【二】
『雪の果、春の光』で女の子同士がキスする場面(?)は確か2回ありますが、1回目はここッ!!
と言っても片方意識失っていますが……。
「砂原さん」
突然後ろから声をかけられた。か細く透き通った、けれどしゃきっとした声音。
「……常葉さん」
振り返ると、予想的中、そこには縁なし眼鏡に前髪が揃ったお姫様カットの、いかにも清純そうな女の子が立っていた。厚手のシャツを羽織り、スキニーパンツを穿いている。
常葉さんは一番親しいクラスメートで、見た目通りの優等生だ。実力テストでは常に学年一位をキープし、生徒会執行部にも所属している、まさに委員長タイプの清らかな女の子。
「奇遇ね。砂原さんもお買い物?」
一方、私はナイロンのブルゾンにジーンズという姿。
時刻は正午過ぎ。
今私は、家からそう遠くないところにあるショッピングモール、その中にある大型スーパーの食料品売り場で、豆腐と睨めっこしている最中だった。傍らには籠を二つ積んであるショッピングカート。
外出中に知り合いと遭遇するのは好きではないので避けたかったけれど、あからさまに不快な態度を見せるわけにはいかない。
「常葉さん、一人?」
「お母さんと一緒に来てる。砂原さんは?」
「私は――」
私は。
なんて言おうか、悩んでしまった。
ちょうどその時、通路の奥からパーカに膝丈のスカート、グレーのタイツ姿の少女がこちらに向かってゆっくり歩いてくるのが見えた。
常葉さんにどう説明したものか。
休日にスーパーで食料品を買っている状況を鑑みるに、友達は変かもしれない。というか、私にそんな親しい友達がいないことを常葉さんも感づいているだろう。
無難に親戚ということにしておこうか。今日から同じ家で生活しているわけだし……。
常葉さんが怪訝な目で、黙ってしまった私を見ている。
「ユキ、捜したぞ」
結局、なんて話そうか迷っているうちに、その少女――春は声をかけてきた。いつの間にか、呼び名は『ユキ』に縮んでいた。
春は常葉さんの顔をじっと見つめたあと、軽く会釈する。
「砂原さんの――友達?」
「親戚で……、その、うちで暮らすことになって」
歯切れの悪い説明。それを聞いた春は、はじめましてと丁寧な口調で自己紹介をした。
常葉さんも挨拶を返し、名前を告げた。
「砂原さんの家で、一緒に住んでるの?」
「うん。明日から同じ高校に通うことになってさ」
「そうなんだ。よろしくね、荒野さん。それじゃ、砂原さん――」
また明日――そう言って常葉さんは、小さく手を振って立ち去っていった。
「ごめん、親戚ってことにしちゃった」
春は答えず、常葉さんが去った方向をじっと見つめていた。
「――どうしたの?」
いや、なんでもない――春はそう言って歩き出す。
普段の倍くらいの時間をかけ一通り買い物を終わらせる。タオルに歯ブラシ、洗面用具に食器。日用品と食料品で、カートに乗せてある二つの籠はもう満杯だ。ほかにも入り用な物はあるが、今日買えない物は後日黎さんに、車で買い物に連れていってもらおう。
「こんなところか。――あ」
そういえばあれが近いかもしれない。
売り場へ行き、いつものを手に取り籠の奥に押し込む。以前、どうしても必要になりコンビニで買うはめになった時、レジにいた店員が高校生くらいの男の人で、少し恥ずかしい思いをしたことがある。向こうはなんとも思っていなくても、嫌なものは嫌だ。それ以来、なるべく買える時に買っておこうと胸に刻んだのだ。
「春は?」
「あたしには必要ない」
「そう」
溜め息と共に、お腹に手を当て自分の体のわけがわからないシステムを呪う。
カートを押してレジに向かう私の後ろを、春は少し離れてついてきた。
◆
翌日。月曜日。時刻は午前七時。
いつもより若干遅めに目を覚ました。ベッドから這い出てダイニングルームへ。春と一緒に朝食を済ませ、登校の準備をする。
パーカにジーンズという、いつも通りの服装。私が通っている学校には制服や指定鞄というものが存在しない。羨ましがる人もいるだろうが、それはただの隣の芝は青い的発想で、実際はかなり面倒なものだ。毎日、着る服を選ばなければいけないのは煩わしい。
春の部屋の前で、そろそろ行くよと呼びかける。
扉が開き、出てきたのはボーダーのワンピースにジャケット、キュロットスカートという姿の春。
「やっぱり、その髪は目立つかもね。別に気にする必要はないけどさ」
玄関を出ると、ひんやりとした空気が肌に突き刺さる。今朝はもう真冬の冷え込み方だ。朝陽に目を細めながら、私達は学校へと向かい歩き出した。
天気は日本晴れ。澄みきった空色が否応なしに網膜に焼きつく。こっちがどんなに暗鬱で陰鬱で憂鬱な気分でも、決して変わることのないスカイブルー。蒼褪めた空をぼんやりと見上げ隣を歩く春にも、私と同じ色を瞳に映しているのだろうか。
学校が近づくにつれ、知っている顔がちらほらと見え始めた。私服の少年少女はだいたいがうちの生徒だ。
「あそこにいる髪が赤とか緑の人も、あたしたちと同じ学校の生徒なのか」
春の視線の先には、同年代の男女五人ほどのグループが固まって歩いていた。皆かなり個性的な服装をしているが、それより目を引くのはその髪の色。赤やら緑やら金やら。
「ああ、美術科の生徒じゃないかな」
「すごい髪の色だな……。信号機みたいだ」
君もなかなかの色だよ。地毛だから仕方ないけれど。
