【一】
ここから本編です。
私は後悔していた。
まさかこんなことになるとは――と心の中で嘆きながら、目の前の問題をどう切り抜けようかと頭を悩ませる。
時刻はもうすぐ午前零時を回るはずだ。
今私がいるのは、道路の脇にある小さな正方形の公園――というより空き地。数本の針葉樹が寂しそうに立っているだけで、あとはベンチが一つあるのみ。
私は古ぼけた木製ベンチに腰を下ろしていた。
深閑たる夜。
静寂に包まれ、辺りに人影は見当たらない。
――私の正面、十メートルほど前方に突っ立っている男を除いては。
体が熱い。いつの間にか汗をかいている。さっきまで極月の寒さと風の冷たさに、もっと厚着してこればよかった、なんて暢気なことを考えていたのに。
一度唾を飲み込み、前方の男を観察する。
スーツ姿の、どこにでもいるような中年男性。しかし、私に向けられた双眸は虚ろで、口はだらしなく半開きのまま。異様なほど存在感が薄く、生気が全く感じられない。いったいいつからそこに立っていたのか。
そして問題は、その男が手にしている細長い凶器だ。どう見てもナイフ。常夜灯が刃渡り三十センチはあるそれを怪しく照らしていた。
――間違いない。黎さんが捜していた人物だ。
改めて、今度は『あちら側の眼』で男を視た。
薄紫色の靄――のようなものが、男に纏わりついている。
男は私のことなど眼中にないかのように不気味に直立しているだけ。
逃げようと思ったけれど、こっちが動くと向こうも動きそうな気がして下手に身動きが取れず、立ち上がることさえできないでいた。
とにかく、黎さんを呼ばなければ。
座ったまま男から目を離さず、眉間の少し上、額の中心辺りに力を込める。
体中の血液をそこへ集めるイメージ――頭の中にすらりとした麗人の姿を思い描く。
――黎さん、聞こえますか。
彼女は先ほど、煙草を買うためにすぐ傍に一軒だけあるコンビニへ行った。ここで待っていろと言われたためついていかなかったが、完全に失敗だった。
だが、今さら悔やんでも仕方がない。
焦りながら返事を待つ。その間も男に注意を払うのは忘れない。
三秒と経たずに、頭の中に直接声が届いた。
少ししゃがれた、一度聴いたら忘れられないような魅力的な声。
その声に、非常にまずいので早く来てほしいと、即座に、そして簡潔に返事を送る。
今行くわ――とだけ答え、ハスキーな声は途絶えた。
コンビニはすぐそこだ。黎さんが来るまで、この状況で何事もないままやり過ごせるか――そう考えた時だった。
あれは――
男の背後にある何かが、目に入った。
今座っているベンチとは反対側、男の後方二十メートルくらい先にあるブロック塀の足下。暗くてよく見えないけれど、何かが横たわっている。
目を凝らす。
なんだろう、あれは――
「…………!」
人――だ。
屍体――だろうか。
どうして――
その時、視界の片隅で影が動いた。はっとして視線を戻した時には、男がナイフを持った右腕をゆっくりと振り翳し、眼前に迫っていた。そのまま私目がけて右腕を垂直に振り下ろす。やばい。私は右前方に飛び退いてなんとか回避。その代わり鈍い音と共にベンチの背凭れに刃が食い込んだ。背筋が凍る。
一拍遅れて、この男があそこに倒れている人を殺したのだと理解する。いや本当に死んでいるかどうかなんて、そんなことわからないけれど。
どうする。
逃げるか戦うか。
などという選択肢が存在するはずもなく、私は振り向きざま全速力で駈け出した。
「――待ちなさい」
そこへ、待ち望んでいた声が静かに、凛と、鋭利な刃物のように、冷たい空気を切り裂いて、響いた。
私も男も足を止め、声の主を視界に捉える。
彼女はブロック塀の上に立っていた。まるで彼女のためにそこに存在しているかのような街灯が、彼女の表情を妖しく照らす。
腕を組み、悠然と直立するその姿に、自分が心から安堵したのがわかった。
