのミディアムの髪に縁なし眼鏡、地味な服装。いかにも真面目そうな女の子だ。結局、特に挨拶を交わすこともなく授業が始まったのだけれど、この私でさえ、放課後までに頑張って周りの席の女子と少しくらい会話をしたというのに、彼女はほとんど口を開いた様子はなかった。次の日も次の日も、彼女はなかなかクラスに馴染めず、話しかけられても一言返すのがやっとという感じで、会話が続かないようだった。友達がいないのかな、じゃあ私と一緒だ、と思った。翌日の朝、いつものように二番目に教室に入った私は、彼女に声をかけてみた。なぜだかわからないけれど、普段は人見知りのくせに、その時の私は随分と馴れ馴れしく饒舌だった気がする。おはよう。ねえ、いつも朝早いね。どこから来てるの。彼女は驚いた表情を浮かべたあと、顔を赤らめながら小さく細い声で答えてくれた。困った顔が可愛かった。話では、家は近くだけれど引っ越してきたばかりで知り合いが一人もいないらしかった。これも私と一緒だ、と思った。私も知り合いなんて一人もいない。じゃあ私達同じだね、これからよろしく。そう言うと、彼女は小さくこくりと頷いた。時間が経つにつれて、彼女はクラスでも一目置かれる存在になった。真面目で、頭も性格もいい彼女といつも一緒だった私は、そんな彼女を尊敬していた。ある日彼女が、私の短い髪を見て訊いた。砂原さんはどんな髪型が好きなの。あまり髪型に詳しくなかったので半ば適当に、昔は長かった――本当は長いほうが好きなんだけれど、もうやめたんだ、と返した。
ある日気づいたら、彼女の髪は伸びていた。
ねえ、砂原さん。
わたしね、伝えたいことがあったの。
本当は貴女と――もっと仲良くなりたかった。もっと親しくなりたかった。
初めて声をかけてくれた時、とても嬉しかった。
砂原さんがいてくれたおかげで、わたしは学校が楽しいと思えた。
砂原さんがいてくれたから、毎日が幸せだった。
砂原さんがいてくれたから――
砂原さんさえいてくれれば、ほかの人なんてどうでもいい、砂原さんとさえ親しくなれれば――それでよかった。
砂原さんは誰とも深く関わろうとしなかったけれど、その中でわたしが一番なら、それで――
それなのに――荒野さんが来てから、貴女はわたしを見てくれなくなった。わたしに向けたことのない笑顔を、荒野さんには見せていたわ。
貴女の笑顔を一番知っていたのはわたしだったのに。
あの場所はわたしのものだったのに――
悲しくてつらくて、最初は荒野さんなんていなくなっちゃえばいいのにと思った。
けれどそんな自分がどんどん嫌いになって、どうしていいかわからなくて――
みんないなくなっちゃえばいいのにって、わたしも、砂原さんも、みんないなくなっちゃえばいいのにって、そう願ってしまった――
わたしだって!
一緒に遊んだり、一緒に勉強したり――もっと砂原さんの傍にいたかった。もっと――
自分でもわかってる。
こんなの、ただのわがままだって。
でも、わたしは――
ごめんね、常葉さん。
私は、今まで常葉さんの好意に甘えてた。
自分は友達を持つ資格なんてないんだと勝手に決めて、一人になろうとして、でも本当は一人になりたくなくて、常葉さんの気持ちを利用して――
常葉さんと一緒にいれば一人を感じずに済むと思って甘えてたんだ。
でも今は――今は、違うよ。
常葉さんと、もっと仲良くなりたい。
もっと、常葉さんのことが知りたい。
私のこと、もう嫌いになったかな。
私は――私は好きだよ、常葉さんのこと。
今までも、これからも、ずっと好きだよ。
――帰ろうよ、常葉さん。
もう一度やり直そう。
形だけの友達じゃくて、ちゃんと、本当の友達になろう。
名前――
ずっとね、名前で呼んでほしかったの。苗字じゃなくて、下の名前で――
砂原さんにね、バレンタインのチョコレートをあげようと思ったんだけれど、受け取ってくれるかな。
それとね――
誕生日、おめでとう。
雪がちらつく夜空の下。
