第6章 美の逆襲
翌朝、教室の扉を開けた陽は、自分の目を疑った。
世界の方が、間違っているように見えた。
「……瑠那? ……聖羅?」
そこには、ノートに名前を書かれ、
“壊れたはずの二人”が、そこにいた。
内藤瑠那は、少し控えめながらも柔らかな笑みを浮かべて友人と話し、山城聖羅は、どこか吹っ切れたような明るい顔で席に座っている。
(どうして。……あんなに絶望していたのに、なんで戻ってるの?)
陽は動揺を隠せず、逃げるように自分の席でスマホを開いた。
そこで目にしたニュースが、彼女の心臓を完全に握りつぶした。
〈高槻ひより・カムバック。
休止期間を経て、より凛とした美しさへ〉
コメント欄には、
〈前より好きになった〉
〈弱さを見せてくれてありがとう〉
という言葉が並んでいた。
画面の中のひよりは、以前の刺々しい美しさではなく、欠点さえ味方につけたような、圧倒的な自信に満ちていた。
(消したはず……呪ったはずなのに! なんで、前より綺麗になってるのよ……!)
教室のざわめきが、急に遠くなった。
誰かが笑っている。
誰かが机を叩いている。
誰かが椅子を引きずっている。
けれど、それらすべてが、厚い水の膜の向こう側の出来事のように聞こえた。
「うるさい!」
陽は立ち上がった。
足が床についている感覚がない。
歩いているのか、浮いているのかもわからない。
前の席の女子が振り向いた。
「陽、大丈夫?」
その言葉に、陽は反応できなかった。
“心配”という響きが、なぜか嘲笑に聞こえたからだ。
「違う。違う違う違う。」
廊下に出ると、窓ガラスに自分の姿が映った。
思わず足が止まる。
そこに立っていたのは、見慣れた制服の少女――のはずだった。
だが、顔だけが、わずかに遅れて動いた。
「……っ。」
瞬きをした瞬間、元に戻る。
ただの錯覚。
ただの光の反射。
そう自分に言い聞かせるのに、数秒かかった。
背後で、女子生徒たちの笑い声が弾けた。
陽は振り返らない。
振り返ったら、きっと“本当に笑われている”と確信してしまう気がしたからだ。
早足になる。
やがて、ほとんど駆けるように、トイレの扉を押し開けた。
陽はトイレの個室に駆け込むと、震える手でノートを開いた。
ページの端に昨日浮かび上がったはずの警告――
〈次にブスになるのは、あなた〉
それはもうなかった。
「……うそよ。私は負けてない。あいつらが、異常なだけ。私が、ブスなわけない……!
だって、私は努力してるのに……!」
陽はノートにペンを叩きつけた。
高槻ひよりの名を、呪いを込めて何度も、何度もなぞる。
だが、どれだけ黒く塗りつぶしても、脳裏に焼き付いたひよりの輝きは消えない。
その時、背後に湿り気を帯びた気配を感じた。
個室の狭い空間。
振り返らなくてもわかる。
そこに――“いる”。
「残念だったな。本物の『美』はな、
他人を呪っても、手に入らねえ。」
醜神が囁く。
「あの子らはな、
自分を“ブスでもいい”と思えたんだよ。
だから、もう効かねえ。」
「うるさい! 私だって、あいつらがいなければ美しくいられたのよ!」
「なら、試してみるかい? あんたが一番消したい、その『本当の名前』をさ。」
陽は、ノートに書きつけようとした。
だが……。
誰の名前を……?
その時だった、陽の視界の中で何かが動いた。
トイレの扉の金具に、自分の顔が映っている。
その金具に映る自分の顔の唇が、ゆっくりと動いたのだ。
「ひ……の……ひ……み……こ……。」
日野陽。
紛れもない彼女自身の名を、声なき声で囁いている。
その名前を書けば、
比べなくてよくなる。
そう直感が告げていた。
でも、それは負けを認めることだ。
「楽になれるさ。“ブス”になれば、もう誰にも怯えなくてすむ。」
後ろから醜神が煽り立てる。
その時、外から女子生徒たちの笑い声が聞こえた。
「陽ちゃん、今日もすごいメイクだったね……。」
「ねえ、鏡見たのかな。」
——そう聞こえた気がした。
陽の中で、何かが完全に壊れた。
「違う……。
最初から、みんな分かってたんだ。
私が一番、醜いって。」
陽は、個室の中で狂ったようにペンを動かした。
新しいページに、これまでにないほど大きな文字を刻みつけた。
ペン先が、紙を破った。
インクが滲み、文字はもはや形を保っていない。
陽は、自分の手を見た。
震えている。
――違う。
震えているのは、手ではない。
ペンを握っている「何か」だ。
指は、止まらない。
「やめ……」
声が出ない。
喉が動かない。
腕が、自分のものではないように紙の上を滑っていく。
ゆっくりと、
確実に、
その言葉が刻まれていく。
陽は、書こうとしていなかった。
それでも、文字は完成する。
ページいっぱいに、黒く、深く――
書かれていた言葉は、たった一つだった。
〈みんな〉
その瞬間、
何もない個室の壁に映った自分の影が、
先に笑った。
「ブス・ノート」の本当の恐怖。
それは――人の美しさを奪うことではない。
むしろ、使う者の心を壊していく呪いなのかもしれない。
陽はまだ、そのことに気づいていない。
本当の恐怖は、ここから始まる。
【次回予告】
「最終章 ブスの中のブス」
ノートに「みんな」と書いた瞬間、世界は崩れた。
鏡の中にいたのは、もう“人間の顔”ではない。
ノートを燃やしても、呪いは消えない。
本当に醜いのは、誰なのか。