黎さんは塀から華麗に飛び下りると、憐れんだような口調で男に語りかける。
「完全に汚染されているわね、連続殺人犯さん。聞こえちゃいないでしょうけれど……、大人しく」
その言葉を切って、男が黎さんに向かって猛然と突進した。ナイフを握った右腕を突き出す。
耳障りな濁った音。
次の瞬間には、男は吹っ飛ばされていた。
仰向けに倒れ、ぴくりとも動かない。
人の話は最後まで聞くものよ、という呟きが聞こえた。
呆気に取られて何も言えない。
気が抜けて、その場にふらふらと座り込む。
男の顔面を打ち抜いた右拳をひらひらと振り上げながら、アルカイック・スマイルを浮かべる黎さん。
「大丈夫? 雪花」
「はい――大丈夫です。殺されそうになりましたけどね」
黎さんは私の手を掴んで立たせる。ぽんぽん、と服についた砂も払ってくれた。
そこで、塀の近くで倒れているもう一人のことを思い出した。黎さんもそれに気づいたのか、だめね、死んでるわ、とさらっと口にした。
「どうするんですか、これから」
「アタシたちの仕事は終わり。後始末は任せましょう……」
ほっと胸を撫で下ろす。
なんだかんだで、黎さんは頼りになる。
この人が傍にいると、私は安心できるのだ。
黎さんは――私を『許して』くれるから。
肩に掛けていたメッセンジャーバッグからロープを取り出して、黎さんに渡す。気絶している男が手際よく拘束されてゆく様子を、ベンチに座りながらぼんやりと眺める。
「雪花」
こちらを見ずに、黎さんは話す。
「まだ、力を使うのは怖い?」
私は答えない。黎さんもそれ以上訊いてこなかった。
冷たい風がそよそよと、髪を揺らしてゆく。
もう冬だ。
冬。
嫌な季節。
雪は、見たくない。
あれからもうすぐ四年だ。黎さんに出会ったあの冬から。
荒野黎。
頭脳明晰、容姿端麗。女なら誰でも憧れるような、才色兼備の黎き麗人。
私の背もクラスの女子の中では高いほうだけれど、黎さんは私よりさらに十センチほど高い。背中に届く長い黒髪と、暗黒色の二つの瞳。夜明け前の闇を抱いたその黒は、色白な西洋人を思わせる上品な顔立ちに、美しいコントラストを描いている。全ての動作が優美で優雅で優艶で、同じ女として憧れてしまう。訊いたことがあるわけではないが、おそらく二十代半ば。初めて会った時から外見はあまり変わっていない。ロングスカートが、ひらひらと風になびいていた。
黎さんは私の恩人で、そして――
私と同じ、超能力者である。
超能力。
普通ではありえないと考えられることを起こす、特別な力。
テレパシーや透視、予知や念力など、その種類には様々なものがあるが、世間に存在を認められていないという点ではどれも同じである。
超能力者というものはいるところにはいるもので、今現在、世界に何人の超能力者がいるのかは定かでないが、その数は確実に増えてきている。
私も黎さんも、その一人。
「超能力者は昔から間違いなく存在していたわ。それこそ何千年も前から。組織的に超能力者が暗躍し始め、その活動がはっきりと記録に残り出したのは第二次世界大戦の頃からね……」
黎さんが運転する車の助手席で、話に耳を傾ける。
「ボレアスを筆頭に、アメリカではかなり超能力研究が盛んね。次いで西欧、ロシア、中国……。超能力者と言っても、ほとんどが子供騙しみたいなESPしか使えないけれど。大戦時には諜報に使われていたという話、成果はあったのかしらね……。それに比べれば、日本の研究は相変わらず遅れているわ。超能力者の数が少ないのもあるし、基本的に日本人は超能力を信じていないから……」
真夜中、私達は帰宅途中。乗っているのは、コンビニに停めておいた黎さんの車。