駅前の、シャッターが閉まったまままだ目覚めていない商店街を通り抜ければ、学校はもう目の前。少し高い丘の上に建てられているため、坂を登らなければならないのが地味につらい。特に夏は、教室に辿り着く頃には確実に汗だくになる。
都立柴白高校。
十年前に創設されたばかりの新しい学校で、校舎は綺麗だし造りも独創的。ガラス張りの昇降口、吹き抜けのホール、空中渡り廊下、芝生の校庭、西洋風の校舎……と、外観は立派。自由な校風(いささか放任すぎる気もするが)が売りの人気校で、校則が緩く、身嗜みに関する規定が全く存在しない。そして美術科が設けられている影響か、突き抜けたスタイルの生徒が多数在校している。彼等のセンスは私の理解を軽く超越しているのでどう表現していいのかわからないが、ああいうのはたぶん、突っ込んだりしたら負けなのだろうと思う。
私が在籍している普通科にも、美術科の生徒よりは落ち着いているが、茶髪や金髪の人は少なくない。柴白高校は学科に関係なくクラス分けされるので、私のクラスにも美術科やほかの学科の生徒がいて、授業の際にそれぞれの教室に散る。春には「その髪は目立つ」と言ったが、おそらくこの砂色が教室で極端に浮くということはないはずだ。今日は登校中にほかの生徒の視線を集めてはいたけれど、すぐに珍しいものでもなくなるだろう。
昇降口で室内用の靴に履き替える。上履きも指定されていないので、各々の自由。私は入学してからずっと同じシューズ、春は家にあったサンダルを適当に洗って持ってきた。
「そこを真っ直ぐ行けば職員室。私は先に教室に行ってるから」
「わかった」
この学校の教師がどこまで私や春のこと、そしてボレアスやアマツカミのことを知っているのか不明だが、黎さんも何も言っていなかったし、心配するだけ詮のないことだ。
黎さんはあれ以来、電話で話しただけで一度も帰ってきていない。
一年生の教室は四階。
小さく手を振って春と別れ、いつもと同じように、階段を上る。
「おはよう、砂原さん」
教室には既に、いつもと同じ十人ほどのメンバー。私の席は窓際から数えて三列目の一番後ろ。自分の席の椅子を引きながら、左隣の席の子に挨拶を返した。
「おはよう、常葉さん」
席替えがあって今の席に移ってから、毎日続いているやりとり。隣の席に常葉さんがいてくれると、正直助かる。優しいし親切だし話しやすいし。
だんだん寒くなってきたね、今日は寒いわ、朝起きるのがつらいよね――なんて、中身のない会話をする。これも、いつもと同じやりとり。
――冬は、嫌いだ。
頬杖を突き、欠伸を噛み殺す。今日は授業中居眠りしてしまう予感がした。
不意に、「砂原さーん」と呼びかけられた。教室にいた一人の女子が私の席に近づいてくる。
「砂原さんっ、先週の英語のノート見せてくれない?」
適当に返事をして、バッグからノートを取り出し彼女に渡す。
「サンキュー! すぐ返すからちょっと待っててっ」
慌ただしく自分の席に戻っていった彼女の姿を目で追いながら、眼鏡をきらりと光らせ常葉さんが小声で言う。
「夜しっかりと睡眠を取れば眠くなるはずなんてないのに。居眠りしていたら授業に置いていかれるわ」
「…………」
今日は授業中寝られなくなってしまった。
私が非難されているのかと、一瞬思った。
常葉さんは成績優秀、テストの順位は毎回一位。何事にも真剣に取り組むし、生徒会の活動にも熱心に参加している。教師からの信頼も篤く、皆からも一目置かれている。常葉さんには及ばないけれど、私も頭が良いという認識を周囲にされているみたいだ。ちなみに成績は学年で二位から十位くらいを行ったり来たり。英語は施設にいた三年間叩き込まれたのでそこそこ自信があるが、ほかは上の下から中の上くらいの成績。
私の交友関係は狭くて浅い。クラス内で会話する人は限られているし、男子に自分から話しかけるなんてまずない。話しかけられることもほとんどないけれど。
進んで友達をつくらず、増やそうとせず、なるべく深く踏み込まず、一定の距離を保つ。たぶん、推測だけれど――常葉さんもそんな感じの友達づき合いをしている。だから私達はそこそこ仲がいいのだろう。
類は友を呼ぶ、まさにその通りだと思う。
「砂原さん、あの――」
常葉さんが何かを言いたそうにじっとこっちを見ていた。教科書を整頓していた手を止める。
「この前の――荒野さんは? 今日から登校するんでしょう? 一緒に来なかったの?」
「春なら職員室。先生のところに行ったみたい」
「そう……」
一緒のクラスになれるといいわね、と常葉さんは言った。
私は微苦笑しつつ同意しておいた。
常葉さんは、笑っていなかった。
「今日からこのクラスの一員になります、荒野春日子です。よろしくお願いします」
朝のホームルーム。
教壇の前には、原稿を読み上げたような声で自己紹介する春の姿があった。無表情のままぺこりと頭を下げると、教室のあちこちで拍手が湧いた。
女子達からは「かわいいー」「ちいさーい」と声が上がり、端の席の男子達からは「うおー」という雄叫びが反響した。私は生暖かい目でその光景を眺めていた。
先生の一存で、春の席は窓際の一番後ろになった。つまり、私の左隣である常葉さんの左隣だ。
ホームルームが終わって席に着いた春は、あっという間に女子に囲まれていた。遠巻きからそれを眺めている生徒も多い。教室の入口では、ほかのクラスの生徒も数名見物に来ていた。