穏やかな寝息を立てすやすやと眠る少女。
あとに残ったのは、雪の音さえ聞こえそうな静寂。
お母さんは、見てくれているだろうか。
左手から伝わる光の温かさに感謝しながら、夜空を見上げる。
常葉さんの家には、既にアマツカミの手が回っているはずだ。おそらく、これから常葉さんはアマツカミに監視される日々を送る。もちろん本人がそれを知ることはない。偉い人達が、常葉さんからキラーの脅威は完全に去ったと判断を下すまで、その監視は続くだろう。
私にできることは、常葉さんが日常に帰ってくるのを信じて、彼女が目を覚ますのを待つだけだ。
常葉さんの体から溢れていた赤い霧は、空気に溶け込むように消えていき、
そして――
異変が起きた。
黒。
突如、周囲が黒に染まった。
ものすごい量の黒い霧が、辺り一面に発生した。
それは常葉さんの体にわずかに纏わりついていた赤い霧をも呑み込み、集束するように中心の一点へと向かう。
そこにいたのは――
「――鬼が消えた……! すごいわ、完全にキラーを消滅させるなんて……」
「黎さん……?」
アハハハハハハハハハハッ――闇の中心で、黎さんは小刻みに震えるように奇妙な笑い声を上げた。
薄気味悪い。
何がおかしいのか――突然笑い出した彼女。
「やっと、その力を使いこなせるようになったのね。偉いわ、雪花……!」
黎さんの体を、闇が這う。
異様な気配が漂うのを感じて、辺りを注意深く視た。
なんだ、この感覚は。
「長かったわ。長かった……。意識を喰らう力――キラーを討ち滅ぼす異能。これで、アタシは――」
鞘から剣を取り出し、くっくっと笑みを零す。
「ああ、アキラ……。もうすぐ、もうすぐ会えるわ……。やっと、この日が来た……!」
「姉様……?」
状況が全く飲み込めず、私も春も、ただ固まっていた。
――この感覚は。
黎さんから発せられている霧に違和感を覚えた。
いつもと違う。見た目は同じだが、感じられる雰囲気が違うのだ。
闇と同化し溶け込むような静けさではなく――これは、不吉を孕んだ禍々しい〈悪意〉そのもの。
――キラーと同じ感覚だった。
第六感が警鐘を鳴らしている。
この霧は――危険だ。
美しい顔にアルカイック・スマイルを浮かべながら、黎さんはハスキーな声を奏でる。
「待っててね、アキラ。今行くから……」
黎さんは私達に近づき、そして、ゆっくりと春を抱き締めた。
繋いだままだった手が、離れた。
「姉様」
「姉様? 違うわ、春日子――いえ、春暁。アタシはお前の姉じゃない。お前の本当の姉は――彼岸西風天明は、アタシが殺したんだから」
「――――え」
「殺すつもりなんてなかった。ただ、『私』は――あの人に愛されたかっただけ……」
「れ、黎さん……?」
「黎明――私の名前。アキラがつけてくれた、私の本当の名前……。私をタミと呼んでくれたアキラは、もういない。死んでしまった。どうして――どうして死んでしまったの。ああ、アキラ……」
「ねえさ――」
「お前さえ産まれてこなければ!」
いきなり声を荒げ、黎さんは春を突き飛ばした。
「アキラは死なずに済んだかもしれないのにっ! お前さえっ! お前さえ産まれてこなければっ!」
呆然と立ち尽くしたまま、動けない。
「ね、姉様――」
黎さんは尻餅をついた春に、今度は一転――泣きそうな顔で言った。
「ああ、ごめんなさいアキラ……! 違うの、今のは……」
春はされるがまま、もう一度黎さんの腕に抱かれ――そして。
――口づけ。
「ねえ、さま……」
「アキラ、愛してる。ずっと、ずっと、貴女と一緒にいたかっただけなの……。だから許して……。ごめんなさい、ごめんなさい……。貴女の娘を殺した私を、許して……。好きよ――愛してる。私を、私を愛して、アキラ……。アキラ、アキラ、アキラ……」
縋るようにそう言って、黎さんは春の腕、胸、頬をゆっくりと撫で回す。
「あたしは――あたしは、春日子だ。母様じゃない。だから――離して」
え。
――母様?