私は中学校には行っていない。〈ボレアス〉――アメリカに本部を置く超能力・超自然力の研究機関――と連携を組む〈天神〉という機関の教育施設で生活していたからだ。十五歳になった頃、一般の高校に通うために施設を出る決心をして、その時黎さんがマンションを用意してくれたのだ。黎さんはよく家を空けるため、ほぼ一人暮らしである。
「PKが使える人って、やっぱり少ないですよ。アマツカミにもあまりいませんし」
「そうね……。ESPとPKは全くの別物だし、両方使える人は滅多にいないわ。超能力者と言われている人は、大抵エスパーよ」
一般に〈超能力〉と呼ばれている技術能力は、大きく分類すると二種類に大別される。五感を使用せずに情報を知覚できるESP型と、物質になんらかの影響を与えるなど物理的な性質を持ったPK型である。中にはその枠に収まらない例外もあるが、そういう力は超能力というより〈異能力〉、もしくは縮めて〈異能〉と呼ばれることが多い。
ちなみに、エスパーという言葉は超能力者全てを指すとしばしば思われがちだが、正確にはESP――特にテレパシーや透視、予知を行える者のみを限定してそのように呼ぶ。
「スプーン曲げくらいなら私にもできるんですけどね」
「スプーンしか曲げられないんでしょう? 何かの役に立つのかしら、それ……」
「…………」
「ESPに比べたらPKなんてほとんど研究されていないからね……。研究者が求めているのは、溟海の果てへ至る究極のESPだから」
どんな力なのだろう、それは。
「超能力や魔術、心霊、気功、エーテル、チャクラといった類は政治や宗教と結びつけられがちだから、戦争や政争に利用されることが多い。現にどこにも所属していないフリーの能力者には、そういう裏の仕事がある。……アタシたちがやっていることもそんなに変わらないけれど。でも、多くの研究者はそんなことどうだっていいのでしょう。彼等が純粋に求めているのは宇宙に遍在する知性――智恵そのもの。要は世界の全てが知りたい、ただそれだけなんだから」
まるで雲を掴むような話だ。
「そんなこと、本当にできるんですか」
さあ、どうかしら――と気のない返答。
「でもアマツカミにいればいつかお前の願いも――叶うかもしれないし、ね……」
私の、願い。
私がアマツカミにいるのは、ただ超能力が使えるからという理由だけではない。アマツカミの研究に協力するのは、やりたいこと、やらなければいけないことがあるから。だからこうして、時々黎さんの手伝いもしているのだ。
「研究者にとってPKなんて何の役にも立たないってことよ……」
PKが役に立たない、か。テレパシーや透視なんかより、念力のほうが派手でかっこいい気がするけれど。
「学校は楽しい?」
唐突な言葉。
私は考える間もなく、反射的にはいと答えた。黎さんも、そう、とだけ言った。
もうすぐマンションに着く。
今日は日曜だし、帰ったらシャワーだけ浴びてぐっすり寝よう。欠伸を噛み殺しつつ、それにしてもえらい目に遭った、なんて今さらながらに思った。
都内某所の高層マンション。最上階の3LDK。
都心に近いと言えば近いが、近くないと言えば近くはない。周囲に高い建造物が少ないので、このマンションだけがちょっと浮いている。
てっきり、黎さんも今日はここに泊まってゆくのかと思っていたのだけれど、用事があるらしく私を降ろして去っていった。黎さんの車は、車に関して無知蒙昧な私でも一目で高級車だとわかる。
エレベーターから降りて部屋を目指す。
――すると。
見慣れぬものが目に映った。
玄関の入口前の共有廊下に、知らない女の子が膝を抱えて座っている。
小さな女の子だ。
まず目を引いたのは、灰を被ったような、けれどきらきらと輝いている長い砂色の髪。俯いた表情を隠し、丸まった背中に無造作に垂れている。少女の隣には、キャスター付きの大きなキャリーバッグが置いてあった。
誰。
眠っているのだろうか。
この寒さの中、こんな時間に?