一時間目の授業が始まるまで、春と話す機会は全くなかった。一時間目はこの教室でのクラス単位の授業なので、全ての学科の生徒が受ける。
チャイムが鳴って教師が来ると、皆が着席。一息ついて、春は私のほうに視線を送った。私は春を一瞥しただけで、ひらひらと手を振った。
「荒野さん。わたしのこと、わかる?」
常葉さんが小声で春に話しかけたのが耳に入ってきた。
「常葉――だろう。昨日会った」
「ふふ、これからよろしくね、荒野さん。教科書は揃うまでわたしと一緒に見ましょう?」
春のことは常葉さんに任せて、私は授業に集中しよう――と思ったけれど、今日の午前中の授業は睡魔との戦いに終始した。授業内容なんて全く頭に入ってこない。しかし不思議なもので、四時間目終了のチャイムが鳴り響き昼休みに入ると同時に、眠気はどこかへと飛んでいった。
結局、昼休みまで春とはほとんど会話を交わしていない。休み時間ごとに誰かしら春の近くにいたので、無理だった。そんなに話がしたかったわけでもないけれど。
昼休み、教室が嬉しそうに賑やかな音を奏で始める。
大きく伸びをして机の上のノートを見ると、そこにはどこの国の言語かもわからない解読不能な文字が躍っていた。いったい誰が書いたのか。
気を取り直して、「食堂行こう」と常葉さんを誘う。
常葉さんは微笑みながら頷き、弁当箱が入った小さなバッグを手に取る。
昼食は教室で取る生徒が多いが、今日、私は昼食を持ってきていない。ちなみに常葉さんは弁当持参型の生徒だけれど、私が食堂へ行く時はいつも一緒に来てくれる。
財布をポケットに押し込み、ちらりと左の席を見ると――取り巻きがいなくなった春は、一人でぼうっと窓の外を眺めていた。
窓際の席へ向かい、春の机の前に立つ。
「ごはん、食べにいくよ」
「……あたしも行っていいのか」
「ほら、早く。財布持って」
手を掴んで、引っ張る。
常葉さんと春と、三人で教室を出たところで――声をかけられた。
「お、常葉ちゃん」
背後を振り向くと、歩いてくる二人の女子。Tシャツにスカートを穿いた子と、上下ジャージ姿で背の高い子。
「――と、砂原さんに、転校生。食堂行くの? わたしたちも混ぜてよー」
スカートのほうの女子が笑顔を振りまきながら言った。ドール風のカーリーロングの金髪、少し釣り上がった目。外見は浮ついた感じだが、生徒会執行部にも所属している――
「ええ、構わないけれど……」
千歳和歌子。
いつも成績上位に載っている名前。何回か話したことはあるけれど、特別親しいわけではない。私が親しいと言えるのは常葉さんくらいなのだから当然だけれど。
「砂原さん、いいかしら?」
断れる空気ではないし断れるはずもないので、誘いを受けた。
柴白高校の食堂は、広々としたスペースに長方形のテーブルがずらっと並んでいる。隅には購買部もあり、朝・昼・放課後と、空腹の生徒達によって賑わいを見せる。もちろん、どこに座ろうと自由なのだが、上級生は奥、下級生は入口付近という暗黙のルールがある。
テーブルの一角を占領し、常葉さんと、同じく弁当持参の千歳さんに席を確保してもらい、その間に私と春は食券を買いに券売機に向かった。
品書きが貼ってある壁の前で腕を組んで悩む。元来優柔不断な私にとって、こういう時即座に決められる人を尊敬する。
背後から、遅れてやってきたもう一人の声がした。
「荒野さんと砂原さんって、どこで知り合ったんですか? 前から知ってたみたいですけど」
ジャージ姿に私と同じくらいの背丈。乱れてくしゃくしゃになっている短めの、赤が混ざったような髪。のほほんとしてすっきりとした目元と口元、角のない柔らかな顔立ちからは、あらゆる害意を取り除いた純真さが溢れている。美術科の生徒の――
「深川さん」
深川聖歌。
誰とでも親切に接する、とてもいい人。私にも気軽に話しかけてくれる数少ない人だ。
「春は……遠い親戚なんだ」
咄嗟に、またしても嘘が出た。口に出してから『遠い親戚』って何と自分に呆れたが、深川さんは、そうなんですかあ、と特に気にしたふうもなかった。
食券を手にして早足で、嬉しそうに厨房のおばちゃんの元へ行く深川さん。
「ここは、みんな優しい」
唐突に、春が口を開いた。
「いや……、学校とは、いいところだと思っただけだ」
そうだ。
春は今まで学校に通っていなかったのだ。不安、だったのだろうか。小学校には通っていた私だって、高校入学当初はうまくやっていけるか心配で心配で怖かった。常葉さんがいなかったら、学校生活に挫折していたかもしれない。
注文した品を受け取り、席に着く。がやがやと活気が溢れ、心なしか室内の温度が上がった気がする。遠くから聞こえてくる上級生の大声や、隣のテーブルから届く麺を啜る音が、寄せては返す波のように食堂を覆い包み込む。
「春っちは最近引っ越してきたの? どこから?」
千歳さんの声に、耳が勝手に反応する。
「……今までいろんな場所を転々としていたんだ。だからまだ、この辺りのこともよくわからない」
「へえ、転校が多かったんだ」
もちろん、今の春の話は嘘。
「じゃあさ、最近この辺りであった事件、知ってる?」
「事件?」
首を傾げる春。
千歳さんは私達全員に向けて、少し早口で語り出した。
