最終章 ブスの中のブス
ノートに「みんな」と書き込んだ瞬間、世界が、ぐにゃりと歪んで見えた。
陽は這いずるように個室の扉を開け、洗面台の大きな鏡の前までやって来た。
彼女がそこで目にしたものは――
鏡の中にいたのは、人間ではなかった。
目は左右で高さが違い、肌は乾いた泥のようにひび割れ、口は耳の近くまで裂けていた。
陽は理解した。
――これは、知らない顔ではない。
「嫌、こんなの私じゃない! 消えて、消えてよ!!」
陽は上履きのまま学校を飛び出した。
校門を抜け、街を駆け、誰の目も憚らず自宅の庭へと滑り込んだ。
湿った土を蹴り、庭の隅でライターの火を点ける。
「これのせいだ、全部これのせいよ……!」
震える手でブス・ノートのページに火を放った。
高槻ひよりの名が、山城聖羅の名が、そして自分が今しがた書き込んだ「みんな。」という呪いの言葉が、赤黒い炎に巻かれていく。
陽は、燃え上がるノートを地面に叩きつけ、灰になるまで何度も何度も踏みつけ、むせび泣いた。
すべてが燃え尽き、深夜の庭に静まり返った煙の匂いだけが残った。
これで終わった。
元に戻れる。
そう信じて、陽は這うようにして部屋に戻った。
けれど、世界は歪んだままだった。
ノートを燃やしてから数日、日野陽は、もはや誰とも話していなかった。
クラスでは、いつものように騒がしい声が飛び交っていた。
でも、陽の耳にはそれが、すべて鋭い嘲笑に聞こえた。
「……ねえ、あの子、ブスじゃない?」
「え、前からじゃん。」
「メイクしても無理っしょ、あれは。」
声の主は見えない。
けれど――誰かが言った気がした。
鏡を見ても、もう“自分の顔”がわからなかった。
目元が腫れているように感じる。頬が垂れている気がする。
鼻が曲がって、唇が歪んでいて、輪郭が滲んでいる。
(こんなの、わたしじゃない……。)
けれど、これが“本当の顔”なのだと、どこかで確信していた。
ある朝から、陽は学校に行かなくなった。
制服はクローゼットに吊るされたまま。
カーテンは閉ざされ、窓も開けていない。
ベッドの上で、陽はスマホのフロントカメラを見つめた。
角度を変えても、フィルターをかけても、
そこに映るのは、見るに堪えない“化け物”のような自分。
だが、それが現実。
(ねえ、ねえ、お願い――誰か、わたしを、見て……。)
声は、誰にも届かない。
タイムラインも、通知も、すっかり沈黙していた。
かつての推し・高槻ひよりは、華やかに復帰し、雑誌の表紙を飾っていた。
美人たちは元気に笑い、街を歩き、輝く光の中にいる。
自分だけが、そこにいない。
自分だけが、暗い泥の中に取り残されている。
「あなたが、いちばんブス。」
その声は、もう陽自身の中から聞こえていた。
夜。
部屋の鏡の前に、陽は座っていた。
その手には――新しいノートが握られていた。
焦げ跡のない、真新しい、黒い表紙。
ただそこに、あった。
開くと、真っ白なページに、ひとことだけ書かれていた。
〈あなたは、もう“なにを書いても”救われない〉
陽は、ペンを手にした。
そして――震える手で、一文字ずつ、こう書いた。
「世界」
燃えるように、真っ白なページが黒く染まっていく。
陽は、街へ出た。
行き交う人々、すれ違う顔、笑い合うグループ。
そのすべてが、陽の目には、左右に歪み、崩れ、醜悪に蠢く「化け物」たちの群れに映った。
以前の彼女なら、その光景に悲鳴を上げただろう。
だが、今の陽は違った。
「……ああ、なんだ。」
鏡の中の自分と同じ顔。
自分と同じ、醜い塊。
陽は、これまで感じたことのない深い安らぎに包まれていた。
「私もブスだが、周りもみんなブスじゃない。」
そうだ。私だけが特別じゃない。
比べるものも、見下してくる美人も、もうこの世界には存在しない。
陽は笑った。
頬の肉を歪ませ、裂けた口で、狂おしいほど幸せそうに。
そして、彼女は高らかに笑いながら、醜悪な化け物たちが蠢く人混みの中へと、吸い込まれるように消えていった。
そのニュースは報じられることはなかった。
誰も気づかない。
一人の少女が、静かに姿を消したことに……。
彼女がいなくなった部屋には、棚の上の古びたテディベアだけが残されていた。
その黒いガラスの目は、
まるでまだ誰かを探しているかのように、
静かに部屋を見つめていた。
ただ、ある都市伝説が広まった。
黒いノートに名前を書かれると、書かれた人は「自分が世界一ブスだ」と思い込んで、二度と人前に出てこなくなる。
名前はない。
書いたのが誰かも、もう誰も知らない。
ただ、そのノートは、今日もどこかの街角に、静かに置かれている。
陽が姿を消してからどれくらい経っただろうか。
とある雨の夕暮れ。
バス停のベンチの下に、ひとつのノートが落ちていた。
一人の少女が、そのノートを拾い上げた。
彼女もまた地味で、目立たず、少しだけ世界に傷ついていた。
ノートの表紙には、こう書かれていた。
〈BUSU NOTE〉
それは、雨に濡れていなかった。
了
「ブス・ノート」最後までお読みいただきありがとうございました。
本作は初めて書いたホラー小説だったが、いかがだったろうか。
題名からも分かる通り、「DEATH NOTE」のパロディとして書き始めた。
ところが、書き進めるうちに、物語は思いがけない方向に動き出した。
陽や醜神が、作者の想定を超えて動き出したからである。
あるいは、僕自身もまた「ブス・ノート」に呪われているのかもしれない。
次は、あなたのもとにブス・ノートが届くかもしれません。




