「聖女の力なんて何もありませんよ?」と婚約破棄されましたが、森の獣たちと交わした約束のほうがよほど大切ですわ 〜追放された偽聖女は、精霊の森で本物の女王になる〜
「セルフィナ。お前の聖女の力など、何もありませんよ?」
王城の大聖堂に、王太子アレクシスの声が朗々と響き渡った。
ステンドグラスから降り注ぐ七色の光の下、居並ぶ貴族たちの視線が、一斉に私へと突き刺さる。
「治癒の奇跡ひとつ起こせぬ偽物を、王家に迎えるわけにはいかない。よって、お前との婚約を破棄する」
(治癒魔法……ね)
私は静かに睫毛を伏せた。
(前世の私は、注射器と聴診器で獣を救ってきたのだけれど)
セルフィナ・ラ・ヴェルデ。ヴェルデ公爵家の令嬢にして、前世は日本の獣医だった転生者。それが私だ。
翡翠色の瞳を上げると、アレクシスの隣で勝ち誇ったように微笑む令嬢が目に入る。
ミレーユ。
『真の聖女』と讃えられ、亜麻色の巻き毛を揺らしながら可憐に佇む彼女。ついさっき、大聖堂の天井に眩い光の魔法を放って、貴族たちの喝采を浴びたばかりだ。
「ミレーユは魔物を退け、この国に光をもたらした。お前のように、なんの成果もない者とは違う」
(あら。あの『魔物を退ける光の魔法』……あれ、私が森の子たちと結界を張り直した結果を、そっくり横取りしただけなのですけれど)
言葉にはしない。
喚いたところで、この愚かな人たちには何も伝わらないのだから。
「異論はないな、セルフィナ」
私はドレスの裾をつまみ、優雅に一礼した。
「ええ、殿下。仰るとおり、私に聖女の力なんて何もありませんわ」
その静けさが気に入らなかったのだろう。アレクシスの眉が苛立たしげに跳ねた。
「……ならば辺境の『呪われた精霊の森』へ追放とする。魔物だらけのあの森で、せいぜい己の無力を噛みしめるがいい」
貴族たちがくすくすと笑う。
「あんな森、三日で死ぬわ」と、誰かが囁いた。
ミレーユが、私の耳元でそっと呟く。
「ふふ……ごきげんよう、セルフィナ様。せいぜいお元気で」
(三日で死ぬ、ね)
私は口の端をわずかに上げる。
(残念ですけれど、あの森には——私の帰りを待っている子たちがいるのですわ)
こうして私は、公爵令嬢の身分も、偽物の聖女の肩書きも、すべて置き去りにして——王都を後にした。
誰も知らない。
この国の豊穣も、結界も、その本当の担い手が今、馬車に揺られて去っていくことを。
◆
『呪われた精霊の森』——その入り口に立った瞬間、私を出迎えたのは牙を剥く魔物では、なかった。
地を揺らす足音。
木々の間から現れたのは、雪のように白い巨躯の狼。
古の守護獣、フェンリル。
王都では『冷酷な魔獣王』と恐れられる存在が——ぶんぶんと、尻尾を振っていた。
「ただいま、みんな」
私が微笑むと、森の奥から次々と獣たちが姿を現す。傷ついた仔竜、精霊化した鹿の群れ、木の陰から覗く小さな瞳の数々。
「……私、追放されちゃった」
その瞬間、フェンリルの体が銀色の光に包まれた。
巨大な白狼は、月光を紡いだような銀髪と、琥珀色の瞳を持つ美貌の青年へと姿を変える。
「なら、もう戻らなくていい」
彼はぶっきらぼうに、けれど確かな熱を込めて言った。
「ずっと、ここにいろ。……お前が来ない日は、群れが元気をなくすんだ」
(この人(狼?)、絶対に照れてるでしょう……可愛い)
二百年以上を生きる古の守護獣が、視線を逸らしながら、耳の先をほんのり赤くしている。
『群れが』と言いながら、その実、一番元気をなくしていたのは誰なのか——私にはお見通しだ。
「セルフィナ様ぁ——っ!!」
甲高い声とともに、金色の瞳の少女が飛びついてきた。
山猫の獣人、リィム。三角の耳をぴんと立て、ふわりとした尻尾を膨らませて。
「会いたかったですぅ! 王都のヤツらがセルフィナ様を追い出したって聞いて、里のみんな、もう怒り心頭でっ!」
「ふふ、ただいま、リィム」
私はしゃがみ込み、その小さな頭を撫でた。
温かい。
王城の冷たい大理石とは、まるで違う。
私はすっと立ち上がり、森を——私を待っていてくれた命たちを、ゆっくりと見渡した。
「決めましたわ」
凛と、けれど穏やかに。
「私、もうあの城のために力を尽くすのはやめます。これからは——約束した、この子たちのために生きますわ」
フェンリルが、ふっと目を細めた。
「上等だ」
森の梢を、風が優しく渡っていった。
◆
森での日々は、驚くほど満ち足りていた。