「そう。これはうちのお父さんに聞いた話なんだけどさ。ちょっと前にテレビで、連続殺人のニュースがあったの覚えてる? あれ、犯人が捕まったって報道されてないのに、急にテレビでやらなくなったんだけどさ。セイ、知ってるだろ?」
いつもより声のトーンが低い千歳さん。
「ああ、ありましたねそんなの。女の人が殴られて遺体で発見された事件ですよね。そういえばどうなったのかなあ? あの事件」
深川さんの丁寧な話し振りは私や春だけに対してのものではなく、デフォルトである。
「もう逮捕されたのではないの? それ、一か月くらい前のニュースでしょう? ――ねえ、食事中にこんな話をするのはやめない?」
常葉さんの話で思い出した。
一か月前。そうだ、確かにテレビで流れていた。事件が起きたのはもっと郊外のほうだったけれど、近場で連続殺人事件なんてものが発生したら大変な騒ぎになるはずなのに、これといった騒動には発展していない。
「まあ聞けって。実はね、あの犯人はまだ捕まってなくて、この辺りに潜んでるかもしれないんだってさ! しかも――」
一旦話を切って、顔を強張らせる。
「その犯人は身長五、六メートルはある巨人で、百メートルを五秒で走り宙に浮かぶ……宇宙人なんだってよおおおおおおっ!」
話が急に胡散臭くなった。
隣で常葉さんが、はあ……、と大きく息を吐いた。
「千歳さん、貴女、宇宙人とかUFOとか、本当に飽きないのね」
「和歌ちゃんは好きですねー、その手の超常現象みたいなの。小学生の頃、UFOに攫われたって騒いでましたし」
「セイ、わたしのこと信じてないのか!? 常葉ちゃんまで……。本当に宇宙人に会ったことあるんだよ! ――砂原さんは? どうよ、宇宙人信じてる?」
いきなり振られて、返答に詰まる。
アブダクションか。
真偽は不明だけれど、まさか学校に自称体験者がいるとは。
「宇宙人と遭遇したら難解な質問をしろ、とはよく言われるよね。きっとすごく科学が発達してるから、答えられるはずだって。例えば、フェルマーの最終定理」
「それは厳しすぎるんじゃ……」
常葉さんの冷静な突っ込みが入った。
「え? 何? フェルマータ?」
「私は宇宙人、信じてるよ。地球にいるかどうかは微妙だと思うけど」
宇宙には我々の銀河の外側にも何億もの銀河があるらしいし、私達人間以外に知的生命体が存在したとしても何の不思議もないと思う。素人の想像に過ぎないけれど、要するに可能性の問題だ。
しかし、宇宙人が既にこの星にいるのなら、光速でも気が遠くなるくらい遥か彼方の宇宙から、いったいどうやってこの星に来たのだろう。ワープ的な何かか。
「宇宙人の話を抜きにしても、犯人がこの辺りに潜んでいるというのが本当なら怖いわね。千歳さんのお父さんがそう言っていたの?」
「うん。なんかね、いろいろ事情があるんだってさ」
千歳さんのお父さんは警察官なのだろうか。いや、報道機関に勤めているのかもしれない。自分から尋ねる気にはならないけれど。
「そんなことより、もうすぐクリスマスですよー」
ぽん、と両手を合わせて、「そして冬休みですねー。早くこないかなあ」と、深川さんがのんびりと言った。既に大盛りのラーメンはほとんど空になっている。
「はいはいクリスマスね。クリスマスクリスマス」
「今年も和歌ちゃんのうち行っていいですか?」
「はあ……。高校生になったってのに女二人で寂しく過ごすなんて……」
がくりと項垂れる千歳さん。
私はクリスマスに特別な思い入れなど持っていないし、特に予定もない。そばを啜りながら二人の仲良しトークをなんとはなしに聞いていた。
――ふと、左側から視線を感じて手を止める。
「あの、砂原さん……」
常葉さんは何かを言いたそうな表情をしていたが、やがて俯き、「ごめんなさい、なんでもないわ……」と、か細い声で呟いた。
怪訝に思ったが、そのあと千歳さんの提案で携帯電話の番号とメールアドレスを交換しようという流れになり、常葉さんのことは強制的に頭から追い出されてしまった。
この学校では携帯を持ってきても問題ない。授業中に弄っていたら当然怒られるが、常識と良識に基づいた使い方なら、休み時間に使用するのも許容されている。辺りを見回しても、食堂のあちこちで携帯と向き合っている生徒は多い。以前、ほかの高校は携帯の持ち込みを禁止されていると聞いて驚いた。
春は携帯を持っていないので、物珍しそうに画面を覗き込んでいた。
「そろそろ教室に戻りましょう」
また今度一緒に食べようぜ――千歳さんは笑顔で言う。本当はあまり気が進まなかったけれど、頷いておく。顔に下手な愛想笑いを貼りつけて。
やっと解放された。
千歳さんと深川さんが嫌いなわけではないし――むしろとてもいい人なのだけれど、どうも一緒に昼食を取るのは落ち着かない。そもそも、大して仲が良くない人と行動を共にするのは、苦手だ。
私は春の耳元で言う。
「放課後待ってて。一緒に帰ろう」
普段は一人か、あるいは常葉さんと途中まで下校するかのどちらかなのだけれど、今日からは春と帰る機会が増えそうだ。
――誰かと一緒に登下校するなんて、小学校の時以来か。
「常葉さんは、今日一緒に帰れる?」
「いえ、今日は生徒会の集まりがあるから――ごめんなさい」
午後の授業は引き続き睡魔との死闘。必死に抗ってみたものの、善戦空しく五時間目開始十分で敗れた。
放課後。
サークル活動の準備をしている生徒達を眺めながら、私と春は校門を出た。今日一日で、砂色の髪は大分学校の風景に溶け込み、春がここにいることの違和感は少なくなっていた。
