【三】
第三部『スターダスト クルセイダース』ッ!(嘘)
作中でまともな戦闘描写があるのはこの章だけなんだですよね。雪は泣いてばかりなので今読み返すと苛々しますね。春の体の秘密を、もうちょっと物語と絡ませればよかったと反省。だからこその『ゆめゆめ恋を怖れるなかれ』なのです(嘘)
駅前のペデストリアンデッキ。
普段とは比べものにならない大勢の人々が、寒さを感じさせず幸せそうに頬を綻ばせ行き交う。ほとんどが二人組。制服姿の学生の男女やスーツ姿の壮年の夫婦、私服姿の若い恋人達。男性だけの五、六人の集まりも多い。同世代の数人からなるグループが浮き浮きと騒ぎながら駅に吸い込まれ、また別の集団が吐き出されてゆく。入口付近で頻繁に時計を気にしながら一人で突っ立っている人は、きっと誰かを待っているのだろう。
煌びやかなイルミネーションが賑やかな街を色鮮やかに染め、駅前広場には大きなツリーに極彩色の電飾がプラスされ、これでもかと存在感を示し自己主張している。
今日は、十二月二十四日。
クリスマスの前夜祭。
時刻は午後六時少し前。太陽は一時間ほど前に本日の仕事を終え、西の空の向こうへと帰宅した。
――あの木、いつあんなに派手になったのだろう。
次々に色を変える巨大なクリスマスツリーを遠巻きに眺めながら、そんな思いを抱いた。
何日か前に光り出して、もうすぐクリスマスか、と思った覚えはあるのだけれど、その時はあんなに派手に光っていただろうか。
そもそもこのイルミネーションはいつから始まったのか。
気づいたら、街がクリスマス仕様へとイメチェンしていた。
――私には関係のないことだ。
隣で手を擦り合わせる春を横目で見ながら、投げやりに考える。
深々と冷え込む夜空の下の駅前で、私達は黎さんと待ち合わせをしていた。下校途中に、黎さんから急に連絡があり、駅前で会うことになったのだ。
柴白高校は大学受験に力を入れている進学校なので、夏休みや冬休みなどの長期休暇を削って授業を行う。そのため夏休みも冬休みもほかの高校に比べ短い。今年のクリスマス・イブは平日なので、まだ冬休みに入っていない私達は今日もいつも通り授業があった。したがって、一旦家に帰ってから駅前にやってきたわけである。
少し早めに到着してしまった。
ただ立って待っているだけなのは寒くて堪える。吐く息の白さが視覚的にも寒さを招く。
こんなに寒いのに、初雪はまだ観測されていないのだから不思議だ。
コートのポケットに両手を突っ込んで、行き交う人々をマンウォッチングしていると、幼稚園児くらいの子供を連れた家族が目の前を通った。その女の子は両手をそれぞれお父さんとお母さんと繋ぎ、相好を崩している。
クリスマス、か――
昔のことを思い返す。
クリスマスの思い出。
「…………」
アマツカミの施設に入ってからのクリスマスは、偽物のクリスマスだった。
きっとあの場所は、私がいてもいなくても変わらなかったから。
私は施設の友達に、今の高校の友達に対してのものよりももっと明確な線を引いていて、自分から他人を遠ざけるような態度を暗に示していた。
だから、誰かと特別親しくなることもなかったし、それでいいと思っていた。
私にとって本物のクリスマスは、小学六年の冬が最後だ。
思い浮かんだ光景を、すぐに打ち消す。
「緊張してるの?」
さっきから落ち着きのない子供のようにそわそわしている春。
「……久しぶりだからな。姉様と会うのは」
前々から疑問に感じていたことだが、どうして黎さんは自分で妹を日本に呼んでおいて、こんなにも春に無関心なのだろう。
黎さんからあった連絡も、『雪花に用があるから、駅前で待っていてほしい』という趣旨のものだった。
『春も連れていっていいですか』と訊いたら、『春日子が来たいなら来てもいい』という、素っ気ない返事が返ってきた。
「姉様の仕事の手伝いって――」
思考を中断する。
「――具体的に何をするの?」
「汚染された人の捜索と捕縛。でも、別に私が何かするわけじゃないよ。いつも黎さんがあっという間に終わらせちゃうから」
黎さんは私に、仕事を手伝ってほしいと頼んできた。
アマツカミ――いや、クニツカミの仕事を。
私は決して、それを断るようなことはしない。
私自身が、望んでいることでもあるからだ。
「あ――」
春が小さな声を発した。
その視線の先には――
「久しぶりね、雪花」
荒野黎の姿があった。
黎さんはロングスカートにショートコートという、いつもと変わらない格好で現れた。
信念でもあるのか、夏だろうが冬だろうが徹底的に肌の露出を避ける彼女の服装は、一年中代わり映えがしない印象である。
黎さんはボレアスの――今はアマツカミの人間。
今日も急に仕事が入ったため、こうして現場に向かっているらしい。
ちなみに、黎さんは仕事の時も常に私服である。
「春日子、元気そうでよかったわ……」
黎さんから話を振られて、春が顔を上げた。その顔から、再会の喜びは伝わってこない。
いつもは助手席に座る私だけれど、今回は春に譲ろうと思い後部座席に座ったのだが、春は私の隣に座った。
つまり今、助手席には誰も座っていない。
「あたしは――大丈夫。姉様の言った通り、ユキはすごくいい人だった」
それはよかったわ――黎さんはただ前方だけを見据え、後部座席を気にかける様子すら見せない。
何かがおかしい気がする。
この二人、仲が悪いのだろうか。
いや、というよりも、黎さんが一方的に――
しばしの沈黙。
車内の空気を入れ替えるために、話題を振る。
「黎さん、仕事の内容は――」
黎さんは短く答えた。
「討滅任務」
「討滅? 捕縛じゃないんですか」
「可能な限り捕縛、困難だと判断した場合は討滅……。そしてどうやら、今回の対象は捕縛が困難な、相当厄介な汚染体らしいわ」
唾を飲み込む。
今まで私が手伝ってきたのは、捕縛難度の低い汚染体が対象の任務だけだった。何度か危ない目に遭ったことはあるけれど、捕縛が困難と言われるレベルの汚染体と関わったことはない。
けれど――黎さんの役に立てるのなら、私は火の海にだって飛び込んでみせる。
「強力な汚染体。滅多にお目にかかれない、キラーに憑かれた人間の成れの果て……。うちの人間が既に、一人殺されたそうよ」
――殺された。
その禍言を心の中で反芻して、ああ、私は今まさに日常からどんどん遠ざかっているのだと、異世界へと歩を進めているのだと、改めて思い知った。
黎さんは車を郊外のほうへと走らせる。
「クニツカミの異能遣いが――ですか」
「いえ、殺されたのは異能遣いではなく、捕縛課の二等衛士。〈生まれたて〉や弱いキラーが相手ならなんとかなったでしょうけれど、ちょっと相手が悪かったみたい……」
『衛士』とは、超能力や異能力を保有していない職員の中で、捕縛や討滅に携わる者に付与される階級だ。黎さんのような異能持ちはその能力によって『方士』『術士』『道士』に区分され、私のような見習いは『諸士』となる。
衛士は異能力者でないとはいえ、十分な戦闘訓練を積んでいるはずだ。どれだけ危ない思想を抱えていれば、それだけの者を殺せるキラーに憑かれるのだろう。
宿主は狂人か。
「一般人に犠牲者は出ているんですか?」
「ええ。犠牲になった人は皆、鈍器で執拗に殴られて殺されているわ。二か月ほど前に起きた殺人が一番初めの事件かしら……。そのあと、二十人以上殺されている。狙われたのは全て若い女性ね……」
「それって――もしかして、報道規制されている連続殺人ですか? 結局うやむやになった事件の……」
以前、千歳さんが似たような話をしていたのを思い出した。
彼女は途中で宇宙人がどうとか言い出したので、そちらの記憶が強く残ってしまい事件のことはすっかり忘れていた。
「あの事件、まだ解決していなかったんですね」
女性だけを狙って殺し続けているということは、きっとその人自身、女性に対して何かしら負の思いがあったのだろう。女性とのトラブルを抱えて、怨みでもあったのかもしれない。
マイナスの感情は悪意を呼び寄せる。
キラー自体に『殺すという意志』以外の意思が内在していることは稀であるため、本人の悪意を増幅された可能性が高い。
超能力者だったのか潜在的に力があったのか、それとも何の能力もない一般人だったのかは定かではないが、運悪く――海の底に引き摺り込まれてしまったのだ。
「私達はどこへ向かっているんですか?」
夜の暗い道路を、さらに深い闇へと誘われるように車は進む。
辺りには民家の外灯がぽつりぽつりと仄めくのみ。随分と郊外へと来たようだ。
「この辺りにある建築工事の現場に追い込んだという連絡があってね……。人手不足なのもわかるけれど――」
やれやれ、と黎さんは呆れた仕種で窓の外を見遣った。
「あれね……。ここからは歩いていきましょう」
薄暗い街路灯。
周囲には途中で工事が中止になったのかそれとも休工中なのか、ところどころ鉄骨が剥き出しだったり窓ガラスが割れていたりする建築物が、広々とした更地にいくつも取り残されている。アウトレットモールでも開設するつもりだったのだろうか。
黒に染まった空へと不気味に伸びる鉄の塔の群れ。その中で最も巨大な、外観はわりかしまともな建物に、明かりが灯っている。
あそこだ。
春が先に車から下りたので、私は車内に残っている黎さんに声をかけた。
「黎さん、あの――この仕事が終わったら、うちに帰ってきてくれませんか? 最近あまり話していませんし――それに、春だっているじゃないですか」
黎さんは運転席から後ろを振り向いて、微笑みに似た――けれどもどこか違う、アルカイック・スマイルを浮かべた。