「…………ッ! アキラはそんなこと言わないっ! アキラは優しいものっ! アキラは……ッ!」
「姉様」
「アキラ――もうどこにも行かないで。ずっと一緒にいよう……? ――この髪も、長い睫毛も、肌の白さも、小さな体も、美しい顔も、優しい声も、全部、全部愛してる……」
しばらくの間、黎さんは愛しがるように、春の小さな胸に顔を埋めていた。
春を解放し、ゆっくりと立ち上がる。
「お前の母・彼岸西風曙光は――お前を産んで死んだ。この体も、お前の体も――アキラが遺してくれた大切なもの」
彼岸西風曙光――春の母親の名前。春を産んだあと、亡くなった。
彼岸西風天明――春の姉の名前。ずっと行方不明で、けれど曙光さん――アキラさんとの約束を果たすために、ゼフュルスにいた春を迎えに来た――ということではないのか。
黎さんが天明さんを――殺した?
では、黎さんは春のお姉さんではないということになる。
意味がわからない。
頭が悲鳴を上げている。
――お前さえ産まれてこなければ、アキラは死なずに済んだかもしれないのに。
黎さんの叫びが、脳内で再生される。
それはとても――とても悲しい言葉だと思った。
「母様が遺した体――姉様はやっぱり、あたしの、本当の――」
「この体はお前の姉――彼岸西風天明のものよ。体は――ね」
黎き闇を纏い。
「私は生まれてからずっと天明を――ソラを演じてきた。母様が――アキラがアタシを産んだ時から、ずっと……」
黒き闇を侵す。
――そして。
「私は――キラー」
お前達人間の敵だと、黎さんは言った。
「正確には違うのかもしれない。けれど私のような存在を表す言葉がないんだもの。あるのかもしれないけれど、私は知らない」
黎さんが――キラー。
もう理解不能だ。
黎さんが何を言っているのか、ついていけない。
「『私』は自分が何者なのかを知らない。自分がどこからやってきたのか、なぜ存在するのか、どうしてアキラと廻り合ったのか、男なのか、女なのか、いつ生まれたのか、何もわからない。『私』は気づいたらそこに――溟海に浮かんでいただけの存在。『私』には生きた記憶もなければ、死んだ記憶もない。ただ最初からそうであるように、意識の海に存在していた。意思を持たぬ悪意であるキラーとは、意思を持っているという点において絶対的に異なるけれど、それ以外に『私』とキラーにいったいどんな違いがあるのかしら。悠久の刻をただ過ごすだけのアスポデロスの荒野を、『私』は――いえ、『私』ですらない一個の意識体は彷徨していた。百年か、あるいは一秒、もしかしたら一万年かもしれない月日が流れた刻の中で、女の子が『私』に声をかけてくれた。小さな、可愛らしい少女だった……」
「その人が、あたしの――母様」
「アキラは特殊な力を持っていた。見えざるものとの対話能力――私はその力に誘われ、アキラと出遇った。体の弱い子だったわ。けれど彼岸西風の人間としての誇りを持っていた。私はそれ以来、アキラの話し相手になった。たくさん、たくさん話したわ。勉強のこと、趣味のこと、本のこと、音楽のこと、この国のこと、好きな人のこと……。力の使いすぎは禁じられていたから、話せるのは体調のいい日のわずかな時間だけだったけれど、それでも、私は……」
黎さんは笑っている。
「朝明けと夜明け――曙光と黎明。アキラは私に『黎明』という名前をくれた。その時から私は『黎明』になった。『黎明』という、たった一つの存在に。何年経ったか――その日はやって来たわ。彼岸西風の宿命――彼岸西風の女は、いとこの子を孕まなければならない。より強い彼岸西風を遺すために――ゼフュルスのために。怖気が走ったわ。その時の私は、自分に肉体がないことを怨めしく思っていた。体さえ! 体さえあればアキラと触れ合えるのに!」
――アキラがアタシを産んだ時から、ずっと……。
そうか――
さっきの言葉の意味は、そういうことか。
「アキラは子を宿した。いとこの子を。相手のことなんて思い出したくもない。けれどアキラは、その男のことを、ちゃんと――愛していた……。私はただ、アキラの愛がほしかっただけ……。だから――」
