第五夜『coast』
あと少し、あと少し。
走り続ければ、きっと追い付く。
白い自転車を、全速力で走らせる。
空の飛行機雲を追うように、海岸沿いの道を、ただひたすらに走る。
潮風が横から吹いてくる。
それは私を鼓舞しているのか、あるいは『無理だ』と冷やかしてるのか。
長い、長い、海沿いの道。一本道。
走るうちに、何故かだんだん足場が悪くなり、タイヤががたがた揺れ出した。
これ以上、無理にペダルをこいでも仕方ない。
私は愛用の自転車を乗り棄てた。
ここへ戻るという確証はない。
だけど、どうしても追い付きたかった。
はるか遠くに見える背中は、どんどん私を引き離す。
引き留めたいのに、その名前が分からない。
その後姿は初めて見るような、それとも懐かしいような。
肩まで伸びる黒い髪が、風にそっと揺れている。
暗色の長い裾が、私を手招きするように翻る。
視界を遮るものは何もない。
あなたは誰なの?
どうして私を呼んでるの?
声なき声でそう叫ぶ。
だけど、その影は何も答えない。
もどかしさと少しの腹立たしさが、こみ上げてくる。
こんなに体力をすり減らし、息を切らしているのに、得られるものは何もないのか。
あなたは誰なの?
再びそう叫びたかったが、激しい息切れのせいで、声すらも出せなかった。
あの後ろ姿は何も応えないどころか、どんどん私を遠く引き離して――。
とうとう、見えなくなった。
幻のように、音もなく、容赦なく、ふっと姿を消してしまった。
私は呆然と立ち尽くすうちに、力が抜けた。
膝から崩れ落ち、力なく両手を付く。
ホワイトノイズが、刹那に頭の中を支配した。
それが消えるた時、私はハッとした。
私は一体誰を追ってるのか。
どうしてこんなに急いでるのか。
気づけば私は、自分が追っていた姿すらも忘れていた。
こんなに焦り、息を切らしている理由すらもうわからない。
顔も名前も分からない、誰かの姿を必死に追っていたという事実だけが、私の中に強く残る。
思い出せない影は、追いかけようもない。
私は諦めて、来た道を走って引き返した。
また、潮風が横から吹いた。
『ざまあみろ』と嗤っているのか、『いずれ追い付く時が来る』と、励ましているのか。
せめて、後者でありますように。
永遠に続きそうなほど長い道を、ひたすらとぼとぼと歩く。
その虚しい時間は気が遠くなるほど長く、永遠に続くように感じられた。
幸いなことに、乗り棄てた白い自転車は、まだ残されていた。
安心感を覚えながらそれを回収し、誰かを追いかけていた長い長い道のりを、急ぐように逆走した。
もうすぐ夜が来る。