懐かしい、優しい表情だった。
「そうね、久々に帰ろうかしら……」
私は。
私はどんな表情をしていただろうか。
黎さんは、私にとって特別な人。
姉でもなければ友達でもないけれど。
私が今ここにいることを許してくれる存在。
黎さんがいなかったら――今、私はここにいない。
「そんな顔をしないで。ちょっと会えなかっただけでしょう? お前をアマツカミに誘ったのはアタシだもの、最後まで面倒は見るわ……。それに、お前のことは気に入っているの。手放すわけがないわ」
「…………」
「アタシがいなくても――」
語調を強めて。
「――これからは春日子がいるわ。春日子はお前の傍にいてくれるでしょう。だから、あの子に優しくしてやってね――雪花」
「どうして――黎さんは春に」
――不意に、頬にひんやりとした柔らかな感触。
頬に、黎さんの掌がそっと触れている。
驚いて、口にしようとした言葉を引っ込めてしまった。
「あの子のことは、今は訊かないで……。お願い」
「黎――さん」
黎さんは私に囁く。
私の中の、何かに語りかけるように。
「……わかりました」
「ありがとう。いい子ね、雪花」
頭を撫でる、黎さんの手。
きっと、黎さんに言われればなんでもしてしまうのだろう――私は。
◆
幽霊――死者の霊が生前の姿となり現れたもの。
生者を悩ませ、生者に畏れられ、時には崇められる、不確かな存在。
ずっと昔、幼稚園に通っていた頃は、私もその存在を信じていたと思う。けれど小学校に入学した頃には、どうだろう、もうそんなものいるはずがないと決めかかっていた気がする。
私が思い描いていた幽霊像は、人間は死ぬと天国か地獄のどちらかへと行き、そして死んでもなおこの世に未練のある者は成仏できずに霊となって姿を現す――こんなところだ。
今はもう、死後の世界なんて信じていないし霊などというものは存在しないと断言できる。テレビや雑誌で取り上げられる心霊写真なんて、信じるほうがどうかしている。
人間の脳は『顔』を認識する際に特別な力を発揮するという。
例えば、生まれたばかりの赤ん坊の視力はわずか〇・〇〇一程度にもかかわらず、母親の顔をちゃんと認識し反応する。人間は生まれた時から、顔を判別し認識できる力を持っているのだ。
この、一種の超感覚的能力は視力が発達したあとも失われない。顔のような形の雲や木が目に留まったり見え隠れしたりするなど、何もないところにも『顔』を見分ける能力を、私達は生まれつき備えているのである。
つまり、心霊写真に映っている『顔のように見えるもの』は、私達の特殊な力がもたらした思い違いに過ぎないと言えなくもない。相貌失認の患者にはただの模様にしか映らないし、その程度のものなのだ。
私は幽霊を信じていない。
信じていないけれど。
『この世界は二つの世界が織り重なってできている』
――という現実は受け入れている。
意識を有する者の全ての意識は、意識の海――溟海と繋がっているという。
そして、この世界と溟海は重なっているのだ。
溟海は時間も空間も定義されず、観測することさえ不可能。どこにでもあり、どこにもない。超能力者は、微力ながら『溟海にアクセスできる力を有した者』と定義されることもあるが、それは一時的に接続できるだけであって、もっと、さらに深く潜る力を、研究者は求めている。そこへ意識的にアクセスできれば、世界の全てを識ることができると信じているからだ。
PKについてはまだ研究が進んでいないが、ESP同様、こちらの世界の内側だけで完結する力ではないとされている。
例えば「物を動かしたい」という能力者の念は、一度溟海に渡り、そして再度そちら側からこちらの世界に働きかける、といったものだ。
基本的に、溟海は超能力者が力を発揮した場合を除き、『こちらからは干渉できないもの』とされ、逆に、向こうからもこちらには干渉できないとされている。
基本的に――というのは、昔から人間が解明できない謎や神秘、超常現象の類は、溟海――いわばあの世からの使者の仕業とする説が今でもあるからだ。
迷信――と言ったほうがいいかもしれないが。
溟海は冥界。
亡者の牢獄とされるアスポデロスの荒野。
死者の魂と生者の魂が混在し、現実世界で起きる超常現象はそこの住人の悪戯――干渉によるものなのだという。
しかし、キリングダイバーの存在が暗に認められ、世に影響を与えるようになってからは、あながちこの考えも間違っていないのではないかと思う。
現に溟海を游泳する悪意は、境界を飛び越え私達の世界に干渉してきている。
しかも問題なのは、キラーは『あちら側の法則』をこちら側でも無理やり適用していることだ。
キラーを滅ぼすには、私達もその法則に逆らうしかない。
それは、つまり――
二つの世界が織り重なってできているこの世界。私達は生きながらにして、死者と同じ世界に存在しているのかもしれない。
生きているのに、死んでいる。
死んでいるのに、生きている。
私は幽霊を信じない。
天国も地獄も信じない。
死後の世界を信じない。
溟海のことだって、全てを信じているわけではない。
けれど。
本当に、その海に全ての意識が眠っているのなら――
死んだら、大好きな人に会えるのだろうか。
◆
鉄骨が重々しい威圧感を放つ、一際大きな建築物。
周囲はフェンスで囲われており、工事車両の搬入口であろうゲートがあった。
そこにいたのは、揃いの黒スーツを着用した三人の男。腰に拳銃やら短剣やらを装備している。工事現場に設置されている照明を受け、胸元できらりと光る小さな金色の徽章。
言うまでもなく、アマツカミの――しかも戦闘を生業とするクニツカミの、討滅課の職員だ。
捕縛ではなく、汚染体を破壊するのが彼等の仕事である。
三人のうち若い二人はどうやら怪我を負っているようで、腕や頭に応急処置を施している最中だった。
待っていましたよ、荒野さん――その中でも一番年長だろう、四十代半ばくらいの髭面の男が黎さんに話しかけた。
「先ほど、突然貴女がここへ来ると連絡を受けて驚きましたよ。わざわざ申し訳ありません」
プロレスラーを思わせるがっちりとした体躯の男だ。
「そうですか……。――それで、標的は?」
「我々がこの建物の上へ追い込みました。しかし厄介な奴でしてね、銃は効かないわ動きは速いわで、えらい苦労しましたよ。いくらか体に損傷を与えましたんで、仕留めるのも時間の問題でしょうがね」
離れたところから、手に持ったものを握り締め二人の会話に耳を傾ける。
「わかりました……。本部はこれ以上被害を出さないために、アタシをよこしたのでしょう。何しろ、今回は既に職員が殺されていますし、通常の汚染体とはわけが違うようですから……」
「それを聞いて安心しました。――ああ、ちなみにご存じだとは思いますが、標的には『許可』が下りています。何十人もの命を奪ったのですから当然ですが、それくらい危険な相手だということです」
許可――殺してもいい、ということか。
背筋が寒くなる。
高さ百メートルはあろうかという古びた塔を、静かに見上げる黎さん。
その瞳に、獲物を狙う猛鳥の鋭さを湛えて。
ところで、そちらのお嬢さん方は――男が私と春を順番に見据えた。観察するような、べたべたと粘つく視線が気持ち悪い。
「彼女達はアマツカミの関係者です。――雪花」
私は手にしていたもの――車のトランクに積んであった、ずっしりと重く細長い物体を黎さんに手渡す。
グレートソード。
時代背景を完全に無視した、黎さん愛用の武器。
革の鞘に収まったその剣太刀は私服姿の黎さんには完全にミスマッチなのだが、不思議と、彼女の美しさをより一層引き立てていた。
「春日子、お前はここで待っていなさい……。寒いなら車に戻ってもいいわ」
「……ここで待ってる」
次いで黎さんは、お前はアタシと一緒よ――と、私に目を向けた。
覚悟を決めて頷く。
「大丈夫……アタシがいるわ。それに――」
黎さんは私の耳元で囁く。
「――お前の力を試す、いい機会じゃないかしら?」
体が硬くなる。
心臓が跳ね上がる。
「では、我々は後始末の手配をしてますんで、あとはよろしくお願いします。こいつらを医者に診せなきゃなりませんし。終わったら声をかけてください」
スーツの男達が離れてゆくのを横目で眺めながら、「さあ、行きましょうか」と黎さんは言う。
もう逃げられない。
「姉様、ユキ」
春が不安そうにこちらを見ていた。
春の目を、正面から見つめ返す黎さん。
二人の目が合っていたのは、三秒ほど。
「気をつけて」
黎さんは一言、ええ――と返事をした。
「すぐ戻るよ」
自分を鼓舞する意味も込めて、私は言った。
黎さんは右手で剣を抱え、歩を進める。
私はそのあとを、離れないようにくっついていった。
その建物はがらんどうだった。
一階は、あのスーツたちの戦闘の痕跡がありありと残っており、まるで爆弾テロでもあったのかと錯覚しそうな惨状を呈していた。壁には無数の亀裂が走り、窓ガラスには弾痕が数えきれないほどあった。元々何も置かれていなかったのか、特に散乱しているものはない。何か置かれていたら、このフロアにあったものは全て破壊の限りを尽くされていたに違いない。
こうして照明が点いているのだから電気系統は生きているはずだけれど、エレベーターは反応しなかった。
黎さんのあとについて、無言で階段を上る。
上へ上へと。
靴音だけが二人の間に響く。
口の中は乾き、手の先は冷たくなっていた。
何か、胸騒ぎがする。
――私は、この先にあるものを知っている気がした。