「だから、姉様はその子に――憑いたの」
春が呟く。
「目の前が一気に開けた気分だったわ……! 私はアキラのお腹の中で、まだ輝きすら放っていない弱々しい意識を食べた。次に目を覚ます時は、アキラが愛情を向けてくれる子供として存在できる! 私はそれだけで胸がいっぱいだったわ! なのに――」
黎さんは語気を荒らげる。
「なのに私は――別の存在になっていた。眠っていた私は成長するにつれ、少しずつ自分のことを憶い出していった。私はアキラの愛情を浴びて、大事に育てられていたわ。――彼岸西風天明として!」
「…………」
「私は肉体を手に入れることばかり考えて、アキラが私をタミとして認識してくれるわけがないということを考えていなかった。とんだ笑いものね。天明と名づけられた私は、自分はタミだと、自分が黎明だと、告白しようかと思ったわ。けれど――アキラが私をソラと呼ぶたびに、私は自分の愚かしさを呪った。アキラが私に向けてくれる愛情は、本来私が受け取っていいものじゃない……! 私が! 私があんなことをしなければ、生まれてきたのは本当のソラのはずだった! 私は自分の生のために、アキラの子を殺したんだ!」
黎さんは――
黎さんは、ずっと後悔してきたのか。
生まれてくるはずだった新たな意識を、自分が喰らってしまったことを。
「私はただ、アキラに愛されたかった……。ただ、それだけだった……。けれどアキラの愛情は、私に向けられたものじゃない……。私が体を手に入れれば――きっとアキラは驚いて、喜んでくれるだろう――なんて、あまりにも愚かな考えだったわ……」
黎さんは。
その人のことが――アキラさんのことが。
好き――だったのだろう。
「もう一度逢えると信じていたから、私は何も告げずアキラの前から消えてしまった。けれど目覚めてから、アキラは私に『私』のことを口にしたことはない。何年も経っていたから、きっと――忘れてしまったのかもしれない……」
「…………」
「アキラは私を産んでから――ずっと体の具合が芳しくなかった。私はソラを演じ続け、アキラを騙し続けた。そして私が十歳の時――アキラはもう一人の女の子を産んだ。『春暁』と名づけられたその子を産んですぐに、アキラは死んでしまったわ……」
春はぐっと、唇を噛んだ。
そんな春の様子を見て、私は黙っていられなかった。
「その方が亡くなったのは、春のせいじゃありません」
「そう――そうね。お前のせいじゃないわ、春日子。彼岸西風の奴等はアキラの体の弱さを顧みなかった。アキラは長生きが望めない体だったのに、生きているうちに一人でも多くの子を産ませようと、無理をさせて……」
春が愕然として色を失う。
「あたしは、そんなにも母様に無理をさせて――」
違う――
それは決して、春のせいじゃない。
「アキラはお前を産んだことを何一つ後悔していないと思うわ。あの人は――そういう人だから」
異常な一族だ。
けれど私が知らなかっただけで、こういう世界は当たり前のように存在しているのだろう。
今までも、これからも。
「私に必要なのは黎明という名前だけ……。もう彼岸西風の名は必要ない。春日子も、そう思っていたからついてきたのでしょう? お前も彼岸西風の血に絶望していたものね」
「あたしは――」
「アキラに謝りたかった。この罪悪感は消えることなく私と共にあり続けるでしょう。死ぬまで――いえ、死んでも消えることはないわ。なぜなら肉体が滅んでも、私の意識は消えることがないのだから」
キラーである〈黎明〉という名の意識は、天明さんの肉体に宿っているだけ。
肉体が滅んでも、黎さん自身はまた溟海を彷徨い続ける。
それは永遠に終わらない地獄。
抜け出せない牢獄。
果てしない荒野にただ一人――
「でもね、私は一つの可能性を見出したわ。それは私が日本に渡って、アマツカミに協力し始めた時のこと。一人の女の子に出会った……」
「…………」
「恐ろしい力を秘めた女の子だった……。意識を無に帰す異能。肉体から魂を引き剥がし、討ち滅ぼす死神の鎌。――この力を利用すれば、私は還れるかもしれない」
