深夜の散歩
書いて残しておきたかっただけ。
僕は布団を蹴飛ばして飛び起きた。飼い犬のリュウが悲鳴のような遠吠えを始めたからだ。
「またか……」
ボーとする頭、いがらっぽい喉、スマホを見れば深夜三時。ややうんざりした気持ちで僕はベッドから降りた。白灰色のパーカーを引っ掴み階段を下りながら羽織る。この合間にもリュウは二度三度と鳴き声を上げている。
居間の戸を開けると母がリュウを撫でていた。リュウは横になったまま呻り声をあげ、また鳴いた。リュウは赤毛の柴犬で十七歳の老犬。今年から夜鳴きするようになってしまった。いや、起きている間はほとんど呻り、鳴き叫んでいる。
僕は母と相談して、リュウを散歩に連れ出すことにした。
晩秋の深夜、僕もリュウも厚着して玄関へ向かう。
「昼、寝すぎたかい」抱きかかえたリュウに聞いたが、答えなんて求めていない。先ほどまでがウソだったように、すっかり静かになっている。答えの代わりと、リュウの相変わらずフワフワの後頭部に、僕は鼻をうずめた。
玄関扉を開け、外へ出ると丁度吹いた夜風に身がすくんだ。僕たちが外に出るのと同時に、自動灯が暖かみのある黄色い光で照らしてくれる。リュウを降ろしてやり、前にのめらないようにハーネスとリード紐で上に引っ張って、腰の踏ん張りがきかないため、横転しない様に僕は両足でリュウのあばらあたりを挟んで支える。まるでペンギンの親子のようになりながら、深夜の散歩が始まった。
おぼつかないながら、活発に足を前に出すリュウ。彼が転んでしまわないようにこちらも歩調を合わせて歩く。リュウの赤茶の後ろ頭を見下ろしながら、ゆっくりと我が家の質素なコンクリート塀の門に辿り着く。この時点でリュウは、ちょろり、ちょろりと二回用を足していた。背後で玄関ポーチの灯りが消えて一段辺りが暗くなった。まだまだリュウは満足できない様だ。
隣家を過ぎた頃、リュウが足を止めた。僕の右足に寄りかかって一時停止のようだ。僕も力んでいた体をリラックスさせようと深呼吸し背筋を伸ばした。街路にぼーっと目線を向けながら、一度、二度と長く息を吐いた時、ふと思った。
――白黒だ。
曇天の深夜、街灯の寒々しい白い光で浮き彫りになったこの狭い通りの住宅街は、色味をほとんど失って見えた。まるで切り絵か漫画の一コマか、目の前一歩踏み出すと違う世界に入り込めるかのような錯覚を覚えた。
なんてことはない。「夜中に出かけたら、いつもの景色が違って見えた」というありきたりな経験だ。僕も思い返してみれば既に何度か味わったことがある。それでもこの時の僕はその光景に新鮮な感動を覚えていた。
見惚れていると足元でリュウが揺れた。見下ろすとリュウが右前足をふるふるとゆっくり持ち上げて、また歩き始めようとしている。今僕の目にはリュウだけが色を持って見えていた。
僕たちはゆっくりゆっくり歩いた。閑かな世界を歩いた。向こうの生垣も、その奥の家の壁も影に染まっている。
国道バイパスを走るトラックだろう走行音が聞こえてくる。僕の周りは相変わらず車どころか人も通りかからない。何も気にすることなくリュウと歩くことができる。
リュウが不意に足を止めた。そしてしきりに臭いを嗅ぎ始めたのが分かった。そこは小さな空き地の前。隅に背の低い銀杏の木が生えていた。その銀杏がどんな品種か、なぜ僕の胸のあたりで幹を伐られているのかは分からない。ただ、そこにずっと在った事だけは知っている。
銀杏は幹の殆どが隠れるほどに枝葉を茂らせて、わずかな明かりしかない中でも、その扇の群れは先から根元まで黄色く映えていた。
(ああ、そういえば)と、ふと思い出した。(そういえば、前はこの辺でよくおしっこしてたな、こいつ)
一昨年まで毎日々々ここをリュウと歩いていた。朝と夕に。なのに忘れていたその時のクセ。
「覚えてたのか?」そう言ってから、なんだか可笑しくって僕はリュウを撫でていた。
去年の春ごろに急激に痩せて自立できなくなったリュウに、一時は「ああ、いよいよかな」と覚悟していたものだが、それから今はまた散歩できるまでに回復して、体重も重くなった。
「凄いなあ、頑張ってるなあ」その生命力に、感嘆のまま、また僕はリュウを撫でた。その足元を風に銀杏の葉が流れて横切っていく。リュウは気にも留めずまたゆっくり足を動かした。
ようやく一回りして、リュウを抱きかかえながら玄関扉を開けると、薄橙の明かりと、暖房を母がいれておいてくれたのだろう暖められた空気が出迎えてくれた。
居間で時計を見て驚いた。四十分も経っていたからだ。
「がんばったなー。いっぱい歩いたなあ」と、リュウを顎で撫でながら寝床に運ぶ。「寒かったからな、あったかくして寝なね」
そっと寝かせて布団をかぶせてやると、リュウはすぐに寝息を立て始めた。それを見届けて僕もようやく人心地ついた。
せっかく寝たリュウを起こさないように僕は自室に戻ると、ペンとノートを持ってベッドに入った。
そろそろ朝と言えそうな四時。でも寝る前に書いておきたかった。
僕はおもむろに開いた白紙のページにペンを走らせる。「深夜の散歩……」
読んでいただきありがとうございます。