ひたすら上り続けて、二十階の表示が見えた頃。
黎さんが足を止め、口を開いた。
「いるわ……」
「え」
「どうやら最上階に逃げ込んでいるみたいね……。キラーが宿主の傷を気にするなんて考えづらいから――」
「…………」
「もしかしたら、智恵を得ているキラーかもしれないわね……。仮にそうだとしたら、『人を殺したい』という宿主の執念・妄念が半端じゃない。その負の感情のせいでキラーにつけ込まれたのでしょうけれど――」
黎さんは剣を肩に担ぐ。
「下にいたうちの異能遣いが三人がかりでも仕留めきれなかったのには、やはりそれなりの理由がある……。所詮はただの汚染体がそこまで厄介とは思えない」
顎に手を当て、考え込む仕種をする黎さん。
もやもやした空気が渦巻いたまま、再び階段を上り始める。最上階まではあとわずか。
肌に触れる空気は重く、濃い。
ちくちくと。
ぴりぴりと。
針で刺されるような緊張感。
そして――
その男は、いた。
最上階、階段の一番近くにある大きな一室。
扉は開け放たれ、ただならぬ、どす黒い気配が溢れている。
異様で、異質で、怪奇で、怪異。
その部屋の中央、男は何をするでもなくぼうっと天井を見上げ佇んでいた。
よれよれの服は至るところが破れ、穴が開いている。ぼさぼさの髪に口周りに生やした髭は、まるで浮浪者だった。右腕には、もう本来の用途を果たせないぐにゃぐにゃと湾曲し凹んだ金属バットを、力なくぶら下げている。
――あれで何人もの女性の命を奪ったのか。
しかし何よりも目を引いたのは左腕。二の腕から先がないのだ。綺麗さっぱり、服の袖ごと、男の左腕は跡形もなく消えていた。あのスーツたちがやったに違いない。
表情は死人のそれで、血の気の通っていない蒼白な顔面に、濁った双眸。
もう何度も見てきた、悪意に汚染された者の末路。
私は額の真ん中辺り、眉間白毫相と呼ばれる場所に、意識を集中する。
織り重なったもう一つの世界、あちら側を見るために。
――男からはうっすらと、薄紅色の湯気が立っていた。
「さて、聞こえていないでしょうけれど一応言っておくわ……。大勢の女性を殺したのは、貴方ね。放っておけば、貴方は死ぬまで殺人を続けるでしょう……」
黎さんは男ではなく、男に巣くうものへ向けて言い放つ。
「人の心を弄び喰らうもの。キラーはアタシが全て――」
その言葉に反応したのか、それとも女である私達が近くにいることに反応したのか。
男は上を向いていた顔を下げ、黎さんを目視して。
虚ろな目で、嗤った。
黎さんは剣を抜き放ち、鞘を私に放って。
暗黒色の美しい瞳で、いつもの笑みを浮かべた。
それが合図。
男は黎さんとの距離――十メートル以上を一瞬で詰めると右腕のバットをフルスイングした。黎さんは避けることもせず剣で受け止め、腹に蹴りを見舞う。よろけた男に袈裟懸けに剣を振り下ろすがバットで捌かれる。剣とバット、金属同士が耳障りな音を奏でた。男がそれこそバッターのように、右腕で横殴りに黎さんを狙った。剣で受けるが、衝撃を逃がしきれず体ごと壁まで吹き飛ばされる。追撃。直前まで黎さんの背後にあった壁にバットがめり込み、壁とバット、両方の破片が飛び散る。しかし黎さんは既に男の背後に回り込んでいた。男が振り返る前に、電光石火の早業で剣を薙ぎ払い横腹にヒットさせる。鈍い音と共に男がたたらを踏む。あのグレートソードは切るというよりむしろ打撃用の武器だ。質量と遠心力で相手を殴り飛ばすための武器。女性が片手で振り回せる重さではないが、黎さんには関係ない。
今の黎さんの身体能力は常人を遙かに超えている。
黎さん曰く、ESPの応用。
他者の意識ではなく、自分自身の意識への干渉。研ぎ澄まされた神経は思考と行動の一体化を促進する。さらに体感時間を操作し、刹那を劫へと引き延ばす。とてつもない高速で移動すると、時間の流れは遅くなるというアインシュタイン時間。過剰な表現をすれば、彼女はその時間感覚を支配しているのだ。
一撃を食らった男はそのまま倒れ――るどころかすかさず反撃に転じた。目にも留まらぬバットの連続攻撃。再び壁際まで追い込まれる黎さん。肩口をバットが掠める。黎さんの動きに食らいついてくるとは信じられない。黎さんが常人を超える超人なら――
敵は人外の化物だ。あんな動きをする人間はいない。
黎さんは横っ飛びで攻撃を躱し、壁際から部屋の中央に脱出する。剣で肩をとんとん、と叩く。
「あまり体に損傷を与えたくなかったけれど、仕方ない。――切るわ」
切る。
切る、ということは――
「不思議よね。大して色は濃くないのに、どうしてここまでの力があるのかしら……」
心中で同意する。
溟海の存在――キリングダイバーは、こちらの世界に顕現する際、『色』を持つ。というより、私達自身が向こうの存在を色で区別し知覚するのだ。
意識の色――意志の色。
常人には確認できないが、訓練を積んだ大抵の超能力者には見える色だ。織り重なった二つの世界で、一方が境界を越えた時に見せる色。
キラーに憑かれた人間からは、色を持った靄のようなものが絶えず噴き出し続ける。色は赤・青・紫などが多く、微弱な意志しか持たないキラーの色は総じて薄い。反対に、強固な殺戮衝動を孕んだ意志ほど濃く深い色として知覚されやすい。
ESPやPKの如何にかかわらず、超能力の発揮にはイメージが重要だ。相手の姿を思い描いたり物体がどう動くか想像したり、イマジネーションが豊かでないと、超能力は最大限に効果を示さない。
その際、最も想像力・集中力を高めるには額の中心辺りに意識を集中するのがよいと言われる。〈三ツ目〉という、超能力の威力を高めるため眉間に穴を開ける集団すらいる。
私は眉間に意識を集中し、隻腕の男を改めて視た。
男が纏っている色はありがちな薄紅。先日私を襲った汚染体と質も量もほとんど同じなのに、この異常な力はどこから湧いてきているのか。
黎さんは剣を男に向け、正眼に構える。
刹那の静寂。
――空気が、震えた。
黎さんの体から、男のものと同じ種類の霧が噴き出し始める。
常人には知覚できない、半透明の霧。それはゆらゆらと、黎さんの意思に呼応し量を増してゆく。
男と完全に異なるのは、その色だ。
黎さんが纏うは、黒。
夜明け前の、空の暗さ。
黎き霧は黎さんの肢体を包み込み、剣の切っ先まで覆う。
霧の影響で、霞がかかったように姿がぼやけた。
そして霧を剣に移動させ、一回り大きな刃を形成する。
この霧は、こちらの世界には存在しないもの。
こちらの世界にあちら側――溟海を具現した、いわば意志の刃。
男のように微弱な靄ではない。
黎さんのそれは、意志によって意思に従い、溟海との相互不干渉の法則を破る、キラーに抗する力――異能。
男は黎さんに突進する。右腕を振り上げながら。
その場から動かず、迎え撃つ黎さん。
二人が交差する――瞬間。
一閃。
男の右腕が体から分離し、宙を舞った。
一拍置いて、肘の上辺りから切り落とされた腕と、真っ二つになったバットがそれぞれ床に落下する。
黎き霜刃。
黎さんの異能は、断ち切る力。
黎さんによると、絶好調時のあの剣で切れないものは、この世界に存在しないらしい。纏っている霧がこの世界のものではないため、触れたものは全て切断されるのだ。
絶対両断、必殺の剣。
どうしても剣が必要なわけではなく、手刀や腕、足でもできるのだが、大事なのはイメージであり、何かを切るという想像は手元に刃物があったほうがうまく働く。実際に、そのほうが威力を増すのは事実である。
黎さんは床に落ちた腕と、両腕を失い壁際で自分を見据える男を交互に瞥見すると、「そういうこと、ね」と呟いた。
「…………?」
「もう死んでるわ」
「え――」
「出血が少なすぎる……。アタシたちが来る前かアタシとやり合ってる最中か……」
既に死んでいるということは、この男はキラーの殺戮衝動によってのみ動かされていたのだろうか。
生前の、キラーによって増幅された悪意、その残り滓だけで――
「本当はなるべく傷つけず死なせてあげたかったけれど、もう死んでいる上に――まだ動くなんてね」
両腕がないことに気づいていないのだろう、男は前傾姿勢で黎さんと向かい合う。
「捕縛したとしてもあの牢獄みたいな研究所で頭を弄られるだけ……。ここで肉体に損傷を与えないよう死なせて、五体満足で弔ってあげたかったのだけれど――」
黎さんは構えない。
「もう死んでいるんだものね……」
頭を突き出し、男が黎さんに突っ込む。
その顔面を――
黎さんの右拳が打ち抜いた。
男は五メートルほど空を飛び、後頭部から床に着地する。墜落と言ってもよかった。
顎の骨は砕け、歯は大部分が抜け落ち、顔の輪郭は歪。
仰向けに倒れている男の胸をブーツの底で踏みつけ、床と挟んで拘束する黎さん。
「宿主を壊してしまえば――切り刻んで人間としての姿形を壊してしまえば、如何に死人に取り憑くキラーといえどもどうすることもできないわ……。行き場を失った悪意は溟海に還るか――」
喉元に剣を突きつける。
「また別の人間に憑くのでしょう。キラーを完全に消滅させる力は、アタシにはない……」
私はただ黎さんの声に耳を傾ける。次に発する言葉の予想はついていた。
「アタシには、ね。――雪花、彼を救ってあげて。もう死んでいるけれど――せめてこれ以上の苦痛を与えないように」
黎さんは、嘘を吐いている。
黎さんはキラーに容赦はしない。
冷静に、冷徹に。
私情は挟まず、仕事に徹する。