暗黒色の瞳。
喜びとも哀しみとも取れる微笑。
黎さんはまっすぐ私を見て、
「砂原雪花。――私を、殺して」
と言った。
黎さんを覆う闇が、さらに色を濃くしていき――弾けた。
黎さんを中心に、ものすごい勢いで闇が拡がってゆく。
私も春も、倒れている常葉さんも、校庭も校舎も、周囲のもの全てを呑み込み、闇が加速する。
「私は意思を有した〈キリングダイバー〉。彼岸西風の血によって高精度の超能力・異能力をも扱える〈游泳する悪意〉。――私にはね、〈声〉が聴こえるの――悪意達の声が。この闇は悪意そのもの。この闇に触れた者は汚染体となり、やがて殺意に踊る人形と化すわ」
夜光を侵し、
夜更を略す。
溟海へと至る晦瞑を、黎き咆哮が切り裂いてゆく。
「あの鬼もね、私がその子に憑かせたのよ。雪花――お前の力を試すために」
「黎さんが――――常葉さんに…………?」
全身に、
衝撃が走った。
どくんどくんと、
心臓が嫌な音を奏でる。
そして私は、恐ろしいことに――信じたくないことに思い至ってしまった。
「まさか――まさか、あの時も――」
「そうよ。四年前、あの鬼にお前を襲わせたのは私。お前の母親・砂原六花はアマツカミの研究員だった。娘に眠る異能に気づいた彼女は、組織に利用されるのを恐れ、お前を連れてアマツカミから逃走した。だがアマツカミは二人をずっと監視していた。彼女もアマツカミも、お前の力がまさかこれほどまでとは思っていなかったようだけれどね。私があの日、あの町にいたのは本当に偶然だったけれど、アマツカミに関わる異能力者の情報は全て頭に入れてあるから、お前のことも知っていた。お前の力がどんなものなのか、私を殺せる力なのか――試してみたかった。だから――」
「だから、あの鬼を」
「異能は恐怖や孤独、絶望や憎悪といった感情を抱いた時に発現しやすい。だから、ちょっと脅かそうと思ってね。ただ――お前の母親が、お前を庇って死んでしまったのは予想外だったわ」
「お、お母さんも――ひーちゃんも――常葉さんまで、全部、黎さんが」
「あの場にいた私は、暴走した力に触れて死を感じた。虚無と絶望に彩られた終末の風景――頭の中に押し寄せたそれは、私を死へと誘い――消えていった。不完全な暴走した力では私を、そしてあの鬼も殺すことはできなかったけれど――それでも、あの向こうへ、あの景色の向こうへと行けば私は死ぬことができる。この力を磨けば、鍛えれば、きっと私を殺せる刃になる――そう、確信したわ」
「黎、さん――」
「クリスマスの夜――あの鬼と再び出遭った時、何かの運命を感じたわ……。私はあの鬼に干渉し、お前にチャンスを与えた。それなのに、まさか――春日子を見捨てて逃げようとするなんて」
「…………!」
「ねえ、雪花。私を――助けてくれるわよね? わかってくれるでしょう? お前も私と同じ――ヒトを殺め、カミをも屠る化物を飼った――この世界に存在すべきではないサツジンシャなんだから――」
「――――――――――――――――――――――――――――――――――――――」
名前を考えなくてはいけませんね。
わたくしたちの、可愛い、愛しいこの子に。
貴女の名前は、夜明けという意味です。
素敵な名前でしょう――ソラ。
この子には春暁という名前をつけようと思うのです。
春の暁――わたくしやソラとお揃いの名前を。
ソラ、わたくしがいなくなったら、生まれてくる妹を――ハルを、頼みますね。
貴女はお姉ちゃんになるのですから、妹を守ってね――
私は目の前の男に自分の感情をぶつけた。
ただ憎悪の念だけを込め、真っ黒な感情を。
「お前のせいだ! お前のせいで母様は死んだんだ! お前が母様を殺したんだっ!」
憎い。
憎い。
憎い。
この男が憎い。
アキラを奪ったこの男が憎い。
アキラを殺したこの男が憎い。
この男は、アキラよりも一族を選んだ。
あの子を産ませなければ、アキラは死ななかったかもしれないのに――
「う、うう……く……」
「悪かったな、ソラ――ごめんなぁ……」