帰り道。
「勉強は大丈夫そう?」
なんとかやっていけそう――春は安堵したように息をつく。
「――千歳の話」
「アブダクションの体験があるって言ってた、昼休みのあれ? 臨死体験とか誘拐現象の経験者って、頭がおかしくなったりするらしいね。でも本人もよくわかってなさそうだし、別に心配しなくてもいいんじゃないの。そもそも――」
ただの空想・妄想、もしくは勘違いしているだけかもしれない。
そっちじゃなくて――と、話を遮られた。
「千歳が話していた事件のほう」
「……ああ、殺人事件のこと? 報道規制がかかってるって言ってたけど」
太陽が西の地平線へと引き摺り込まれ、冬が加速してゆく。
冷たい風、乾いた空気。夕陽が沈むたびに、毎日寒くなってゆく季節。
「ユキは――知っているのか」
抑揚のない、平淡な声。
――知っているのか。
なるほど、春は黎さんの妹で、ボレアスの関係者だ。当然、知っているのだろう。
「犯人は――」
だから私は、隠すことなく自分の考えを述べた。
「汚染されてるんじゃないかって、私は思った」
「この件には、アマツカミが絡んでいるのか?」
その可能性は高い、とだけ言っておいた。
ついこの間の、黎さんの仕事についていった時のことを思い出す。
悪意を抱いたがゆえに、歪んだ加害者。
悪意に遭ったがために、死んだ被害者。
黎さんはいとも簡単に、その〈悪意〉を捕縛した。
私には――何もできない。
私には。
私の力じゃ、何も――
隣を歩く春が、大きな黒い瞳で、黙り込む私を見ていた。
私達にできることなんて何もない――私はただ、無関心を装った。
頭の中の雑念を追い出そうと、空気を勢いよく吸い込む。
鼻の奥が、冷たい空気で痛くなった。
◆
今から四、五十年くらい前から、世界では不可解な現象が起き始めた。
突然、意識を失い倒れる人が大勢現れたのだ。何の前触れもなく、突如意識不明に陥る人々は、全世界で数万人に及んだと言われる。
新種の病原菌だとする説もあったようだが、それらの事実が公にされることはなかった。各国の政府が情報を隠蔽したためだ。眠るように意識を失った人々は、病院という名の研究施設に移送・隔離された。おおかたの者は目を覚まさず、そのまま老衰死・衰弱死を迎えてしまった。
ところが、一部の者は意識を取り戻した。そして、目覚めた者達は例外なく何かしらの――特殊な力を身につけていた。
このできごとと前後して、超能力者と呼ばれる人間は急増する。先天的に力を保有して生まれてくる子供もいれば、後天的に覚醒する者もいた。遥か昔から存在はしていたであろう超能力者だが、その数は極めて少なかった。しかし現在は、各国の機関に登録されている超能力者だけでも、その数優に――一万以上と言われている。潜在的に力を秘めている者や未登録の超能力者も含めれば、倍近くはいるかもしれない。
超能力を扱える者は、大抵はESP型――超感覚的知覚能力の使い手である。テレパシーやリモート・ビューイング、クレアヴォヤンス、ソートグラフィー、プレコグニション、レトロコグニション、エトセトラ。
能力を科学的に解明しようとする現実主義な研究者は、これらの超能力は力が働く刹那、ある種のエネルギーが発生しているとして、エネルギーを物理的な特性を持ったものとして調査を進めている。光子や電子、X線――人間がどのようにこれらのエネルギーを発するのかが最大の問題とされたが、これら表の見解では限界がある。なぜなら超能力は、過去の枠組みで存在を証明できるレベルを超えているからだ。現代の科学でこの謎を解き明かすのは、在天の神々に抗う行為に等しい。
一方――
超能力に表の見解がある以上、当然、裏の見解もある。それが〈意識の海〉を基とした思想だ。ネットワークにアクセスする力――それこそが超能力である、と。
だが、この説が表立つことは決してない。裏のままでいなければならない、理由があるからだ。
――游泳する悪意。
誰が名づけたかは知らない。〈キリングダイバー〉、もしくは〈キラー〉とも呼ばれるそれは、明確な意思を持たず、ただ人間を――命ある者を殺す、純粋なまでの絶対意志。
凶行へ奔らせる殺意。
殺意を疾らせる衝動。
この〈悪意〉は、多く超能力に適性を持つ者に宿りその者の意識を喰らうが、何の力も持たない常人が襲われることもある。これは結局、人間は誰しも潜在的に超感覚的知覚能力を有しているからだと思われる。
精神を汚染された者は、意思を持たぬ人形へと変貌し、〈汚染体〉と呼ばれる。
一度キラーに憑かれた者が正気を取り戻し、元に戻ることはまずない。彼等の未来は死か、研究所という名の牢獄送りだ。
ボレアスをはじめ各国の主要機関には、研究とは別に、キラーに汚染された者を捕縛、場合によっては殺害するという仕事がある。俗に〈裏〉の仕事と呼ばれるものだ。
殺人を防ぐために、殺人が許されているのだ。人殺しを殺さなければ人殺しは止められず、人殺しを殺すから人殺しはなくならない。
私が所属するアマツカミ機関も、ボレアスと協力関係になってからは裏の働き手の数は増えたらしい。その裏の仕事を担当しているのが、アマツカミの中でも異能力者ばかりの集団〈地祇〉である。黎さんも、クニツカミの人間だ。