キラーを消滅させることができなくても、普段の黎さんなら、宿主を確実に仕留められる時に仕留めている。つまりいつもなら、そこで動きを封殺されている男はとっくにばらされているはずだ。
だからこれは、私に機会を与えるための方便だ。
力を使う機会を。
黎さんは、私を試している。
その期待に、応えなければならない。
――黎さんのために、私は。
渇いた喉に、無理やり唾を流し込む。
気持ちの整理すらできぬまま、男に向かい、ゆっくりと近づいた。鞘を黎さんに渡す。
あの日の映像が早送りで、脳裏を駈け廻る。
大丈夫。
私は大丈夫。
怖くない。
怖くない――
心臓の鼓動はまるで雷鳴のように轟き、このままでは死ぬのではないかと不安になるくらい速い。
無言の黎さんのすぐ横に位置し、男の顔を凝視する。
目を閉じて、眉間に意識を集中。
もっと強く。
もっと深く。
目を開き、男を視る。
薄紅色の、意志の光を。
男の中へと、内側へと、意識を潜り込ませる。
織り重なったもう一つの世界の、今、ここに存在している意志。
その意志に干渉し、あちら側へ渡る力――
世界が爆ぜた。
そこは、辺り一面の雪景色だった。
辺り一面、雪以外には何もない、気が遠くなるくらい真っ白で平坦な世界。
地平線の果てまで続く、不気味なまでの冬景色。
いや――
遠くで、赤い光が見える。
その光に懐かしさを覚え、駈足で近寄る私。
それがなんなのか確認できるところまで近づいて――
私はその光景に戦慄し、竦み上がった。
その光は。
「――――」
その光は――
赤くて、赫くて、紅くて、朱くて、緋い――
鮮血の色。
そこにいたのは――鬼。
赤い、血の色をした巨大な鬼だった。
「――――」
鬼の足下には、血の海が拡がっていた。
一人の、髪の長い女の人が、真っ赤な海に溺れ横たわっている。
貫かれた空洞の腹部を晒して。
抉られた内臓を撒き散らして。
真っ白な雪が、真っ赤に染まっていた。
「――――」
髪の長い、黒髪の、長い髪の、髪の黒い黒い髪の黒い長い黒い長い黒い長い黒い長い赤い黒い赤い黒い赤い黒い赤い赤黒い赤黒い赤黒い赤黒い赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤赤!
「――――お母さん」
死んでしまった。
お母さんは、死んでしまった。
大好きだったお母さんは、もういないんだ。
どうして。
どうして死んじゃったの。
お母さん――
……………………。
見ていたのか。
お前は私を見ていたのか。
鬼は――私を見て嗤っていたのか。
四年前の冬から、ずっと――
喉から自分のものとは思えない悲鳴が漏れ、壁際まで飛び退っていた。
気持ち悪い。
吐き気がする。
頭の中がぐちゃぐちゃで、黎さんが何を言っているのか理解できない。
私は、知っていたのだ。
男の中に巣くうものの正体を。
見ると、黎さんは私に気を取られ――男から足を離し、警戒を緩めてしまっていた。
男の変化に気づくのが遅れる。
――爆発。
男の体が爆発した。
まるで噴火のように、内部から弾け強烈な勢いで何かを放った。
その衝撃で、私も黎さんも床を転がり部屋の隅まで吹き飛ばされる。
壁に強く背中を打ちつけ、息が詰まる。黎さんはしっかりと受け身を取って、私を庇うようにさっと体勢を整えた。男の変貌ぶりに全く慌てることなく、様子を窺う。
男は仰向けのまま不自然に体を震わせ、びくんびくんと小刻みに痙攣したかと思えば、心停止の人が電気ショックを受けたかのようにいきなり大きく体を弾ませる。
その身から発せられる霧が、濃くなってゆく。
半透明の薄紅色だったその霧は、次第に真っ赤な血の色へと変移し、量もどんどん増えてゆく。特に、失った両腕の断面からは瀑布の如く噴出していた。
男に絡みつくそれは、だんだんとある姿を形成してゆく。
そして。
震えを止め、霧を纏った男が静かに立ち上がった。
天井に届く巨大な上背。
太い手足、鋭く伸びた爪。
無数にある、尖った角とぎょろ目。
上下の両顎には牙が二本ずつ。
鮮血の異形。
それは――
忌まわしい、醜怪な容貌の鬼だった。
「変容体……。やはりただの汚染体ではなかったようね。ここまではっきりと知覚できるタイプは珍しい……。宿主が死んでいる以上、てっきりキラーも消えていくかと思ったけれど――刺激したせいで起こしちゃったのかしら……?」
キラーが人間の意識に宿った汚染体は、人外の力を操ったとしても、それはこちらの世界の法則の範疇だ。物理法則――こちらのルールには逆らえない。人体が破壊されれば意識だけではどうすることもできないので、悪意はどこかへと消えてしまう。
よって、汚染体はなるべく殺さずに捕縛後、研究所に送り込み薬漬けにし、研究という名目の人体実験に利用される。
一生目覚めることのない実験に。
つまり根本的な解決にはならないが、汚染体は宿主の人体を破壊さえすれば、殲滅はできるのだ。
しかし、〈変容体〉はそれが難しい。
変容体は、キラーがあちら側の世界の法則を伴って、人間の意識に宿ったものだ。
あの姿を形成している霧は溟海の存在がこちらの世界で形を持ったもの。一方的な干渉をしてくるため、向こうからこちらの世界に影響を与えることはできても、こちらからあの霧に干渉することはできない。干渉するには相互不干渉の法則を破り、こちらも溟海に踏み込むしかない。
それができるのは、黎さんのような異能を持ったイレギュラーのみ。
この鬼は――
あの時、私が消し去ったとばかり思っていたのに。
「女性を狙う鬼、か……。若い娘を襲って食べる鬼なんて、説話には有り触れているものね……。この国で恐怖の象徴とも言える鬼の姿を取るということは、並大抵の悪意ではない――と」
悪鬼。
悪の権化。
私の目は、四年前と全く変わらない、鬼の姿を知覚していた。
頭が真っ白だ。思考がぐにゃぐにゃでまともに働かない。
私は何をしているのだろう。やらなければならないことがあるのに、目の前の現実が夢の中のできごとのように感じられる。
呼吸の仕方がわからない。
苦しい。
足に力が入らない。
壁に凭れかかるのが精いっぱいで、立つことすらできなかった。
黎さんが――怪訝な目で私を見つめていた。
「――――――――――――――――!」
男が――鬼が、咆哮した。
普通の人間には聞こえない、心臓が直接握り潰されるような重低音。
それは歓喜の叫びか、悲哀の唸りか。
赤い霧の向こう、肩口から先の、途中までしかない短い右腕を振り上げる男。それに連動して、鬼の極大な腕が振り上がる。
私を抱きかかえ、黎さんはそのまま大きく跳躍して壁際から離れた。鬼が腕を振り下ろす。
轟音。
砲弾のような一撃。凭れかかっていた壁と床が、跡形もなく消し飛んだ。
「しっかり掴まっていなさい……」
返事の代わりに、ほっそりとした黎さんの首に回す両手に力を込める。降り注ぐ砲弾の雨。暴れる鬼。床や天井に穴が開き、頭上に真っ黒な空が覗く。
黎さんの胸元で目を閉ざし、きつくしがみつく。小柄とは言えない私を抱えているにもかかわらず、黎さんはそれを微塵も苦にせず鬼の攻撃を回避する。
浮遊感と小さな衝撃に襲われたあと、閉じていた目を開く。
そこは屋上だった。
天井に開いた穴から抜け出たのだと、ぼんやりした思考が告げた。
黎さんは私をコンクリートの地面に優しく下ろした。
足下が覚束ない。ふらふらとした足取りで端にある鉄柵を掴み、体を支える。
地面が、ビルが揺れている。砲声のような轟音と共に、地面を突き破って鬼が飛び出してきた。
着地し、黎さんと対峙する鬼。
さっきよりさらに大きくなっている。身の丈五、六メートルはあるだろう。
鬼を睨み据える黎さん。
黎さんも鬼も、立ち尽くしたまま動かない。
「――フフ……」
唐突に、奇妙な声が耳に届いた。
笑いを噛み殺したようなそれは、誰の声かすぐにはわからなかった。
あまりにも、普段の黎さんとは違う笑い方だったから。
「そう……そういうこと……あの時の――」
何がおかしいのか、黎さんは嬉々とした表情で言った。
「オ……オン ハ、 ス……」
鬼が啼く。
圧倒的な脅威と恐怖を体現せし鬼。
鋭い爪を突き出し、黎さんに狙いを定める。
「オ ハ、コロス……」
地獄から届くような、不明瞭で聞き取れない不快な声が鳴り響いた。
霧を纏った黎さんは、悠々とした動作で鞘を放り投げ抜剣する。
地面に落下した鞘が、乾いた音を立てた。
その音に反応したのか、鬼が突進。爪で黎さんを貫こうと、上から右腕を振り下ろす。黎さんはその攻撃をあっさりと躱し背後へ回り込む。飛び上がって鬼の後頭部へ一振り。黎き剣が、鬼の首から上を豆腐のように切り落とす。刹那の早業。切り落とされた首は一瞬で霧散し消えた。しかしそれと同じ速度で、鬼の首から上は元通りに再生する。鬼の懐に臆することなく踏み込み、剣を薙ぐ黎さん。黒と赤の舞踏。鮮血の花が、咲いては散ってを繰り返す。
宿主を完全に破壊するには、鬼を形作るあの赤い霧を突破しなければならない。常人には不可視のあの霧の前には、通常の武器兵器など何の意味もなさない。向こうから触れることはできても、こちらから意識的に損傷を与えることは不可能だからだ。それが可能なのはあの霧と同じ力のみ。
異界の力を思うままに振るう黎さんと鬼。
目の前で、あまりにも現実離れした光景が広がっている。
黎さんは横殴りに飛んできた拳を浴び、鉄柵まで十メートル以上吹っ飛ばされていった。
そして、そのまま鉄柵ごと――屋上から落ちていった。
声を上げることすら忘れ、私はただ呆然と地上を見下ろす。
――まずい。
どう考えても、この状況はまずい。
まさか、黎さんが?