「静影様は母様の命よりも、一族の血のほうが大事なのですか……」
「アキラは、あいつを産んだことを後悔なんてしていない。もちろん――お前を産んだこともな」
涅槃西風静影は怒るでも悲しむでもなく、淡々と話す。
その態度が気に入らなかった。
許せなかった。
「ハルに近寄らないでください。貴方に、あの子と会う資格なんてありません」
「そうか――残念だな。ま、涅槃西風の男が彼岸西風に近寄れないのはお前も知ってるだろ。安心しろ。父親面してのこのこ春暁の前に出ていくなんてことはしない。アキラを守れなかったのは――本当だしな」
「私は――出ていきます。ここにはもう戻ってきません。彼岸西風の名前も捨てます」
アキラのいないこんな世界に、もう用なんてない。
「家出か。ボレアスにでも面倒見てもらう気か?」
「今までお世話になりました。二度と会うことはないと思います」
「そうかな――俺は案外、また会いそうな気がするんだけどな」
男は小さく笑う。
その顔が、さらに私を腹立たせる。
「ハルはどうするんだ」
「私が面倒を見ます。母様との約束ですから」
「そうか――ハルはアキラに似て美人になるだろうな。お前は俺に似ちまったようだが」
「…………」
「元気でやれよ。俺はここを離れるわけにはいかねえけど、狭い業界だ、生きてりゃそのうちどっかで会うだろ」
「……どうしてそこまで、彼岸西風にこだわるのですか。涅槃西風の方々は、なぜそこまで彼岸西風に尽くすのですか」
去り際に、最後の質問をした。
「そりゃあお前、好きな女がいるからだろ。それ以外に何もねーって。あいつは、彼岸西風に誇りを持っていたからな。その誇りのためにも、俺は死んでも彼岸西風を守る。それが涅槃西風という名の意味だ。俺にとっちゃゼフュルスなんざどうでもいいが、ゼフュルスのためにあるのが彼岸西風だからな。ボレアスがゼフュルスとやり合うってんなら、容赦しねえぜ」
それを最後に、私は男に背を向けた。
「お前の言う通り、俺は父親としては屑だな。愛した女よりも、娘よりも、血を選んだバカな男だ。でもな――あいつがこの血に誇りを持っていたんなら、俺はその誇りを死んでも守る。それに――」
そして、背中越しにかけられた言葉に――
「黎明――お前も、あいつにとっての誇りだってことを忘れるなよ」
――耳を疑った。
「別にどうこう言うつもりはねえよ。一度だけ、アキラが俺に話しただけだ。――お前は今まで本当の自分を隠して、彼岸西風天明として生きてきたんだろ。アキラのためか、彼岸西風のためか知らねえけど――その気持ちはアキラだってわかってんだよ。だからお前が言い出さなかったら――お前がアキラの前でソラとして生きていくつもりなら、それで構わないと言っていた。お前の本質がどうであれ、ちゃんとお前のことを誇りに思ってたんだよアキラは。あいつは、そういう奴だ」
悔しかった。
アキラにばれていたことが――ではない。
アキラがこの男に相談していたことが――だ。
「でも、もういいだろ。アキラも逝っちまったし――もう隠す必要もない」
「……だったら、なおさらもうここにはいられませんね。もしゼフュルスに知られでもしたら、研究所行きですから。それに私はもう――彼岸西風でもなんでもないのですから」
私はどんな表情をしていただろう。
大嫌いなこの男に見られなかったのが、唯一の救いだった。
結局、最後まで父様とは呼んでくれなかったなあ――と、涅槃西風静影が言った。
背後で鳴ったライターの点火音と、煙を吐く音。
「――さよなら、静影様。さよなら、彼岸西風」
その音が、なぜだかいつまでも耳に残った。
知人を頼りにボレアスへと転がり込んだ私は、名を変え、ただひたすら働いた。
年齢のせいで甘く見られ不当な扱いを受けたこともあったが、私の力が異質なものだとわかると、周囲の見る目は変わっていった。
私は誰よりも強い自信があった。
危険な仕事をこなし、人間が死ぬ場面を何度も目にした。
けれど人間が死ぬのを見ても、何も感じなかった。なんとも思わなかった。