アマツカミの表向きの活動は、一般の研究所などの機関と変わらない。心理学や形而上学等も研究の対象であり、陰ながら社会に貢献している。だが本来の狙いは、超能力の研究や未登録能力者の保護、そして能力者に教育を受けさせることだ。
そして、クニツカミの役割はさらに異質だ。
クニツカミは裏の仕事専門の組織であり、銃や刃物などの武器の所有が許され、キラーを討ち滅ぼすために異能を振るう。キラーに憑かれた者の捕縛や討滅が主な任務であり、アマツカミの職員では対処できない問題を処理する。
キラーに憑かれ、狂人が生み出される原因は、全くわかっていない。
冷血な殺人鬼はなぜ生まれるのか。
超能力とどういう関係があるのか。
意識の海を泳ぎ、そこに手を伸ばした者を無秩序に襲う〈游泳する悪意〉とはいったいなんなのか。
その謎を解明すべく、超能力者は国に管理され、教育を受けさせられるのだ。
世界の裏でいくつも存在する超自然力・超能力・形而上学・脳科学等の研究機関の中で、大きな影響を世に与えているのが〈ボレアス〉〈ゼフュルス〉〈フィンブルの冬〉〈黄龍〉の四つである。
これらの機関は、各国の政府と連携し事態の沈静化を目指してはいるものの、単に人助けのために慈善事業をしているわけではない。
事実を知る一般人が少ないとはいえ、いくら情報操作をしたところで、その情報を百パーセント外部に漏らさず封じ込めることは不可能だ。噂は広まり、宗教団体やカルト教団の中には、神の怒りだと、世界の破滅だと、あることないことを吹聴する者も現れる始末である。
多くの人間が生きる裏で、世界では今も増え続けている。
意思を奪われる者。
意志に騙られる者。
灯を失なう者。
緋に染まる者。
犠牲者は国に管理され、親族にも厳しい口止めが徹底される。
それでも、いずれ世界は識るだろう。隠し通すことなんてできない。
そうなったら、世の中はいったいどうなるのだろう。
◆
太陽が一番高く昇る頃、青色の空の下を、私は歩いていた。
弱々しい陽射しが頭上から降り注ぐ。
息が白い。鼻の奥、乾いた空気が冷たさを通り越して痛く感じる。
眼前に迫るは巨大な白い建物。目的地はもう目と鼻の先。
綺麗に整備された歩行者用の通路を抜け、建物の入口前に確保された広場に足を踏み入れる。近代的な広場には洗練された造形の噴水もあるが、黙したまま鎮座し、水も止まっていた。今の季節は仕方ないけれど。暖かい季節が訪れれば色取り取りの草花が彩り、豊かに咲き誇るであろう豪華な造りの花壇や、そこかしこに並ぶ鮮やかな色合いをしたアグレッシブなオブジェが、自然と前向きな刺激を与えてくれる。
それなのに、目の前に聳える白い摩天楼からは、生き生きとしたポジティブなイメージは何一つ伝わってこない。漂うのはただ、虚無感や儚さ――空虚な現実感のみ。五感全てが、寂しさや哀しさを感じ取り、受け止めていた。
ここは、病院。
一般の病院とは異なる、アマツカミの息がかかった病院である。
もっとも、呼び名を少し変えてしまえば――それは研究施設になってしまうわけだけれど。
都心からほどよく離れたこの施設は、莫大な敷地を有し、住宅街のように何棟もの巨大な塔が林立している。一番目立つ建物がアマツカミの本部だ。私が高校に通う前まで過ごした施設も、この敷地内にある。
そして本部から大分離れたところにある、複数の建物群。その中の一つの建物に、私は月に一度、休日を利用して足を運んでいた。
正面の自動ドアを通り、中へと進む。
一階は受付や待合室。椅子が並び、ソファーやテレビも置いてある。壁や床は落ち着いた色で統一され、内装も豪華だ。一見、ここが本当に病院なのかと疑ってしまうような雰囲気さえ醸し出している。
がらんとして人は疎らで、ただでさえ広い空間がさらに広く感じられた。
施設内で医師や看護師、事務員が勤務しているのは普通の病院と同じ。違うのは、アマツカミの職員や政府のお偉方が出歩きしていることと――患者が抱えている病状が特殊だということだ。
気難しい顔をした老人とすれ違う。白衣を着ているので、医師か研究所の職員だろう。
受付のおばさんに、要件を記入した紙と、財布に入れてあるカードを提出する。このカードはアマツカミの関係者であることを示すもので、これがないと一階の奥にあるゲートの向こう側には行けない。
「あら、砂原さん。お見舞い? いつも偉いわね」
柔らかい物腰の、親切なおばさん。もう互いに顔も名前も覚えている。
「きっと喜んでくれてるわよ。――はい、どうぞ」
カードを受け取り、警備員に会釈しつつ足早にゲートを通過する。
誰かと二人きりになるのは嫌なので、エレベーターには乗らない。いつものように階段の端をゆっくりと上る。
一段一段、ゆっくりと。
時間が巻き戻る感覚。少しずつ、少しずつ、あの冬に近づいてゆく。何度も何度も何度も何度も、この階段を上るたびに、私は進んでいるはずなのに戻っている。
来た道を、逆戻りしている。
目的の階。
幅のある廊下の左右には扉が並び、扉の横の壁には名簿が貼ってある。十人程度の人の名前と、その横には桁数が多い番号。
この病院の患者は、そのほとんどが意識不明の昏睡状態だ。原因不明の病――いや、病かどうかすらわからないものに侵されている。
この病棟では、国内で意識不明となり倒れた患者の診療が行われているのだ。
廊下を進み、一番奥の扉の前で足を止める。本来なら大部屋に十人弱の人が纏めて入れられるのだが、ここは特別に個室。黎さんが計らってくれたのだと思う。