いや、黎さんの心配をしている場合ではなかった。
自分は今、絶体絶命の危機を迎えていた。
「…………ッ!」
鬼が動き出したのが見えた。私のほうへと歩み寄ってくる。
殺される。
私は、やはりこいつに殺されるのか。
鬼が腕を伸ばす。
身動きすらできず、赤く巨大な腕が眼前に迫る。
その指先が私に触れた瞬間。
頭の中で何かが弾けた。
雪が舞う。
『私』はベンチに腰かけていた。
隣にはありきたりなデザインの制服姿を身につけた、ショートカットの少女が座っている。
一方の『私』は、私服姿に背中に届くくらいの長い髪。傍らには赤いランドセルが置かれている。
『私』達は公園に備えつけられた木のベンチに座り、肩を寄せ合っていた。
「――――――――」
それは――
とても、とても懐かしい声で。
ずっと、ずっと聞きたかった声で――
――うん。『私』も、ひーちゃんのこと、大好きだよ。
雪が舞う。
雪が積もった地面には、二人の足跡だけが仲良く残っていた。
「――――――――」
うん……。
好きだった。
大好きだったんだ、『私』。
ひーちゃんのことが、本当に好きだったんだ。
瞳に大切なものを映して。
心に大切なものを宿して。
『私』は、幸せだったんだ。
もうやめて。
どうしてこんなものを見せるんだ。
どうして私を苦しめるんだ。
鬼。
お前は私から、何もかも奪ったじゃないか。
これ以上、何を望むと言うの。
もう、十分でしょう?
だからもう、やめてよ。
これ以上は――
雪が舞う。
絶望へと向かい、『私』は進む。
ベンチから立ち上がった『私』と彼女は、公園の出口付近で足を止めた。スーツ姿の中年の男の人が、奇妙な目つきでこちらを窺っていたからだ。
その人は『私』達が公園から出るのを妨げるように立ち塞がった。
『私』は怪訝に思いながらも、男の人を避けて通ろうとした。
次の瞬間。
彼女の姿が視界から消え、ほぼ同時に、離れたところで音がした。反射的に音のした方向――『私』達の足跡が残る公園の中――に目を遣ると、地面の雪を散らし、彼女が俯せに倒れていた。ぐったりとして動かない。
『私』は突然のことに状況が飲み込めず、男の人に視線を戻した。
そこで気づく。
男の人が着ているスーツとワイシャツに、赤黒い染みがべったりとついていることに。
だんだんと怖くなって後退る。
彼女の元へ駈け寄ろうと、男の人に背を向けたその時。
突然、体が言うことを聞かなくなった。
両腕が動かせない。
身動きが取れない。
腕ごと押さえつけられ、巨大な何かに掴まれているような感覚。
けれど体を見下ろしても、『私』の目にはただ自分の脚が映るだけ。
そして、混乱する『私』にさらに追い討ちをかけることが起こった。
体が宙に浮き、地面が遠のいてゆく。
抵抗しようにも、わずかに動かせる足を必死にばたつかせることしかできなかった。
いきなり、公園の外の道路のほうへと『私』の体は空を飛んだ。ジェットコースターに乗っている時みたいな、内臓が締めつけられる感覚のあと、全身を激しい衝撃と苦痛が襲った。地面に叩きつけられた挙げ句、慣性に逆らえず雪の上を為す術なく滑り、転がる。
あまりの痛さに息ができない。
怖い。
何が起こっているのかわからない。
手足が震える。
体が思うように動かない。
ふと、涙に滲む視界が、赤いものを捉えた。
それは、はじめなんなのか理解できなかった。
顔は見えないけれど、人だってことはわかる。
若い女の人だと思う。
赤い――赤い女の人。
若そうな――赤い女の人が。
道路の端に、無造作に置いてあった。
女の人も、女の人の周辺に積もった雪も、辺り一帯が赤い。
それは、はじめなんなのか理解できなかった。
でも理解するしかなかった。
それは――血の海に沈んだ人間だった。
うわごとのように彼女の名前を呟きながら、痛む体をなんとか起こしひーちゃんのところへ向かう。
足を引き摺りながら、それでも駈足で寄ってくる彼女の姿が見えた。
彼女は『私』の腕を掴んだところで、絶句した。
いつの間にか『私』の傍に――あの男の人が直立していたのだ。
『私』も彼女も、金縛りにあったみたいに硬直して動けない。
怖い。
怖い。
怖い。
誰か助けて。
誰か助けて。
誰か助けて。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ。
逃げなきゃ!
きっとあまりの恐怖に頭がおかしくなってしまったのだと、『私』の冷静な部分が告げた。
なぜなら――
いつからか『私』には、男の人が巨大な赤い化物に取り込まれてしまったように見えていたから。
醜悪な容貌。尖った角に、口に納まりきらない牙が怪しく光る。太い腕の先には、象すら容易に貫けそうな鋭い爪。
ぎょろぎょろと気持ち悪く蠢く複数の眼が『私』を射貫いた。
その化物の透けた腹の中で、男の人が変わらずに立っている。
これは『私』の弱い心が映す幻影なのだろうか。
きっとそうだ。
そうに決まっている。
化物が右腕を大きく振り上げた。その動作はやけにスローモーションに感じられた。
あれを振り下ろされたら、『私』達は死んでしまう――本能的に、そんな感じがした。
死ぬ。
死。
死ぬ。
どうして。
死にたくない。
助けて。
誰か助けて。
お母さん!
化物が振り下ろした腕は、『私』には当たらなかった。
その代わりに。
『私』を庇って、誰かが鋭い爪に串刺しにされた。
赤い液体が飛び散り、生温かいそれは私の顔と服を汚した。
その人は『私』の名前を叫びながら『私』達と化物との間に割って入り、手にしていたナイフで切りかかろうとして――
腹を突き刺された。
抉られた。
晒された。
足下に、力なくナイフが落ちる。
その人は何かを『私』に言い遺し――真っ白な海へと沈んでいった。
白が赤に染まってゆく。
赤くて、赫くて、紅くて、朱くて、緋い――
鮮血の色に。
「……………………お母さん」
嘘。
これは夢。
何かの間違い。
早く家に帰らなきゃ。
お母さんが待ってるんだ。
早く。
早く。
――雪は勢いを増して、なおも降り頻る。
どこまでもどこまでも、残酷なまでに。
止むことを知らない病的なまでの白が、『私』の世界を呑み込んでゆく。
彼女が何か言っている。
けれど『私』の耳には、もう、何一つ届かなかった。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
声が聞こえる。
『私』を囲む大人達の声が。
――恐ろしい力だ。まさかこれほどまでとは。宿主を傷つけずにキラーのみを葬る力。まだ完全とは言えないようだが。
――眠っていた異能が暴走したか。この辺りの住民全てを巻き込むほどの思念波とは、想定以上だ。
――巻き込まれた住民の意識は全て消失。それが原因で事故を起こし死んだ者も多数。交通事故に火災、溺死、医療事故――悲惨だな。犬や猫など、人間以外の生物にも若干の影響を与えている。これだけの数を収容するのは骨が折れる……。もうこの町は終わりだ。
――あの変容体は既に何人もの人間を殺している。女性ばかりを狙う強力な鬼だ。
――砂原六花? ああ、娘を連れてアマツカミから逃げた女か。監視生活の末に、こんな結末が待っているとはな。
――意識を喰らう力。覚醒ではなく遺伝か? 使い方さえ間違わなければ、キラーに対抗できる最高の力になる――
知らない。
そんな話知らない。
『私』は――私は――
ねえ、君。私と一緒に来る気はないかしら……?