アキラ以外の人間なんて、私にとってどうでもいい存在だったから。
ただひたすらキラーを追い、切り刻み、破壊し、滅ぼす。
何度も何度もその作業を繰り返した。
そして、七年が過ぎた。
ある日私は、再びゼフュルスを訪れた。
本当はもっと早く来るべきだったのだが、どうしても決心がつかなかったのだ。
ここには、アキラと過ごした思い出がたくさん溢れているから。
妹の様子を確認するだけのつもりで彼岸西風に侵入し――そして。
その子を見つけた。
一目でそうだとわかった。
小さな体に美しい顔、そして艶やかな光輝く髪。
優美な姿をした天使。
それは――幼い頃のアキラそのものだったから。
衝動的に、その子をボレアスへと連れてきてしまった。
実の姉だと名乗ることは、できなかった。
私はハルを前にした時、どうしてもアキラを思い浮かべてしまっていた。
違うとわかっていても、アキラとハルを無意識に重ねてしまうのだ。
日が経つにつれ、ハルはどんどんアキラに似ていった。
私は自分の中で、ハルに対して黒い感情が湧き上がってくるのを感じていた。
この子を、私のものにしたい。
父に奪われたアキラの代わりに、この子を自分のものにして、そして――
めちゃくちゃにしてしまいたかった。
私は焦った。
この子を遠ざけなければいけない。
この子を守るために、この子から離れなければいけない。
早く。
早く――
私はハルを置いて、日本へと渡ることにした。
これ以上一緒にいたら、ハルを傷つけてしまうかもしれない。
だから私は、ハルとの接触を避けるために、遠い異国のアマツカミへとやってきたのだ。
この頃から私は、実験を始めていた。
自らの異能でキラーを操り、汚染体や変容体をつくり出す。
利用できる異能遣いを見つけ、ただ――『死』という自分の目的を果たすために。
月日は流れ、そしてあの日――少女と運命の出遭いを果たしたのだ。
砂原雪花。
とてつもない力を秘めた白き死神。
この力なら、私を殺すことができるのではないか。
私は、少女に夢中になった。
一度希望を抱いてからは、そのことしか考えられなくなった。
殺して。
殺して。
私を殺して。
アキラに逢わせて。
アキラと、もう一度――
――そして、出遭いから四年が過ぎた。
何かが限界に来ていた。
それがなんなのか自分でもわからないうちに、ハルと連絡を取っていた。
――私に会いにきて。
いつまでも放ってはおけないから。
ハルと出逢うことで、雪花の力によい影響があるかもしれないから。
いろいろな言い訳を考えた。
そう――言い訳だ。
なぜなら――
誰よりもあの子に会いたがっていたのは、本当は――
「なんだ――やっぱりアキラさんは、黎さんを憎んでなんていないじゃないですか。アキラさんは、全てわかっていたんじゃないですか……」
「……そうよ。アキラはそういう人だもの。アタシの嘘なんて全てわかった上で、それでもアタシを愛してくれた。本当の娘を殺した、アタシを……。人間ですらなかったアタシは、人間になって多くのものを犠牲にした。――お前の母親を殺したのはアタシよ、雪花……」
白き雪華と、
黎き麗人。
そのコントラストはとても綺麗で、美しくて、けれども――ひどく可哀想に映った。
美しい暗黒色の瞳。
今まで見たこともない弱々しい双眸を、無言で見つめ返す。
力なく崩れ落ちたその姿に――これがあの黎さんなのかと、信じられない気持ちになった。
黎き霧はなおも吹き荒れ、夜の世界を侵食してゆく。
この霧は――この闇は、こちらの世界と溟海とを隔てる境界線の揺らぎ。
このままではいずれ悪意が押し寄せ、東京は阿鼻叫喚の地獄図を呈するだろう。
「憎みなさい、アタシを。そして殺すのよ、貴女の人生を歪めた〈悪意〉を」
私は動かない。
黎さんは俯き、地面に吐き出すように続ける。
「さあ、早く――ここでアタシを殺さなければ、アタシはまた同じことを繰り返すわ。やがて肉体が死を迎えたとしても、アタシの意識は消え去ることなく溟海に留まる。そうすればアタシは、また同じことをするはずよ。誰かの意識を喰らって、再び肉体を手に入れる。死ぬ方法を探すために。キラーとどこが違うというのかしら? アタシを殺さない限り、誰かが確実に犠牲に――」
