第1章 はじまりは、呪いの雨
誰も気づいていないけれど、私は――
本当は、美人なんだ。
少なくとも、彼女はそう信じていた。
鏡の角度を微調整し、光が最も美しく落ちるポイントを探す。
アイラインの1ミリに神経を研ぎ澄ませる。
(パーツひとつひとつは悪くない。
ただ、完成しないだけ。
もっと努力して、もっと整えていけば――
きっと、世界が私に"気づく"日が来る。)
そんな日は来ないかもしれない。
いや、心の奥底では「来ない」と予感していた。
それでも、日野陽は、今日も誰にも見せない“聖域”で、美の記録を積み重ねる。
それは、フォロワーゼロのインスタグラム裏アカウント。
顔全体を晒す勇気はない。
万が一、クラスの誰かに見つかってしまったら終わりだ。
投稿するのは、いつも、「切り取られたパーツ」だけ。
・睫毛の長さを強調するために、極限まで光を飛ばした右目のアップ。
・ピントを浅くし、肉感だけを際立たせた濡れた唇。
・自然光を計算し尽くした、頬骨から顎にかけてのライン。
・手の甲に美しく並べたアイシャドウのグラデーション。
・「映えるかどうか」で選んだイヤリングを、鏡越しに試したときの耳元。
(私の美しさは、確かにここに積み上がっている。
今はまだ、誰も気づいていないだけ。)
そう自分に言い聞かせ、陽はスマートフォンの画面を閉じた。
放課後、校門を出ると、予報外の雨が降っていた。
駅前のロータリーに着く頃には、制服の袖は重く肌に張り付き、髪の先からは冷たい水滴が滴っていた。
靴下の中はぐしょぐしょで、不快感が体温を奪っていく。
バスが来るまで、あと15分。
スマホを取り出す気力もなく、陽はただ駅前のバス停で項垂れていた。
そのとき、足元のベンチの下に「それ」を見つけた。
――黒いノート。
激しい雨の中だというのに、そのノートだけが不自然なほど乾いていた。
まるで、雨そのものに避けられているかのように。
陽は吸い寄せられるように手を伸ばし、黒いノートをカバンの中に滑り込ませた。
帰宅後、濡れた制服を脱ぎ捨て、タオルで紙を拭きながら机の上のノートを見つめる。
装飾のない、ざらついた手触りの表紙。
微かに文字が読み取れる。
「B……U……S……U……NOTE……。
ブス・ノート?」
怪訝そうに1ページ目をめくると、そこには殴り書きのような、けれど美しい手書きの文字があった。
〈貴方の美は、偽りです〉
心臓が跳ねた。
「……なに、これ。」
鼻で笑い飛ばそうとしたが、指先が微かに震えている。
見透かされているような――嫌な汗が、背中をつっと伝った。
思ってもいない言葉だったのに、胸のどこか、深いところがざわめいた。
(わかってない。誰も、わかってくれないだけなのに。)
そのとき、頭に浮かんだのは、テレビに映る高槻ひよりの顔だった。
誰もが跪く、天性の美。
陽は彼女を憎むほどにチェックしていた。
雑誌、番組、そして執念で見つけ出した彼女の「本音」が漏れる裏アカウント。
「ずるい。全部持っているくせに……。
なんで、私じゃないの?」
奪われた「はず」の居場所への怒りが、ペンの先へと伝わる。
陽は引き出しからペンを取り出すと、次のページに、呪いを込めてその名を刻んだ。
〈高槻ひより〉
窓を叩く激しい雨音だけが、部屋に響いていた。
翌朝。
スマホの画面をタップした陽は、そのニュースを目にして息を呑む。
〈人気アイドル・高槻ひより、突然の活動休止を発表〉
〈理由は非公表。SNSはすべて削除。所属事務所は「プライベートな事情」と説明〉
「……うそ、でしょ?」
画面の向こうでは、ファンたちの悲鳴が溢れている。
陽は震える指で、ひよりの裏アカウントを開いた。
最後に更新された一文。
〈こんな顔で、もうファンの前になんて立てない〉
〈終わった。私、終わった〉
画面を見つめたまま、陽の呼吸が浅くなる。
机の上の黒いノート。
さっきまで閉じていたはずなのに、いつの間にか開いている。
そこに書かれた「高槻ひより」の文字だけが、昨日よりも黒く沈んで見えた。
「……あはっ。」
陽の口元が、初めて歪に吊り上がった。
窓の外は、昨日の雨が嘘のように晴れ渡っている。
陽はノートをカバンに詰め込むと、足取りも軽く学校へ向かった。
新連載「ブス・ノート」、お読みいただき、ありがとうございました。
お気づきの方もいると思うが、本作は某有名作品へのオマージュから生まれた物語である。
ヒロイン「日野陽」の名前も、そこに由来している。
もっとも、書き進めるうちに物語は次第に作者の手を離れ、別の方向へ歩き始めた。
この先、彼女がどこへ向かうのか、作者自身にもまだ分からない。
どうか最後まで見届けていただければ幸いである。
【次回予告】
「第2章 美人のいない教室」
半信半疑のまま、陽はノートに名前を記す、
〈内藤瑠那〉
以来、彼女の姿は教室から消えた。
――こんな顔じゃ、学校に行けない。
陽は、静かにページをめくる。
次の名前を探すために。