顔が確認できないからなんとも言えないけれど、どこかで会った憶えはなかった。
一人で狼狽していたのが伝わったのか、少女がゆっくりと――顔を上げた。
思いっきり目が合う。
真っ黒な瞳が私を捉えている。ちっちゃな顔。真っ白ですべすべしていそうな肌。長い黒睫毛に、二重瞼が美しさを添えている。形のよい鼻。小さな唇は花弁のようで――
つまり簡潔に言うと、ものすごく美しくて、可愛い女の子だった。
中学生くらいだろうか。バッグがやたらと大きく見えてしまう小柄な体。コートにスカート、タイツにブーツという格好。
そして、私を射貫き飲み込むような――暗黒色の二つの瞳。
とりあえず、少女に声をかける。少女は呼びかけには反応せず、きょろきょろと辺りを見渡す。
「――あ」
ようやく声を発した少女を前に、私は身動きが取れないでいた。
「砂原雪花――か」
寒さに震えるように肩を抱きながら、不遜な声で少女はそう言った。小学生の女の子みたいな、少し舌足らずな声が廊下に響いた。
私を知っている――ということは、やはり私の家に何か用があるのか。
不審な少女を少し警戒しながら、そうですけど、どちら様ですかと訊き返す。
「姉様から――聞いていないのか」
は?
ねえさま?
「あたしはアラノ・ハルヒコだ。今日からここでお世話になる予定だったんだが――姉様から何も聞いていないのか」
「あらのはるひこ――さん」
「……姉様、やっぱり何も話していないのか」
あらの――荒野。
姉様。
つまり――
「あたしは、荒野レイの妹だ」
砂原雪花、お前のことは知っている――と少女は言った。
黎さんに妹がいたのかとかハルヒコって男の名前っぽいなとか、数々の疑問を吹き飛ばして私は。
初対面で年下のくせにいきなり呼び捨てか――
と思った。
家に入った瞬間どっと押し寄せてきた疲労を無視し、「上がってください」と背後の人物に声をかけ、そのままリビングルームへと向かった。
「つまり――」
砂色の少女と、向かい合ってソファーに座る。テレビを点けたが、日曜の深夜だけあってテレホンショッピングくらいしかやっていなかった。
「えっと――荒野、ハルヒコさん――は黎さんの妹さんで、私のことも黎さんに聞いて知っていた――と」
「ハルでいい」
空中に指で文字を書きながら、漢字でどう書くかを説明する少女。向かい合っているので、何を書いているのかはさっぱりわからなかったが。
荒野春日子。
『日子』は『彦』と同じで、男子の美称じゃなかったっけ。女子の美称は『姫』、もしくは『日女』。日子も日女も太陽の子供という意味だ。でもどうして男子の名前なのだろう。どう見ても王子様よりお姫様という感じだ。男に女みたいな名前をつけたり、女に男っぽい名前をつけたりする親がいないわけではないだろうけれど。
春。春さん。春ちゃん。
心の中でその名を呟いてみる。私は人の名前を呼び捨てることに慣れていない。クラスメートも苗字にさんづけで呼ぶ。けれど黎さんがいるのに「荒野さん」と苗字で呼ぶのも変だし、年下に「春さん」はない気がする。となると「春ちゃん」か。多少抵抗があるが仕方ない。
「春でいいと言っただろ。あたしはユキバナと呼ばせてもらうから」
「…………」
なるほど、言われてみれば確かに、どことなく目元が黎さんと似ているかもしれない。
それにしても、初対面の人間にこれだけ尊大な態度を取られるとは。
腹が立つわけではないが、若干人見知りで、他人と距離を置くタイプの私とはまるで違う。
「春は――黎さんの妹さん、って言ってたけど――」
口に出してから、何を尋ねればいいのか悩む。訊きたいことは山ほどあるはずなのに、沈黙をごまかすために視線を泳がせることしかできなかった。
「妹と言っても――」
春が助け船を出すように口を開いた。
「血は繋がっていない。義理の姉妹だから」
あれ――血は繋がっていない、のか。目元が似ていると思ったのだけれど。
どういう事情があるのだろう。
そもそも、どうして黎さんは妹の存在を教えてくれなかったのだろう。