…………。
君の力はとても優れている。訓練を積めば、きっと多くの人を救える力になる。ここにいてももうやることもないでしょう。だから私と一緒に、君の憎む敵をたくさんやっつけましょう……?
…………。
私達は不思議な力の研究をしているの。その力でお母さんの仇を討ちたいとは思わない? 君の力なら、きっとできるわ。だからお願い、私と一緒に――
――会いたい。
え?
お母さんに会いたい……。お母さんともう一度話したい……。ひーちゃんと、もう一度……。
……その願いも、私と一緒に来れば叶うかもしれないわ。本当に大切なものを取り戻したいのなら――私についてきなさい――
声が聞こえる。
たくさんの人の声だ。
私を責め苛む、町の人達の声。
――これは、私が創り出した幻想。
私の偽善の心が、自分を救うために創り出したもの。
この夢を見続けている限り、罰を受けている気になれる。
この夢にうなされ続けている限り、罪滅ぼしをしている気になれる。
――そんなことをしても、許されるわけないのに。
あの日からずっと変わらぬ、同じ夢。
私はまだ、あの冬に囚われたまま――
でも。
でもね。
本当に聞きたいのは、大切な人の声。
お母さんの声が聞きたい。
優しくて、私をそっと包み込んでくれる、温かな声が。
そして、ひーちゃんの声が。
ひーちゃんになら、何を言われたって構わないから。
ひーちゃん。
ひーちゃん。
ひーちゃん……。
ひーちゃんさえいれば、ほかに何も――
何度も何度も、繰り返される夢。
あの日私は母を喪い。
そしてひーちゃんの意識を――大勢の人の意識を消してしまった。
たくさんの人が死んで、たくさんの人が今も眠り続けている。
私のせいだ。
私のせいで。
好きでやったんじゃない。どうすることもできなかった。気づいたら全部終わっていたんだ。私は悪くない。悪いのはあの鬼だ。私は悪くない……。それでも、私のしたことは許されない。許してくれるはずがない。悪いのは私だ。私がいなければ、あんなことにはならなかったんだから。――そんな私を、黎さんは肯定してくれた。黎さんは私の世話を焼いてくれて、高校に通う援助もしてくれた。感謝しています。この恩は決して忘れません。ですが、それでも――私は、自分の犯した罪が許せないのです。誰も私を裁いてくれません。懺悔の仕方もわかりません。責任の取り方も知りません。弱い私は、自殺することもできませんでした。
私は一人。
お母さんもひーちゃんもいないこの世界で、私は――
どうやって生きていけばいいのでしょうか?
呼吸は乱れ、心臓は狂った暴れ馬のように私の胸を叩いた。
手が小刻みに震え、乾いた息が漏れる。
――なんだ、今のは。
私は今、何を――
「く……ッ!」
鬼の右手に、胴体をがっちりと握られている。凄まじい力で拘束され、全く抵抗できない。
このままでは握り潰されて殺される。
今まで感じたことのない、本能的な死の恐怖が全身を駈け廻った。
そうか。
お前が私から、まだ奪っていないものがあった。
お前は私の――
「…………?」
だが、鬼はそれ以上の行動を起こさなかった。
――どうして、何もしない?
目の前に獲物がいるのに、キラーが殺しを躊躇うはずは――
「う、わ……ッ!?」
突然、体が引っ張られるように宙に浮いたかと思うと、今度はそのまま落下を始めた。
――屋上から飛び下りた!?
ものすごい負荷が体にかかり、内臓が掻き回される。視界が暗転し何も見えない中、ただ空気を切り裂く音だけが聴覚を支配した。
地面に激突して死ぬ。
と戦慄する間もなく、急ブレーキをかけた車のように、鬼が落下速度を緩めた。慣性で地面に引っ張られ、首が抜けるかと背筋が凍った。
足下から霧を噴き出し、ゆっくりと着地する鬼。
宿主に損傷を与えないよう考慮したのか、私を死なせないよう配慮したのか――どちらにせよ明らかに異常な行為だった。
私は放り出されるように解放された。
覚束ない足取り。歪む視界。
どうやらここは、私達が最初に来た正面入口の近くのようだった。
とにかく、鬼から離れなければ。
ぐわんぐわんと鈍く痛む頭でただそれだけを考え、必死に足を動かす。
――その時。
「ユ、ユキ……」
顔を上げると、すぐ傍に春がいた。
なんでここに……!?
驚いた表情で私と鬼を交互に見比べ、呆然と立ち尽くしている。
――いや。
春には鬼が視えない。
両腕のない男の姿しか、瞳には映っていないはずだ。
つまり――鬼には気づいていない。
「春! 逃げ――」
鬼は瞬時に春までの距離を詰めると、その巨大な右手で春を捕まえた。
春は自分の身に何が起きているのか理解できず、戸惑いの色を浮かべ――次第に恐慌状態に陥っていった。
「なん、だ、これ……? う、動けな――」
鬼が、悪意以外の一切の意味を切り捨てた眼で、私を一瞥した。
その傲岸不遜な緩慢とした動きは、まるで私を見て嗤っているかのようだった。
この鬼は私を弄んでいる。
弄んで、楽しんでいる。
鬼は右手を高く掲げ、春を高々と持ち上げた。
「い、ぎあ、ああああああああ!」
耳を塞ぎたくなるような、苦悶の悲鳴。
顔からは血の気が失せ、助けを求める怯えた目が、私の瞳に映った。
このまま握り潰されるか、地面に叩きつけられるか――
「ユ、キ――」
鬼が――また、嗤った。
「…………!」
見ている。
鬼が私を見ている。
あの時と同じ眼で、私を見ている。
助けなきゃ。
春を助けなきゃ。
死んでしまう。
春が死んでしまう。
私の目の前で、また人が死んでしまう。
嫌だ。
そんなのはもう嫌だ。
待ってて、春。
今――
「え……?」
自分の足が、一歩後ろに下がったのが見えた。
どうして。
下がっちゃだめだ。
春は前にいるんだから。
あ――そうだ。
力。
力を使えば、春を助けられる。
あの時――力があればお母さんは死ななかった。
私に力があれば、誰も死ななかったんだ。
そして現在――私にはその力があるじゃないか。
春を助けられる力があるじゃないか。
早く。
早く春を――
「――――」
また、意に反して足が動いた。
どうして。
どうしてどうしてどうして!