扉の横を一瞥して、一つ息を吐く。
名簿の一番上にぽつんと書いてあるのは、『星河灯雨』という名前。
扉を引き、室内に足を踏み入れる。
――静寂が、私の耳を、肌を、心臓を、襲う。
窓から射し込む眩い陽の光と、部屋を覆う沈んだ空気。窓の傍で存在を主張する鮮麗な色彩のアレンジメントフラワーも、ここじゃなかったらきっと輝けたかもしれない。
この部屋はもう、完結している。
誰が立ち入ろうとも、この部屋の時間は、もう動かない。
部屋の隅にはベッドが一つ。
白い布団は窓明かりの陽光に照らされ、空に浮かぶ綿雲のようで――そして。
その雲の上に。
―――女の子が眠っている。
細い管に繋がれ、縛られ、羽ばたくこともできずに眠り続ける蛹。
まるで死んでいるようで。
けれど確かに生きている。
私は、その人の名前を呼んだ。
「ひーちゃん」
久しぶりに口にしたその名前は、掠れた音になって空気に溶け込み、消えていった。
ベッドの隣に置いてある椅子に、すとんと腰を下ろす。
目の前に、ひーちゃんの顔がある。整った優しい目鼻立ちに、柔らかそうな唇、いつの間にか私のほうが大きくなってしまった小柄なその身。顔色はよく、眠っているようにしか見えない。少し髪が伸びていた。閉じた瞼にかかりそうになっていたつややかな黒髪を、そっと手で払う。
身の周りの世話は全て病院の人がやってくれている。だからここにいれば、何も心配することはない。ただ、目を覚ましてくれるその日まで、私は――
両手で包み込むように、ひーちゃんの手を握る。
その手はあったかくて、やわらかくて。
指先から伝わる温もりは、ひーちゃんが生きているという証。
ひーちゃんの指に、甲に、掌に、自分の指を絡めて、撫でて、頬に触れさせる。
ひーちゃんの手。
あったかくて、やわらかくて、けれども頬に触れるその灯は、荒涼たる焔を伴って私の心を焼く。熱くて痛くて苦しくて、それでも感じていたくて。光を求め自ら火に焼かれる愚かな蛾のように、私はただひーちゃんを欲した。いつの間にか涙が零れて、私とひーちゃんの手を濡らしていた。
どんなにその焔を近くで感じても、私の心には何も灯らない。あの日から空っぽのままで、私の中に燃やすものなんてないのだ。
すぐ傍にいるのに。
すぐ隣にいるのに。
ひーちゃんにもらった蝋燭は消えてしまって、雪だけが積もる。
また雪が降っている。
あの冬からずっと、雪だけが降り続いている。
だめだ。
ひーちゃんがいないと、私はだめなんだ。
黎さんに拾われて、施設でいろんな人達と出会って、高校にも通って友達もできた。
でも、でもね、ひーちゃんがいないと、私は――
「ひーちゃん。もうすぐ四年だよ。あの日から、四年。私達、四年間も、何も――」
涙に滲む視界。
ぎゅっと、手を握る力を強くしても、ひーちゃんは何の反応も示さない。
泪で歪む世界。
何一つ変わらない。私が変わったのは外見だけ。中身は全く成長していない。きっと、私の本質はずっとこのままだ。弱虫で泣虫、自殺する勇気もない、臆病者。高校に通うのだって、本当はあの施設から逃げ出したかったからだ。何もかも忘れて、リセットした気になって、もう一度始めたつもりになって。
逃げられるはずなんてないのに。
一生背負わなければいけないことなのに――
ひーちゃんの前で泣いてばかりだね、昔から。
いつも優しく頭を撫でてくれたこと、忘れてないよ。
ずっと、ずっと忘れない。
いつの間にか私は立ち上がっていた。
ベッドに身を乗り出し、ひーちゃんの頬に触れる。
「一人は、嫌だな――」
おかしな話だ。
いつも自分から他者を遠ざける態度を取っておきながら、一人でいることがこんなにも怖い。
孤独が怖い。
それでも――ひーちゃんがいてくれるなら、私はそれだけでいいのに。
目の前に、ひーちゃんの顔がある。大好きな人の顔が。
宝石を掴むように、大切なものを傷つけないように、その花の顔を両手で包み込み、私はひーちゃんに口づけした。
何も変わらないこの部屋で、ただ無為に時だけが流れてゆく。唇に残るひーちゃんの温もりに溺れながら、私はひーちゃんから目を離さなかった。
ごめんね、ひーちゃん――
解けることのない永遠の雪。
訪れることのない陽春の光。
私は、冬を呪う。
太陽が段々低く沈む頃、灰色の雲の下を、私は歩いていた。
病院を出て、駅までの帰り道。
やはり、ここに来るといろんなことを考えてしまう。
ばかばかしいと思う。
誰のせいだと思っているのだろう。
全部、私が悪いのに。
決めたはずだ。
お母さんもひーちゃんもいないこの世界で、私は自分ができることをしようと。
罪滅ぼしではなく、義務として。
私は、自分のために命を使ってはいけない。
人のために命を使って――そして死にたい。
怨むのは自分の運命。自分の――
――それでも、いつも脳裏を過る。
あの時。
あの化物さえ、私達の前に現れなければ――
◆
外には黒い海が広がっている。
玄関の鍵を開けてくれた春に、私は床に吸い込まれそうな声で「ただいま」と返した。
春がこの家に来て早二週間。依然として、黎さんはあれ以来帰ってきていない。春との二人暮らしが続いている。
春は既にパジャマ姿だった。パジャマと言っても、私があげた古いトレーナーだけれど。
「どこに行ってたの」