血縁関係という微妙な問題であるだけに、さすがに図々しく踏み込むわけにもいかない。
「今日から――ここで暮らすんだよね」
「やっぱり、迷惑か」
「あ、いや、迷惑ってわけじゃなくてさ、急で驚いただけだよ。黎さんから何も聞いてなかったから」
一瞬、表情に翳りが覗く。寂しそうな、悲しそうな。
「……ごめんなさい。突然邪魔して」
「気にしなくていいよ。それよりも、いつからあそこで待ってたの?」
私が昨日家を出たのは午後六時くらいだ。その時は廊下に誰もいなかったので、この子が到着したのはそれ以降ということになる。
「七時くらい。姉様を驚かせようと思って、予定を一週間早めたんだ。でも誰もいなかったから、ここで待つことにした」
「昨日の夜から、ずっと廊下で待ってたの?」
春は頷いたあと、「朝になっても帰ってこなかったら、心当たりのあるところに行こうと思ってた」と言った。
「寒かったでしょ……。大丈夫?」
「平気」
日本に来るのがすごく楽しみだったから、と春は言う。
「えっ、外国から来たの?」
「うん。姉様がね、日本に来ないかって言ってくれたんだ。あたし、嬉しくて。それに、ユキバナのことも話で聞いていたから」
なるほど、アメリカか。
黎さんは元々、アメリカで暮らしていたらしい。おそらくアメリカで暮らしていた春を、黎さんが日本に呼んだと、そんなところか。
春は黎さんのことをよほど慕っているのだろう。今のわずかな時間で、それが強く感じられた。
「あたし、アメリカに住んでたんだ」
やっぱり。となると――
「――ボレアス」
「そう、ボレアス。こっちでいうアマツカミ機関だな」
ボレアスの関係者だとしても、黎さんの妹なら何の不思議もない。
この子も、超能力者なのだろうか。
春は小さく横に首を振る。
「あたしは超能力者じゃない。特別な力は何もない、ただの人間だ」
意外な答えだった。
確かに、ボレアスの施設で育った者全てが超能力者というわけではないが、義理とはいえ、あの黎さんの妹がただの人間であるはずがない――と考えてしまっていた。
妙に思いながらも、とりあえずは納得する。
「ユキバナは、どんな力が使えるんだ」
「私はテレパシストだよ。と言っても、黎さんとしかうまくできないんだけど」
私のテレパシーは黎さんとしか使えない。
テレパシーを意識的に使用できる者は通常、誰とでも交信が可能なわけではない。頭の中で対象者の姿を思い描く必要があり、顔や声、性格、身体的特徴など、為人をある程度心得ておかなければならない。
要するに、知らない人とはもちろん、ちょっとした知り合い程度の相手にテレパシーは使えないのだ。
だから私は、黎さんにしかテレパシーを使えない。
黎さんしか、いないのだ――私には。
研究者によって見解は異なり、まだ解明されてはいないが、テレパシーが使用される際に発生するエネルギーは光の速さで空間を伝播する、という。さらにこのエネルギーはあらゆる物質を透過し、何かに妨げられることはない。ゆえに、テレパシスト同士は地球上どこにいようと交信が可能――というのが通説である。
この説はたまにテレビや雑誌などでも取り上げられているが、信憑性はない。一般人にとっては超能力自体が既に眉唾物だし、信じている人のほうが圧倒的に少ないのだから仕方ない。透視や遠隔視もこのエネルギーが基本だと考えられていて、多くの研究者はそれが何かを必死に探っているわけだ。
私と黎さんのテレパシーにも距離は関係ない。超能力の精度は体調や精神状態に大きく左右されるが、今の私はどんなに絶好調でも黎さん以外の人に意思を飛ばせないし、黎さん以外の声を聞いたこともない。
仮にこのテレパシー――精神感応エネルギーが空気中を伝わっているのなら、能力者はその情報を全てキャッチできることになり、プライバシーも何もあったものではない。しかしこれはあくまで、テレパシーの際に何かしらのエネルギーが発生し、そのエネルギーが空気中を伝わると仮定するなら、の話だ。