鬼が左手を、ゆっくりと私に向かって伸ばすのが見えた。
体の震えが止まらない。
息がうまくできない。
足に力が入らない。
鬼の手が眼前に迫る。
赤が私の世界を覆って――
「――――――――――――――――!」
吐き気のするような醜い叫び声が聞こえた。
それが自分の喉から発せられたものだと気づいた時には、私は春に背を向けて走り出していた。
けれど足がもつれて無様に転び――尻餅をついた格好で、私は後退った。
「うううう、ああ――」
もう、何も考えられなくなっていた。
その時――黒い影が視界を横切った。
影は鬼の右腕を切り落とし、解放された春は地面に落下し倒れ伏した。
春日子をお願い――影はそう告げると、春に構わずすぐに鬼と向かい合う。
言われたことの意味を理解するのに数秒を要してから、春の元へ駈け寄る。
ぐったりとした春を抱きかかえ、ぺたんと地面にへたり込んだ。春は、気を失っていた。
鬼は影を――黎さんを、再び殺すべき敵と見なしたのか、短く唸り体勢を整えた。右腕はとうに元通りに戻っている。
「――――」
赤を呑み込むように。
闇の中に、黎き麗人が立っている。
「黎さ――」
ぞっと。
全身の血が凍るような感覚に、私は襲われた。
肌が粟立つ。
寒さのせいではない。そもそも寒さを感じる余裕すらない。
黎い威圧感に竦み上がった私は、声を飲み込んだ。
――手に握るは、夜空と同じ色を宿した黎き霜刃。
――身に纏うは、一層の闇と陰を孕んだ黎黒の霧。
無言で、ただまっすぐ鬼を見据える、美しき剣客。
キラーを討ち滅ぼす者。
黎さんは――怒っている。
何に対してだろう。
鬼か。
それとも――私だろうか。
私が不甲斐ないから、だから、怒っているのですか。
でも。
だって――
「黎さん」
小さく呟く。
その声が聞こえたのかどうかはわからないけれど、黎さんは「お前はそこにいなさい」と、こちらを振り返ることなく静かに言った。
――黎さん。
私を捨てないでください。
私にはもう貴女しかいないのです。
黎さんに見離されたら、私にはもう何もなくなってしまいます。
期待に応えられない自分が憎い。
力を使いこなせない自分が呪わしい。
私は――バカだ。
どうしようもないくらいバカだ。
けれど。
それでも。
あの鬼は――あの光景だけは、何度見ても受け入れられなかった。
頭から離れない、夢で何度も見る映像。
繰り返し繰り返し、同じところだけを巻き戻して。
繰り返し繰り返し、同じところだけを焼き付けて。
私は、全然強くなっていない。
何も成長していない。
見上げれば、星降る聖夜。
果てしない年月をかけ、私達の元へ光を運んできた夜空の星達。
長い間、変わらずに輝き続けなければならない気持ちとは、どんなものなのだろう。
ごめん、春。
ごめんなさい……。
私は。
私は、いつか変わることができるのでしょうか。
いつか、全てを乗り越えて強くなれるのでしょうか。
黎黒の剣が鬼を――男を真っ二つに切り裂くまで。
私は縋るように――春の服を固く握り締めていた。
◆
黎さんは黙々と後始末を進めた。クニツカミの職員に連絡を取り、結果を報告。あとはアマツカミの職員が全て処理してくれる。
春はすぐに目を覚ましたけれど、頭を打ったようなので、病院に連れていくと黎さんが言った。その時には、いつもの黎さんに戻っていた。
黎さんは宿主の体を切断し、さらに頭部を破壊することで変容体を討滅した。
けれどそれは、男の悪意――残留思念を増幅していたあの鬼を追い出しただけであって、キラーの脅威が完全に消え去ったわけではない。
再びほかの人間に宿るのか、はたまた二度と現れないのか、それは誰にもわからない。
まさに神出鬼没。目に見えない鬼神の働きのように行動が自在で、所在が掴めない――それが游泳する悪意なのだ。
キラーに対してはこちらから先手を打つことができない以上、どうしようもない。
男の遺体はアマツカミの施設に運ばれ徹底的に調べられるだろう。バラバラの遺体とはいえキラーに憑かれた者は貴重な研究材料だ。身元が判明したとしても遺族に正しい情報は伝えられず、用が済めばそのまま、ひっそりと荼毘に付されるだけだ。
黎さんが運転する車は、アマツカミの敷地にある病棟へと向かっている。あそこは二十四時間開かれているし、一般の患者もいないので好都合だった。
車内ではほとんど会話がなかった。特に、春は一言も口を利かなかった。
隣の春をちらっと一瞥すると、疲れた顔でぼうっと窓の外を眺めていた。
私は自分のことだけで精いっぱいで、春に何の言葉もかけられなかった。
雪花、帰るわよ――ベッドの隣に置かれた丸椅子に腰かけ、ぼんやりとしていた私に黎さんは言った。
物音一つしない寝静まった病棟、その一室のベッドで、春は穏やかな寝息を立て眠っている。
「とりあえず安静にしていれば、春日子は大丈夫だから……」
深夜、時刻が零時を過ぎた頃にここを訪れた私達は、夜勤の職員に許可をもらい、空いているベッドを借りた。
診察の結果異常はなかったみたいだけれど、春はまだ軽い目眩がするようなので、朝まで休んでゆくことになった。
今、春はカーテンで仕切られたベッドで眠っている。
「ここにいます――春が起きるまで。朝になったら二人で帰りますから」
黎さんは、そう――とだけ言って、音もなく室から出ていった。
二人きりになった無音の空間で、私はしばらくの間、床を見つめていた。
姉様、帰ったのか――不意に聞こえた弱々しい声。
驚いて顔を上げると、春は目を開けていた。
「…………」
沈黙。
心臓の音さえうるさく聞こえそうな静寂が、鼓膜を襲う。
暗黒色の瞳はじっと天井に向けられていて、私の目を見てくれることはなかった。
「ごめん――」
私は。
私は――逃げたんだ。
この子を見捨てて、私は、逃げたんだ。
「ごめんなさい――」
涙が出てきた。
零れる涙を止めることができなかった。
「ごめんなさい――ごめんなさい」
それしか言えなかった。
謝ることしか、私には。
「私は春を置いて――逃げようと」
嗚咽する声だけが、二人の間に響き渡る。
私は――最低だ。
きっと、自分が思っている以上に最低な人間なのだ。
「ごめんなさい……」
俯いた顔から零れた涙が、床を濡らした。頭の中がぐちゃぐちゃで、自分でももう何がなんだかわからなくなっていた。世の中の悪いことは全て私のせいなのではないかと思えてきた。どうしてこんなことになったのだろう。誰かに教えてほしかった。でもだめだ。正解なんて誰も教えてくれない。誰も助けてくれない。私は独りなのだ。これからもずっと。死ぬまで。お母さんが死んで、ひーちゃんも目を覚まさない。誰も私を見てくれない。誰も私を守ってくれない。ひーちゃん、早く起きてよ。私を独りにしないでよ。一緒にいてよ。――ああ、でもひーちゃんが目を覚ましたらなんて言おう。もう誰もいないんだよ。私達以外、みんな死んじゃった。ひーちゃんのお父さんとお母さんもね、死んじゃったよ。事故だってさ。調べてもらったの。でもほんとは事故じゃないよ。私が殺したの。私のせいだよ。全部私が悪いんだ。黎さんだって、ほんとは私のことなんてどうでもいいと思ってる。わかるよ、それくらい。黎さんが必要としてるのは私じゃなくて、私の力なんだから。早く、早く力を使いこなせるようにならないと、私は黎さんに捨てられてしまう。でも怖いの。怖いんだよ。もし失敗してまた同じ惨事を引き起こしてしまったら、私はこれ以上罪の重さに耐えられない。これ以上背負えない。だから。だから私は――
春が私を見ていた。
綺麗な瞳。
そんな目で、私を見ないでほしかった。
「ユキ。あたしはお前のことを――まだ、何も知らない」
「…………」
「その――つまり、さっきのことで、お前があたしに負い目を感じる必要は、ない。だって、その、えーっと……あたしは、お前と――」
珍しくしどろもどろになり、何やら言い淀む春。
「――昔の話を、してもいいか」
春は横になっていた体を起こすと、乱れた砂色の髪を整えもせず話し始めた。
「あたしが生まれた家は、すごく大きな家で――ずっと昔に、日本からアメリカに渡ってきた、歴史のある家系――あたしはそこで生まれた。母様は、あたしを産んだ時に死んでしまった。父様には会ったこともない。姉は――血の繋がった本当の姉は、物心ついた時にはいなかった。家を出て行方不明だと聞かされた」
春の目は私を見ているようで、もっと遠くを見ていた。
どこか、ずっと遠くを。
「あたしの『荒野春日子』という名前は、姉様がつけてくれたんだ」
誇らしげに春は言う。
「姉様がつけてくれた名前。完全な女になれないあたしに、性別を越えて強くなれるようにとつけてくれた、大切な名前。あたしは姉様と姉妹になった日から、『荒野春日子』になった。あたしの――あたしの本当の名前は、ヒガンニシ・シュンギョウというんだ」
「ひがんにし……?」
「春の訪れを告げる豊穣の風、彼岸に吹くゼピュロス。――彼岸西風春暁、それがあたしの、本当の名前」
唐突に告白を始めた春に、どう反応していいのかわからない。涙を手で拭いて、次の言葉を待つしかなかった。
「姉様には口止めされてるんだけれど、ユキになら平気だと思う。いや――あたしがユキに知ってほしいと思ったんだ。あたしの、本当の名前を。――でも、今のあたしは『荒野春日子』だ。彼岸西風の名前は、もう――捨てたから」
「…………」
「エウロス、ゼフュルス、ノトス、ボレアス――アメリカには超能力や超自然力を中心とした学際的研究機関が、主に四つあるのは知っているだろう。アマツカミの姉妹組織ボレアスも、その一つ。元はギリシャの〈エオス〉から分離した四つの風神機関。その中でも特に大きな力を誇っているのが、ゼフュルスとボレアス」
それが、何か関係あるのだろうか。
「うん。彼岸西風は特異な一族で、代々ゼフュルスに忠誠を誓っている。ゼフュルスと共に歴史の闇を歩んできた、裏の一族。彼岸西風の血を継ぐ者は、ほぼ全員が超能力者――異能力者だ」
「そんな家の――生まれだったんだ」
