第四夜『drops』
小雨の中を歩く。
ぱらぱらと、あちらこちらから雨粒の音。
足元にしつこく跳ねる冷たい粒。
傘は要らない。
この雨は、砂漠のように荒んだこの身を潤し、癒してくれると信じているから。
灰色に濁った、見慣れた街。
色とりどりの傘に顔を隠しながら、俯きがちの人々が通り行く。
その中を当てもなく歩いていると、小さな公園にたどり着いた。
幼い頃に遊んだ記憶がよみがえる。
ボール遊びに、追いかけっこに、縄跳びに……。
みんなでワイワイ笑いながら、力いっぱい体を動かして。
日が暮れて、からすが鳴いたら帰りましょ。
あの頃は、この世の穢れた部分を知らずに、純粋な心で毎日を笑って過ごしていた。
あの頃に戻りたいとすら、時々思う。
気づけば私は、禁止マークが堂々と描かれたフェンスの張り紙を、忌々しく睨んでいた。
ボール遊びは危険だから禁止。
遊具は怪我に繋がるから撤去。
近隣の迷惑になるから大声で叫ぶな――。
自分勝手な大人たちの、自分勝手な決まり事が、子供の楽園を奪っている。
雑草だらけの湿った敷地内を見ながら、私はため息をつく。
ふと、わきのベンチに目をやる。
カラフルなパッケージが描かれた、ドロップ缶だった。
小さいころから変わらない、レトロなデザイン。
「これは……」
記憶が色鮮やかによみがえる。
――カラン、カラン。
小気味いい音が、近くで鳴った。
友達と喧嘩をし、広場のベンチで一人落ち込んでいた私は思わず顔をあげる。
――お手手、出してごらん。
そう言ったのは、近所のおばあちゃんだった。
後ろで手を組み、ニコニコと笑っている。
私は言われるがまま、両手を上に向けてみせた。
するとおばあちゃんは、背後から手品のようにドロップ缶を取り出し、私の手のひらに転がした。
うっかり落とさないようにと、しわくちゃで温かい手が、私の小さな手を支えている。
砂糖で少し白みがかった、紫のそれをじっと見た私は、そわそわしながら、おばあちゃんの顔を見上げた。
あげるよ、と、おばあちゃんは笑顔で頷いた。
口に放り込み、ころころと口の中で転がす。
とびっきり甘くて、ちょっぴり酸っぱい、ブドウ味。
その幸せな味に、自然と笑顔がこぼれた。
学校終わりの、楽しい帰り道。
友達と遊んだ後の、少し寂しい帰り道。
そんなときにおばあちゃんとすれ違っては、私に一個ずつ、手の上に飴玉を転がしてくれた。
赤、黄色、オレンジ、緑色。
そして、時々白色。
おばあちゃんが時々くれるそれは、全部が当たりのおみくじみたいだった。
それから、おばあちゃんが初めて飴玉をくれてから一年ほど。
「はい、どうぞ」
そう言って渡してくれたのは、ドロップ缶だった。
それを受け取ると、中身がずっしり入っていたものだから、私は驚く。
「え、いいの……?」
私が半ば申し訳ない気持ちで尋ねると、おばあちゃんは何も言わず、笑顔で頷いた。
その顔が今まで見た以上に穏やかで、私はなぜかどきりとした。
おばあちゃんがどこか遠くへ行ってしまうのではないかという、漠然とした不安を感じたからだ。
「でも……」
するとおばあちゃんは、ゆっくり口を開き、こう言った。
「こうして喜んでくれれば、あたしゃ満足だからねえ……」
おばあちゃんは静かにそう言い、腰を曲げながらゆっくりと歩いて行った。
その丸まった、愛嬌のある背中が遠ざかるのを、私はしばらくじっと見つめていた。
そしてその数日後に、おばあちゃんが亡くなったと聞かされた。
安楽椅子に座ったまま、穏やかに微笑みながら息を引き取った、と。
ああ、おばあちゃんは本当に遠くへ行ってしまったんだ。
雨の降りしきる空を窓越しに見ながら、私は大粒の涙を何粒も床に落とした。
あの太陽のような、温かい笑顔が好きだった。
あの笑顔と、一粒のドロップが、何度も私に元気をくれた――。
あの時のおばあちゃんはきっと、自分の死期を悟ってドロップ缶をまるごとくれたのだと、だいぶ後になってから気づいた。
自分はきっと食べきれないから、代わりに食べてほしい、と……。
このドロップ缶は、きっとおばあちゃんのドロップ缶だ。
捨ててしまったはずの缶が、私の前に戻ってきたのだ。
拾い上げると、案の定中身は空っぽだった。
厚い雲のわずかな切れ目に、ドロップ缶を掲げる。
そして、空のおばあちゃんにサインを送るように、軽く缶を振った。
私は何とか、元気に過ごしてるよ、と。
すると、どうか。
カラン、と小気味いい音を鳴らして、缶の中に何かが落ちた。