「病院。友達が入院してるからお見舞いに」
嘘は吐いていない。
夕飯を済ませたあと、私は居間でみかんの缶詰を器に盛らずに食べていた。有名な芸人が何か喋るたびに、テレビが笑い声を発していた。
隣には春が座っている。
スプーンを半眼で眺めつつ、黎さんのことを考える。
「いつ帰ってくるのかな、黎さん。春も、早く黎さんに会いたいでしょ」
考えていたことを、春のほうを向かずにそのまま口に出す。
「姉様は――忙しいんだろう」
私は知らなかったけれど、春がここへ来ることを黎さんは当然知っていた。だが、本来春がやってくる予定だった日になっても、黎さんは帰ってこなかった。それほど忙しいらしい。
スプーンをぼうっと眺めながら何かを思案する。
脳漿を絞れば絞るほど、中身がすかすかになってゆく。考えるたびに、色んな絵の具が混ざり合い、真っ黒になって何も見えなくなってしまう。
将来のことを考えてみた。
高校を卒業したら、アマツカミの研究員になろうか。黎さんみたいな裏の仕事をしようか。けれど想像したところで、実際に自分がそうしているイメージが全く湧かない。
「ユキ」
「え――」
目の焦点を手にしていたスプーンに合わせると、ステンレスのスプーンが皿と柄の間のところで、反るようにぐにゃりと曲がっていた。
というか、ほぼ折れていた。
「あー……」
私が使える何の役にも立たない唯一のPKは、スプーンを曲げること。
これはずっと昔――五歳頃には既に使えていた記憶がある。
スプーンだけを曲げることができるのは、『スプーンが曲がるという事実を識っているから』。奇妙な表現だが、そうとしか言いようがない。
憶えていないけれど、小さい頃テレビでスプーンが曲がる瞬間を見たのだと思う(その映像はいかさまだったかもしれないが)。その時から、私はスプーン曲げができた。特に深く念じるわけでもなく、スプーンは曲がる。それは現実として起こることなのだから仕方ない。
スプーン曲げのような些細なPKを扱える子供は稀にいるが、多くは成長するにつれて忘れてしまう。また、この力はESPを使える者が訓練しても身につくものではないらしい。超能力は基本的に幼い頃の閃きと才能が全てだ。あとから自分の適正でない力を習得するには、才能が備わった上での並々ならぬ努力が必要である。
私はスプーンを持っているとついうっかり、無意識に曲げてしまうことがある。今まで曲げてしまったスプーンは数知れない。
最近は気をつけていたのだけれど、またやってしまった。
一度曲げてしまったら、もう元には戻せないのに。
◆
私には二つ年上の、女の子の友達がいた。
その女の子とは家が近所で、小さい頃から――それこそ物心がついた頃には既に当たり前のように一緒にいて、たくさん同じ時間を過ごした。
私は彼女が好きだったし、彼女も私を好きだと言ってくれた。
――私の『好き』と彼女の『好き』とでは、意味が違ったけれど。
だが、それももう昔の話だ。
今――彼女は私を恨んでいる。憎んでいる。
顔も見たくないはずだ。
だから、私が彼女に会いに行くのは、ただの自己満足。ただの自己陶酔。
彼女のために会いに行きたいのに、会いに行くことが彼女のためにならない。
それでも――きっと私は、彼女に会いに行くのをやめないだろう。
眠っている彼女の顔がどうしようもなく好きだから。
彼女の傍にいたいから。
何もできない彼女の全てを――私のものにしたいから。
氷のように冷たく感じる布団を頭から被り、足を擦り合わせる。暖まるまでの辛抱。
豆電球も点いていないので、目を開いても閉じても、見えるものは同じ。
闇。
真っ暗な世界に、一人。
ずっと昔――まだ私が幼かった頃、お母さんと一緒に眠るのが好きだった。
暗い部屋で一人眠る怖さに耐えられなくて、たびたびお母さんの布団に潜り込んだ。
お母さんの温もりは私を怖い夢から守ってくれて、お母さんの匂いは私を安心させてくれた。
お母さんは、ただ黙って微笑んでくれていた。
今思い返してみると、あの頃の私が心を許していた存在は、地球上に二人しかいなかったのかもしれない。
友達がいなかったわけではないけれど、あの頃を回想すると、鮮明に浮かんでくる映像には二人の姿しかなかった。
お母さんと――
ひーちゃんだけ。
ひーちゃんの家には何度も遊びに行ったし、おばさんの手料理をしばしばご馳走になった。お互いの家に泊まったりもした。
私達は手を握り合って、眠った。
真っ暗な世界に、二人。
雪の花は、灯に照らされ光を知った。
真っ暗な世界の、灯火。
私達は、月夜の夢を紡いだ。
――その灯が消えてしまうなんて、考えもせずに。
私は幸せだったんだ。
失ってから、初めて気づいた。
今夜、世界は相変わらず息苦しいほどの黒で塗り潰した冥暗で、月も星も見えない。
私は、闇夜の夢でもがく。
果てしなく続く漆黒の闇の中を、当てもなく彷徨っている。
どこへ行けばいいのだろう。
どこまで行けばいいのだろう。
――ああ、声がする。
またいつもの声だ。
遠く、深海の底から響いてくるような暗い声。
嫌だ。
聞きたくない。
わかっている。
殺したのは私だ。
大勢の無関係な人を。
ひーちゃんの両親を。
殺したのは――私。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
でも。
でもね。
私が聞きたいのは――
恥ずかC