「けれど異能遣いは、彼岸西風の血を継ぐ女の胎からしか産まれない。たとえ彼岸西風の血を継ぐ者でも、男の人がよその女の人に孕ませた子に異能は宿らない。異能を宿した子は、彼岸西風の女性のお腹からしか産まれないんだ。――産まれた男の人は異能遣いとして裏の仕事に就くんだけれど、彼岸西風にとって異能遣いを遺せない男性はあまり重要ではなくて、子を産める女性こそが重要な存在というわけだ。ただしインセスト・タブーを犯してはならないから、血を濃く継ぐために、彼岸西風ではいとこ婚が慣例となっている。――あそこでは、男と女は完全に区別されて教育を受ける。女は彼岸西風、男は涅槃西風と、苗字すら分けられて。歪んだ女系一族――そういうところなんだ、あそこは」
自虐的な微笑みを浮かべながら、淡々と語る春。
きっと驚愕するところだったのだろうけれど、頭の整理が追いつかなかった。
「ある日――その血を継いだ、一人の女の子が生まれた。子を産むことを宿命づけられて――産まれた子は母となるのに障害がないか、どんな力を持っているのか、徹底的に検査を受けて育てられる。だがその子には――」
春はお腹に両手を重ねて、言った。
「子宮がなかった」
「――――」
「ロキタンスキー症候群と言うらしい。きっと母様のお腹の中に――忘れてきてしまったんだろう」
脳天を金槌で殴られたような気がした。
金縛りにあったように、私の目は春のお腹に釘づけになった。
「あたしは性交渉に障害を持っていて、子供を宿すことができない。それが原因なのかはわからないが――あたしには特別な力が何一つ使えない。あたしは力も使えなければ子供も遺せない、役に立たない子供。だから女として扱われなくて――」
かける言葉が見つからない。
なんと言ってあげればいいのかわからない。
「――一族の中で、権力争いなんて日常茶飯事だった。あたしには頼れる人がいなかったし、面倒を見てくれる人もいなかったんだろう。物心ついた時には、ゼフュルスの教育施設に入れられていた。そこで先生達にお世話になって――でも、先生はあたしのことを『春姫』としか呼んでくれなかった。宗家の子供だから――どんなに役に立たなくても、あたしの中には彼岸西風の血が流れてるから――だから、ほかの子達と区別されて……」
春は寂しそうに目を伏せる。
私はその少女に思いを馳せた。
遠い異国の地で――哀しい運命に従わされた、砂色の少女に。
「あたしが産まれてこなければ、母様は死ななかったのかもしれない。行方不明の姉様も、きっと母様が亡くならなければ家を出ていかなかったはずだ。あたしが、産まれてこなければ――」
産まれてこなければ。
その次に言いかけた言葉を――春は必死に飲み込んだ。
数秒の間のあと、気を取り直したように言う。
「ユキ。あたし――ちゃんと女の子に見えるか?」
いきなりの質問に面食らった。
質問の意図が読み取れない。
「……春は、女の子。どう見ても――女の子だよ」
その受け答えが正しかったのかどうか自信はなかったけれど、春は安堵したように大きく息を吐いた。
「あたしはね、子宮は欠損しているけれど卵巣はあるんだ。だから見た目はちゃんと女の子に成長すると言われていたし、外見じゃ絶対にわからないから安心しろ、とも言われていた。でも、やっぱり――」
私は春の顔を見た。
「ほかの女の子と違わないか、気になってしまうんだ。あたしは生理にもならないしな」
「…………」
――春は。
春は、女の子だ。
ちゃんと、女の子をやれている。
子宮がないからなんなのか。
子供が産めないからなんなのか。
そんなことで、荒野春日子の意味は何一つ揺るがない。
「ユキ――お願いがある」
恥ずかしそうに、照れ臭そうに。
「あたしと――友達になってくれないか」
頬をほんのりと赤く染めながら、春はおっかなびっくり、右手を差し出してきた。
握手のようにではなく、掌を上に、軽く指を曲げながら。
「つまり、その――助け合うものだろう、友達というのは。自慢ではないが、あたしには友達がいない。だからこういう時どうすればいいのかわからないが――あたしは、たぶんお前と友達になりたいんだと思う。だから、お前に負い目を感じてほしくないんだ。あたしが困っている時に、今度はお前があたしを助けてくれれば、それでいい。だからさっきのは――気にしなくていい」
私は右手で、その手を下から包むように握り返した。
華奢な手。
この手を、今まで誰も握ってくれなかったのだろうか。
何も変わらない、普通の女の子の手なのに。
「――――」
心からの言葉が出た。
本当に、自分でも驚くくらい真っ白な言葉が自然に出た。
小さな手の感触を楽しみながら細い指を弄っていると、春はくすぐったそうに目を細めた。
私達は顔を見合わせ、同時に吹き出した。自分でも何が面白いのかわからないけれど、一度緩んだ表情は元には戻らず、しばらくの間二人で笑い合った。
この笑顔を、絶対に忘れてはいけない。
一生枯れることのないように、咲かせ続けよう。
小さな可愛らしい――砂色の花を。
「春は、黎さんとはどこで知り合ったの」
ずっと気になっていたことを訊いてみる。
うーん、と頭を悩ませながら「姉様には絶対内緒だぞ」と、前置きしてから答えてくれた。
黎さんの過去。
自分で訊いておいてなんだけれど、妙に落ち着かずどきどきした。
黎さんはボレアスで〈風伯〉という、危険な仕事に就いていたらしい。アマツカミにおけるクニツカミのようなものか。
「あたしが七歳の頃、姉様はゼフュルスにやってきた。――あたしと会うために。母様との約束を果たすために」
「約束?」
「姉様は昔、母様にお世話になったことがあるらしい。そして、その時交わした母様との約束を果たすために、あたしを迎えに来たと――そう言っていた」
約束。
春のお母さんとの、約束。
春のお母さんにお世話になって、遺された娘を迎えに。
そして――行方不明だった姉。
「もしかして、それって――」
「いいの。血の繋がりなんて、あってもなくても――いいんだ。姉様はあたしに言ってくれた。『姉妹になろう』――って。それだけで、家族と触れ合ったことのないあたしにとっては――とても幸せなことだったから」
家族と触れ合ったことのない――か。
閉鎖された一族の中で育ちながらそんな言葉が出るということは、きっと春は、一族から――家族から、遠ざけられ、疎まれ、無視され、『隔離』されてきたのだろう。
そうやって、幼い日々を過ごしたのだ。
家族も友達もいない時間を、ただ一人――
「そのあと、あたしはゼフュルスを出て、ボレアスにお世話になった。施設で中等部に上がった頃、姉様は日本に――アマツカミに行ってしまったから、姉様と会える機会が減ってしまったのは残念だったけれど」
当時を思い出してか、遠い目をする春。
「でも、今はほら、こうしてあたしも日本にいるわけだし。姉様が誘ってくれたんだ――日本に来ないかって」
ああ、本当に嬉しかったんだろうな。
黎さんは、春にとって――嘘偽りない、本物のお姉さんなのだ。
血の繋がりなど関係なく――二人は、姉妹なのだ。
――だが、それならどうして。
もし、黎さんが春の実の姉だというのなら、どうして春が生まれてから一緒にいてやらなかったのだろう。春を守ってやらなかったのだろう。
春のお姉さんは、どうして姿を消したのだろう。
そして。
黎さんは、どうして春のことを内緒にしていたのだろう。
春を置いて、日本へ渡ってきた理由も気になる。
黎さんが春に対して遠慮しているような――どこかよそよそしい態度なのはなんとなく感じていた。断じて春が嫌いというわけではないと思うけれど、なるべく春と関わらないように振る舞っているというか――そもそも、黎さんが私に妹の存在を隠していたことを、私は勝手に「血が繋がっていない妹だから特に紹介する気がなかったのだろう」と解釈していたけれど、まさか春を遠ざけておきたかったからとか、私に知られたくなかったからとか、そういう穏やかでない理由なのだろうか。
――いや、いい加減な憶測はやめよう。
「姉様が、あたしを遠ざけているのは知っている」
心の声が漏れたのかと思って、どきりとした。
少し沈んだ声音で続ける。
「ユキも気づいているだろう。姉様は、あたしのことを重荷に感じているのかもしれない。姉様があたしといる理由は、母様との約束――それだけなんだから」
そんなことない――と、果たして言い切れるだろうか。
黎さんのあの態度は、もしかしたら、春の言う通りなのではないだろうか。
黎さんにとって、春は――
「いいんだ。あたしはこっちで高校を卒業したら、ボレアスに戻って研究者になる。そして姉様の仕事を手伝うのが夢なんだ。だからあたしは――平気だ」
そうか。
春は私と似ているのかもしれない。
私にも黎さんしかいなかった。
黎さんがいなかったら、私は生き方すらわからなかった。
違うのは、私にはお母さんとひーちゃんがいてくれたこと。
春には母親も――そして、心を許せる友達もいなかったのだ。
黎さんと出会うまで、ずっと一人だったのだ。
――私は、彼女のことを想った。
この病棟で、今も一人眠る、彼女のことを。
「――私」
頬は赤い血が透けるほど白く美しい銀世界。
緩やかに波打った砂色の長い髪。
人形のように可愛いらしい小さな手を、両手でぎゅっと握り締めながら、私は言った。
「春には――私がいるよ。黎さんだけじゃなくて、私もいる。友達――春はもう一人じゃない」
この子の傍にいてあげたい。
この子と一緒にいたい。
――もう、絶対に自分だけ逃げるようなことはしない。
強く、心からそう思った。
「――うん」
陽春の夜明けの優しさのような、とびっきりの笑顔で、春は応えてくれた。
友達。
私達は、友達。
春は私に、自分の過去を打ち明けてくれた。
それなら、私は――
私は。
――もう少しだけ。
もう少しだけ、待っていて。
いつか私も、昔の話をするから。
過去の過ちを打ち明けるから。
そしてひーちゃんに――春を紹介したい。
私の友達――
私の、大切な友達だよ――って。
声に出して叫びたいスタンドはゴールド・エクスペリエンス・レクイエム。