優れた超能力者は情報を特定の相手にしか認識させないために、暗号のように意思を伝達するという話を聞いたことがあるが、私にはそんな大層な技術はない。
「普段から必要な時しか頼らないようにしてるし――そもそも黎さん以外に使える人がいないんだから、ほとんど役に立たない力だよ」
テレパシーは精神感応エネルギーが光速で空気中を伝播する――というのは、確かに超能力の一種の解釈ではあるが、それは超能力を科学で解明しようとした末に発表されたものだ。
しかし、私達のように超能力と直接関わりを持っている者の間には、別の解釈が主流となっている。
即ち、私達の意識は全て無意識下で繋がっており、テレパシーはその〈意識の海〉を泳ぐ力だとする見解である。
個を超越し、知識・記憶を共有する海。生きとし生ける全て、そして死者の意識さえ混ざり合い漂流し貯蔵されている、歴史の大海原。――そこにアクセスする力こそが超感覚的知覚能力である、と。
莫大で膨大な、全ての記録を書き溜めるネットワーク――それが意識の海。アマツカミではそれを〈溟海〉と呼んでいる。ここにアクセスできれば、宇宙の真理を知ることができると一部の者達の間で信じられている。
思想・派閥によって超能力をどう捉えるかは様々だが、実際にそのネットワークにアクセスし、あらゆる情報を手に入れられる能力者がいるという噂も聞いたことがある。特に、各国の研究機関の上層部には、そういう連中がいるらしい。
溟海などという単語を、一般人は当然知らない。説明したところで、鼻で笑われるだけだ。
けれど確実に、科学では説明できない『何か』は存在する。
世の中には説明できない事象が数多く存在している。
私はそれを知っている。
身を以て、体験したから。
全ての意識が眠っているという溟海。
その海を泳ぐことで、誰とでも話せて、誰とでも会えるのなら。
私は――
「今日は遅いし、もう寝ようか」
大きく伸びをして、立ち上がる。春を見遣ると、申し訳なさそうな表情をしていた。
「悪かった、急に押しかけて」
「気にしないで。空いてる部屋があるから、そこ使って。無駄に広いからさ、ここ。明日――もう今日か。いろいろ買いに行こうか。揃ってない物もあるだろうし」
ありがとう、と春は言った。
「そういえば――」
肝心なことに思い至る。
「学校はどうするの?」
アメリカではボレアスの施設で学んでいたらしいが、こっちではどうするつもりなのだろうか。
「ユキバナと同じ高校に通わせてくれると、姉様が取り計らってくれた。だから月曜日から行くつもりだ」
鏡に、仏頂面をした裸の女が映っている。身長、百七十センチちょっと。生まれてこの方肥満とは無縁の、ひょろりとした細身。濡れて額に張りついたショートカットの黒髪。目つきが悪いとたびたび指摘される細い目。可愛さとは無縁の顔立ち。
自分の裸を観察する趣味はないので、すぐに鏡から視線を外す。
浴室から出て体を拭き、上下黒一色のスウェットを着る。
寝る準備を済ませ、自分の部屋に入り電気も点けずにベッドへ向かう。部屋にはアンティーク仕立ての木製ライティングビューローと、ホームセンターで売っているカラーボックス程度の物しか置いていないので、暗くても何かに躓くことはない。
昼前には起きてあの子と買い物に行かなければいけない。この辺りのことを知らないだろうし、日用品を揃える必要がある。服はどうしようか。私の通っている高校は私服だ。黎さんになんとかしてもらおう。
――面倒なことになった。
これからどうしよう。
ベッドに入りながらそんなことを思い巡らし、はたと気づいた。
――同じ高校。
「……同い年だったんだ」
◆
私は人を殺めました。
全部私のせいです。
全部私が悪いのです。
全部、私が。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
でも、本当は――
◆
目を覚ます。
また、本当に望んでいる人の声は聞こえなかった。
むむむ……。