二十年前(2)
一目見た瞬間からいいなと思った。
決して派手ではないが、優しく柔らかい空気が僕に親近感に近い安心感をもたらしてくれた。
本当はもっと地味だったのかもしれない。いわば大学デビューというやつか、そう言うと言い過ぎかもしれないが、ふわっとアレンジした淡いミドルの茶髪が自身の学生生活をより良いものにしよういう前向きな背伸びのように感じられた。
彼女はいつもだいたい22時半~23時頃に現れる。毎日というわけではもちろんないが、一週間に一度、二度ぐらいの頻度。ちょっとしたお菓子や飲み物を買いに来る。甘いものがどうやら好きらしい。
それ以上の事は分からなかった。名前も知らないし、自分と同じぐらいの年齢だろうが同じ大学に通っているのかどうか、何も分からない。当然だ。あくまで店員と客の立場なのだから。
そこまで意識している時点で、僕は気付いてしまった。
僕はどうやら彼女の事が気になっている。
「立川君、ゴミまた頼むね」
「あ、はい」
監視カメラの軽いチェックを終えた店長が、自分と入れ替わりで店を後にする。若々しい見た目ではあったが、あまり特徴のないどこにでもいそうな見た目の人だった。だが教え方も優しく丁寧だったので、おかげさまで割と早く仕事は覚えられたと思う。
今ではほぼ夜勤帯は一人で店を回すようになっていた。複雑な事も厄介な客も来ないのでありがたい事に大きなトラブルもなくバイトを続けられていた。
しかしそうして落ち着いてバイトをこなしていた僕の心は、彼女への気持ちに気付いた事で乱れ始めた。彼女を目前にするとひどく落ち着きをなくした。
「お釣り……あっ」
彼女に渡そうと思ったお釣り。これまでなら何も意識しなかったのに、彼女の手に触れてしまうと思うと緊張し、僕は硬貨を渡しそびれてカラカラと硬貨が零れ落ちて床にまで転がってしまう。
「あ、ご、ごめんなさい!」
彼女は床に落ちた硬貨を拾い上げ、こちらを向いた。
「全然大丈夫ですよ」
そう言ってにこっと僕に笑いかけてくれた。
「す、すみません、ほんとに……」
僕は深々と頭を下げた。恥ずかしさと情けなさで消えてしまいたい気分だった。いい歳して女の子の前でこんなにも緊張してしまうなんて。
「そんなに謝る事じゃないですよ、たまにありますよねこういう事」
顔を上げた先にまた彼女の顔があった。
「そ、そうですね」
彼女は気にしないでと言った様子で少しだけ頭をぺこっと下げ、店から出ていった。
ーー何やってんだろ、ほんと。
彼女が消えてから恥ずかしさは消えたものの、ただただ気分が沈んだまま夜勤を終えた。
それ以降も彼女は今まで通りコンビニを訪れた。彼女にとっては何てことない日常の一コマ。しかし僕にとっては特別な瞬間になってしまっていた。一度特別になってしまえば、彼女との一瞬一瞬がとても貴重なものになってしまった。そうなればなるほど彼女を前にすると平静さは失われた。
困った。長らくこんな感情はなかった。誰かを好きになるだなんてこと。
この人ともっと近づきたい。でも目の前にいるのにひどく遠く感じる。
ただ一声かければ、世界を変えられる。でもその一声が出ない。出したいのに出せない。頭と腹の中では次こそはと備えいつでも出せる場所に言葉があるはずなのに、肝心の時になってそれが出てこない。
あの大学に通ってるんですか?
この近くに住んでるんですか?
甘いもの好きなんですね。
いつもこれぐらいの時間に来られますね。
声に出そうとした瞬間、何てことない言葉があまりにも不気味で気持ち悪く感じられた。ただの店員からお客にかける言葉として、ましてや異性にかける言葉にしてはあまりにも気持ちが悪い。頭の中に浮かんだ瞬間発しようと思った言葉は、彼女を目前にするとただの吐瀉物のように気持ち悪く感じる。そんなものを彼女に吐きつけるわけにはいかない。そう思いながら悶々と日々を過ごした。
今日もまた彼女は店に来る。彼女と仲良くなりたい。そう思えば思うほど胸が苦しくなった。辛い。僕はずっとこの辛い気持ちのまま一生を終えてしまうんだろうか。
ーーもとから僕に何がある?
ふと開き直ったような気持ちがふわっと込み上げた。ただ大学と家とコンビニを往復する程度の毎日。友達もいない孤独の学生生活。今さら彼女一人に気味悪がられたとして、一体どうなるというのだ。
もういい。やらない後悔よりやる後悔だ。
彼女がレジの前まで来た。
「いらっしゃいませ」
いつも通り対応する。
言おう。今日こそ声を掛けよう。
「〇〇大学なんですか?」
「520え……へ?」
一瞬何が起きたのか分からなかった。不意を突かれて間抜けな声を上げながら僕は顔を上げた。
「あ、人違いだったらすみません。大学で似た人を見つけてもしかして、と思って」
そう言いながら彼女は少し申し訳なさそうな顔をした。
「あ、え、いや、あ、そ、そうです!」
焦って思っていたより大きな声が出てしまい、顔がぼっと熱くなる。そんな僕の焦りも気にせず、彼女は僕に話しかけてくれた。
「やっぱり! そうだと思ったんですよねーいつものコンビニ店員さんだと思って」
そう言って彼女は嬉しそうに微笑んだ。
ーーえ、これ、夢じゃない、よな?
あまりに突然で予想外の出来事で、頭がうまく働かない。
「ごめんなさい、気になってたんですけどなかなか声掛けるタイミングもなくて。あーやっぱそうだったんだー」
「あ、はぁ、そうですね」
自分の相槌が合っているのかどうかもよく分からなかった。
「あ……お、お釣り」
「あ、そうだった。ごめんなさい」
慌てて彼女は僕からお釣りを受け取る。その時少しだけ彼女の手に触れた。一瞬だったがとても綺麗な肌触りだった。
ぼうっとしている自分の視界、彼女の少し後ろから次の男性客がレジに向かってくる姿が見えた。そのタイミングで彼女もそれに気付いた。
「それじゃ、夜勤頑張ってくださいね立川さん」
「……え? は、はい、ありがとうございます」
「私、美山って言います。また来ますね」
にこっと笑って彼女は颯爽と消えていった。
ーー今、名前……。
呼ばれた。何で? 何で僕の名前。そう思いながらふっと視線を下げてすぐに気付く。
ーーあ、名札か。
そりゃそうだ。さすがにそこまで知ってるわけがない。
「26番で」
そんなふやけた心地良い夢の世界にいるような感覚に、先程の男性客から急に冷や水のような現実をかけられる。
「あ、はい」
ーー夢、じゃないんだな。