「リィム、この子の脚の腫れ、化膿しかけてますわね。まず膿を出しましょう」
「はいっ! 消毒用の薬草、こっちにありますよ、セルフィナ様!」
前世で培った獣医の知識は、『奇跡』などなくても命を救う。
傷の縫合、薬草の調合、栄養状態の管理。
(聖女の治癒魔法が『結果だけを見せる魔法』なら、私の手当ては『原因から治す技術』。奇跡なんてなくても、命は救えるのですわ)
仔竜の折れた翼に添え木を当て、鹿の群れの寄生虫を薬草で駆除し、里の獣人たちの古傷を一人ずつ診ていく。
「セルフィナ様の手当ては、本当によく効くねえ」
里の長老が、しみじみと涙ぐんだ。
かつて衰退し、希望を失いかけていた獣人の隠れ里。
そこに私は薬草園を作り、清潔な水路を引き、傷ついた者が安心して眠れる場所を整えていった。
森は、日に日に豊かになっていく。
◆
ある夜。
焚き火のそばで、フェンリルが人化した姿のまま、ぽつりと呟いた。
「……お前、なぜ戻りたいと言わない」
「戻る?」
「公爵令嬢の身分だ。取り戻したくないのか」
私は薬草を乾かす手を止めて、くすりと笑った。
「いりませんわ、そんなもの」
「なぜだ」
「だって、あそこには——私を大切にしてくれる人が、一人もいませんでしたもの」
フェンリルが、息を呑んだのがわかった。
「ここには、いますでしょう?」
私が見上げると、彼はぐっと言葉に詰まり、ばっと顔を背けた。
耳が、真っ赤だ。
「……勝手にしろ」
「ふふ、はい。そうしますわ」
(本当に、可愛い人ですこと)
夜風が、薬草の甘い香りを運んでいく。
私はもう、知っている。
この静かな幸せこそが、私の求めていたものだったと。
そして——
王都では、そろそろ気づき始めている頃だろう。
私が去ったことの、本当の意味に。
◇
数ヶ月後。王都。
異変は、静かに、しかし確実に王国を蝕んでいった。
まず、水源が枯れた。
次に、豊かだった王都近郊の作物が、一夜にして枯死した。
そして——国境を守っていたはずの結界が、跡形もなく消失した。
「魔物だ! 魔物の群れが国境を突破したぞ——っ!!」
悲鳴が、王城に響き渡る。
玉座の間で、アレクシスは真っ青な顔で立ち尽くしていた。
「ミレーユ! 光の魔法を使え! 魔物を退けろ!」
「そ、そんな……私……」
『真の聖女』ミレーユの美しい顔が、恐怖に歪む。
彼女が震える手をかざし、光の魔法を放つ。
ぱぁっと、天井を照らす華やかな光。
しかし——それだけだった。
押し寄せる魔物は、一匹も退かない。
ただ眩しいだけの、張りぼての光。
「なぜだ! お前は魔物を退けたのだろう!? 結界を張ったのだろう!?」
「ち、違うんです! あれは……あれは私じゃ……!」
ミレーユの口から、ついに真実が零れ落ちる。
「あれは全部……セルフィナ様が、森の獣たちと張った結界を……私はただ、光を出していただけで……!」
玉座の間が、しんと凍りついた。
王が、老いた声を絞り出す。
「……では、この国の豊穣も、結界も。すべて——」
宰相が、震える手で古い契約書を差し出した。
「陛下……調べさせました。精霊の森の守護獣たちと交わされた契約魔法。その担い手は——セルフィナ・ラ・ヴェルデ嬢、ただ一人でございます」
契約の一文が、無情に読み上げられる。
『——我が森を離れる時、守護の約定もまた解かれる』
セルフィナが去った。
だから、結界も豊穣も、約束通りに——消えたのだ。
アレクシスの膝が、がくりと崩れた。
「私は……私は、何を、切り捨てたんだ……」
遅すぎる問いが、崩れゆく王城に虚しく響いた。
◇
森の入り口に、みすぼらしい二つの人影が現れたのは、それから数日後のことだった。
泥にまみれた王太子アレクシスと、憔悴しきったミレーユ。
「セルフィナ様ぁ! あいつら、また来ましたよっ!」
リィムが毛を逆立てて駆けてくる。
「セルフィナ様を追い出したくせに、今さら何しに来たのっ!」
私は薬草を摘む手を止め、ゆっくりと立ち上がった。
「……いいのですよ、リィム。お通ししましょう」
アレクシスは私を見るなり、地に膝をついた。
かつての傲慢さは、どこにもない。
「頼む、セルフィナ! 戻ってきてくれ! 国が……国が滅ぶんだ!」
私は静かに、その哀れな姿を見下ろした。
怒鳴りはしない。
ただ、翡翠色の瞳を細めて、淡々と告げる。
「あら」
首を、そっと傾げて。
「私、聖女の力なんて何もありませんのよ?」
アレクシスの顔が、凍りつく。