ゆっくりとした動作で、少し躊躇うような仕種をしてから――春はしゃがみ込んだ黎さんを、優しく抱き締めた。
「姉様は――ずるい」
「……ハル」
「姉様は、ずるい」
「…………」
「ずるい……」
「…………」
黎さんの耳元で、春は囁くように言葉を紡ぐ。
「あたしは姉様を、ずっと本当の姉様だと思っていた。彼岸西風から連れ出してくれた時、外の世界を知らないあたしには、『荒野レイ様』だけが頼りだった。だから、レイ様が『姉妹になろう』と言ってくれた時、心から嬉しかった。繋がりを持てることが、家族ができることが、あたしにはとても嬉しかったんだ。名前を捨て、血を棄て――けれどあたしにとって荒野レイ様は――本当のお姉ちゃんだった。血の繋がりがあるかないかなんて、どうでもよかったんだ」
何年もの刻を背負い、その言葉は闇の中を駈ける。
「天明姉様の体も、黎明姉様の心も、あたしにとってはどちらも姉様だ。レイ様じゃなきゃだめなんだ。――あたしのお姉ちゃんは、生まれた時から死ぬ刻まで、ずっと――貴女だけです」
闇が、揺らいだ。
「――黎さんは、逃げるんですか」
抱き合ったままの二人に近づく。
「自分だけ、会いたい人のところへ行く気ですか。私だって――お母さんに会いたいです。でも、私にはその前にやらなきゃいけないことがあるから、償わなきゃいけないことがあるから――今は、行けない」
私は昔、たくさんの人を死なせた。
犠牲になった人達は、きっと、お母さんに会いたいというわがままを、許してはくれないだろう。
だから私は、死ぬまで贖罪を続けなければいけない。
そのために何ができるか、ようやくわかり始めたところなのだ。
「私は黎さんを許しません。それに、黎さんがアキラさんやソラさんに償いたいなら、ほかにやるべきことがあるじゃないですか」
俯き、沈黙する黎さん。
春も私の顔を見ている。
「私に悪いと思うなら、生きてください。死ぬまで、ずっと、ずっと苦しんでください。そして、本当にその体が――天明さんのその体が死ぬ時――私が黎さんを殺します。責任を持って、ちゃんと、やります。だから――」
黎さんが顔を上げた。
「だからその日まで、私の――私達の、お姉さんでいてください。私だって、黎さんが好きなんです」
湿っぽい雪が舞う、照明を浴びた深夜の校庭。
黎さんからはもう、禍々しい気配は全く伝わってこなかった。
漆黒の闇が霧散してゆく。
「ユキ――ありがとう」
春が私に、小さく頭を下げた。
安心したように、黎さんの手を取る。
「姉様、あたしたちは家族だ。三人姉妹――本当の家族。死ぬまでずっと一緒だ」
黎さんは、春に体を預ける。
全ての姉が妹にそうするように、優しく頭を撫でながら。
「春日子――アタシの、可愛い妹……。この子を置いて貴女のところへ行ったら、貴女は怒るわよね、アキラ……。守るって、約束したものね……」
「姉様」
「好きよ――春日子。愛してる。本当は、ずっとこうしたかった……。抱き締めたかった。でも、もう限界――もう、どこにも行かない。死ぬまでお前を守るわ……」
その光景を見て。
ほんのちょっとだけ――二人を羨ましいと思った。
雪花――黎さんが私を見る。
「アタシを姉と呼んでくれるなら、お前はアタシの妹になるのね。いいわ。もう、何も言わない。最後までこの体と共に生きる。お前がアタシを殺してくれるまで……」
「望むところです」
黎さんも私も、そう簡単に死ぬわけにはいかなくなったわけだ。
どちらかの寿命が尽きそうになったら、その時こそ――私は〈黎明〉に刃を向ける。
その日まで、贖罪の生を送る。
そう、心に決めた。
この空から届く雪も、いずれ雨に変わる。
雨は全てを閉ざす雪を解かし、続く季節へと導いてゆく。
終わりのなかった冬の、終わりの始まり。
それは花咲く季節の訪れを、私達に知らせる灯の雨。
春へ向かって疾る冷たい風を浴びながら――
私達は、夜明けへと到る路を往く。
おお、もう……。