「あなたが仰ったのでしょう。治癒の奇跡ひとつ起こせぬ偽物だと。——偽物に、国は救えませんわ」
「そ、それは……!」
「それとも、あの日の言葉は嘘でしたの? 衆人環視の大聖堂で、あれほど高らかに宣言なさったのに」
静かな、けれど鋼のような声。
ミレーユが、ぼろぼろと涙を流しながら縋ってきた。
「ごめんなさい……! 私、あなたの結界を横取りして……本当は何の力もなくて……!」
「存じておりましたわ、最初から」
「……え?」
「ええ。あなたが披露した光の魔法。あれが私と森の子たちの張り直した結界の残光だと、私が気づかないとでも?」
私は微笑む。
「ただ、黙っていただけ。この森と、この子たちを守るために」
その時。
大地が、ずしりと揺れた。
二人の背後に、月光の銀髪を靡かせた青年——人化したフェンリルが立ちはだかる。
琥珀色の瞳が、氷点下の光を放つ。
森じゅうの守護獣たちが、一斉に威圧を放った。
仔竜が牙を剥き、鹿の群れが角を構え、白狼の遠吠えが空気を震わせる。
「この森の女王に」
フェンリルの声が、地の底から響いた。
「二度と、無礼を働くな」
アレクシスは、腰を抜かして這いつくばった。
失って、初めて知ったのだ。
自分が切り捨てたのは——この国を支える、唯一無二の存在だったと。
◇
崩壊する王都と、緑あふれる精霊の森。
その対比は、あまりに残酷で——あまりに明白だった。
王家は、ついにプライドを捨てた。
公爵位の返上、正式な謝罪、そして——森の女王セルフィナへの、国家間の『対等な盟約』の請願。
かつて公爵令嬢を辺境へ追放した王家が、今や森の女王へ頭を垂れる立場にまで転落したのだ。
ミレーユの詐称は白日の下に晒され、アレクシスは王太子の座を廃された。
二人は、王都の復興に生涯を捧げる罰を負ったという。
私は、結界維持への協力を——条件付きで、承諾した。
「森と、この子たちの生活圏を侵さないこと。そして、獣たちを二度と『魔物』と呼ばないこと。——それが、盟約の条件ですわ」
私が突きつけた条件を、王家は一つ残らず呑んだ。
だが——
「王家に戻ることは、断固お断りしますわ」
私は、きっぱりと告げた。
「私の忠誠も、癒しの手も。ちゃんと私を大切にしてくれる者にだけ、捧げますの」
◇
その夜。
祝いの宴が、獣人の里で開かれた。
焚き火の炎、獣たちの歌、リィムのはしゃぐ声。
「フェンリル様ってば、さっきからセルフィナ様の話ばっかり!」
「……うるさいぞ、リィム」
「あははっ、耳が赤いですよっ!」
私が笑っていると、ふいに、フェンリルが私の隣に腰を下ろした。
人化した姿のまま、月光を浴びて。
いつもの無愛想は、どこか居心地悪そうに揺れている。
「……セルフィナ」
「はい?」
彼は、しばし言葉を探すように沈黙し——やがて、そっと手を差し出した。
琥珀色の瞳が、まっすぐに私を捉える。
「お前は、森の子たちと約束を交わしただろう。ずっと守ると」
「ええ」
「なら——」
耳の先を、真っ赤に染めながら。
二百年を生きた古の守護獣が、まるで初恋の少年のように、声を震わせた。
「俺との約束も……一生、守ってくれるか?」
(あら)
私は、そっと目を見開いた。
(これは……ふふ。求婚、ですのね?)
差し出された、大きな手。
その手が、かすかに震えていることに気づいて、私はたまらなく愛おしくなった。
注射器も聴診器もなかった前世から、この命と対話する手を持って生まれ変わった意味が、今、わかった気がする。
私は、その手にそっと自分の手を重ねた。
「ええ、フェンリル」
満面の、けれど品を失わない微笑みで。
「一生かけて、守りますわ。——今度は、私を大切にしてくれるあなたと」
その瞬間。
森全体が、淡い祝福の光に包まれた。
守護獣たちが喜びの声をあげ、精霊の鹿が角を輝かせ、リィムが涙と鼻水でぐしゃぐしゃになりながら歓声を上げる。
「うええぇ……よかったですぅ……セルフィナ様ぁ……!」
偽聖女と嘲られた令嬢は、もういない。
ここにいるのは——森の獣たちに愛され、本物の力で命を癒す、精霊の森の女王。
(聖女の力なんて、何もなくていい。私にはもう、交わした約束と、守るべき居場所があるのだから)
——そして、崩れゆく王都の空の下。かつて『真の聖女』を讃えた者たちが、今も気づかぬまま。この森こそが、この国の心臓であることを。
新たな女王の物語は、まだ、始まったばかりだった。




